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テーマ:大日本帝国と其の周辺(580)
カテゴリ:大日本帝国興亡史
1946年1月1日、敗戦後最初の元旦、昭和天皇は現人神でない事を主張。
1947年5月3日、大日本帝国憲法は改正され日本国憲法が施行される、 改正憲法の「第四条:天皇の権能の限界、天皇の国事行為の委任」の第一項では、 「天皇は、この憲法の定める国事に関する行為のみを行い国政に関する権能を有しない」 天皇は主権者ではなくなり、日本国政府は主権を持つ日本国民の為の政府となった。 天皇の自称は「朕」から「私」に変わり、日本の主権回復に向けての検討が進む。 連合国軍に破れ米軍の占領下に置かれた日本だが、米軍に守られていた一面もある。 主権回復は軍事占領からの開放だが、安全保障は日本が解決すべき問題となる。 昭和天皇は主権回復後の「安全保障」と「天皇制・天皇家の存続」に対し行動する。 ●1947年9月19日に昭和天皇の「琉球諸島の将来にかんする日本の天皇の見解」が 寺崎英成宮内庁御用掛により対日占領軍総司令部政治顧問シーボルトに伝えられ、 その後シーボルトはマッカーサーと国務長官マーシャルにも伝えた。 ○「琉球諸島の将来にかんする日本の天皇の見解」 (昭和54・55年の国会議事録よりの纏め) 米国が沖繩その他の琉球諸島の軍事占領を続けるよう昭和天皇は希望する。 天皇は長期租借による、これら諸島の米国軍事占領の継続をめざしている。 天皇の見解では、日本国民は長期租借によって米国に下心がないことを納得し、 軍事目的のための米国による占領を歓迎するだろう。 さらに天皇は、沖繩(および必要とされる他の島々)にたいする米国の軍事占領は、 日本に主権を残したままでの長期租借(二十五年ないし五十年あるいはそれ以上) の擬制(主権の実態は米国)にもとづくべきであると考えている。 天皇によると、このような占領方法は、 米国が琉球諸島にたいして永続的野心をもたないことを日本国民に納得させ、 これにより他の諸国、とくにソ連と中国が同様の権利を要求するのを阻止するだろう。 └─── 寺崎からメッセージを受け取ったシーボルトの感想は、 「疑いもなく、私利に大きくもとづいている」 ○1947年9月19日の日付に関しては『寺崎英成御用掛日記』にも以下の記述がある、 昭和22年(1947年)、9月19日(金) 拝謁 沖縄島 シーボルトに会ふ 沖縄の話 元帥に今日話すべしと云ふ 余の意見を聞けり 平和条約にいれず 日米間の条約にすべし 〓勝手な意見〓 1951年09月:サンフランシスコ講和条約署名、日米安全保障条約締結 1952年04月:サンフランシスコ講和条約発効により日本は主権を回復 「サンフランシスコ講和条約」「日米安全保障条約」と「昭和天皇の沖縄メッセージ」 は無関係ではない、昭和天皇のメッセージに近い線で主権が回復されたと思う。 昭和天皇は「入江相政日記(1979年4月19日)」に於いて、 「蒋介石が占領に加わらなかったのでソ連も入らず、 ドイツや朝鮮のような分裂国家にならずに済んだ、 同時にアメリカが占領して守ってくれなければ、 沖縄のみならず日本全土もどうなったかもしれぬ」 と入江侍従長に述べている。 昭和天皇は、 日本が独立して占領軍が去った後も、共産勢力からの日本防衛を米国に依頼し、 その基地として沖縄を提供する。 ソ連と中国の軍隊を日本に置くことは反対で、 長期租借で主権を日本が持つことによりソ連と中国の介入を阻む事ができるとしている。 日本国憲法は天皇制を保障しているが、天皇のこのような行為を禁じている。 昭和天皇は憲法を守ることを重視していた事は天皇の文言に出てくる、 「開戦の際東條内閣の決定を私が裁可したのは、 立憲政治下に於ける立憲君主としては已むを得ぬ事である。」 は「昭和天皇独白録」の「結論」における昭和天皇の主張。 昭和天皇が日本政府に任せずメッセージを送った事には理由があると思える。 戦後の冷戦に於いて、日本の安全保障と日本の共産主義化の問題が発生している、 日本の共産化は天皇制の廃止と同義(戦後の日本共産党の憲法草案には天皇制はない)、 また、ロシアでの革命の際にロマノフ皇帝一家は全員銃殺された。 軍事力の空白は、日本の安全保障と天皇制・皇室の存続の危機でもある、 ソ連の核保有(1949年)・中華人民共和国の成立(1949年)・朝鮮戦争勃発(1950年)、 天皇の危惧は現実のものとなっていく。 ●補足事項 ○「昭和天皇の沖縄メッセージ」に関する国会議事録 87 - 衆 - 内閣委員会 - 7号(昭和54年04月17日) 87 - 衆 - 内閣委員会 - 8号(昭和54年04月19日) 87 - 衆 - 沖縄及び北方問題に関す… - 4号(昭和54年04月27日) 87 - 参 - 内閣委員会 - 8号(昭和54年05月22日) 87 - 参 - 内閣委員会 - 12号(昭和54年05月29日) 87 - 衆 - 内閣委員会 - 15号(昭和54年05月31日) 91 - 衆 - 内閣委員会 - 3号(昭和55年02月21日) ○戦後簡単年表 <1945年> 09.27:昭和天皇とマッカーサーとの会見(第一回)、奥村、米国大使館にて、全11回 10.09:幣原喜重郎を首相に新内閣(幣原内閣)成立 10.19:ニュルンベルグ裁判「起訴状」発布 11.20:ニュルンベルグ裁判開廷 12.04:梨本宮守正(元帥 陸軍大将 伊勢神宮祭主)、戦犯の逮捕==>数ヵ月後釈放 12.06:近衛・木戸、戦犯の逮捕命令 12.16:近衛文麿自殺(出頭期限日) <1946年> 01.01:天皇の人間宣言 04.29:極東国際軍事裁判「起訴状」発布 05.03:極東国際軍事裁判開廷 05.31:昭和天皇とマッカーサーとの会見(第二回)、寺崎 10.01:ニュルンベルグ裁判判決 10.16:昭和天皇とマッカーサーとの会見(第三回)、寺崎 <1947年> 05.03:日本国憲法施行 05.06:昭和天皇とマッカーサーとの会見(第四回)、奥村、会見内容をもらす:懲戒免官 05.24:天皇の自称が「朕」から「わたくし」に変更 『慶応義塾90周年式典に際してのおことば』1947年5月24日 『第一回国会開会式のおことば』1947年6月23日 09.19:昭和天皇の「琉球諸島に関するメッセージ」昭和天皇のメッセージを 寺崎英成宮内庁御用掛が対日占領軍総司令部政治顧問シーボルトに伝える 1948年12月:東条英機以下7名絞首刑執行 1949年09月:ソ連は原爆の保有を公式に認める 1949年10月:中華人民共和国は成立を宣言 1950年06月:朝鮮戦争勃発 1951年09月:サンフランシスコ講和条約署名、日米安全保障条約締結 1952年04月:サンフランシスコ講和条約発効、日本の独立 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2006.09.17 11:31:49
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