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カンデンの迷走日記

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2007年01月08日
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テーマ:たわごと(26751)
カテゴリ:日々の徒然
昨日は藤原定家と水戸光圀の黄門つながりという、つながってるんだかなんだかわからん話でしたが、きょうは百人一首の中身のことについてです。

百人一首には万葉集から選ばれた歌(和歌)がいくつもありますが、みなさんは学生時代とかに同じ歌なのに万葉集と百人一首とで微妙に違ってるやつにであったことありませんか?たとえば山部赤人の有名なこの歌とか。

百人一首では

田子の浦にうち出てみれば白妙の富士の高嶺に雪は降りつつ

万葉集では

田子の浦ゆうち出てみれば真白にぞ富士の高嶺に雪はふりける

万葉集の方は教科書や解説書などでも多少の違いはあるだろうけど「田子の浦」のつぎが「に」か「ゆ」かの違いはだいたい共通してると思います。これらの違いは万葉集が日本語を無理やり漢字で書き表してるような万葉仮名ってやつで書かれていて、しかも、それらの正確な読み方までは後世に伝わらなかったのが原因です。読み方が判らなければ内容も判らないわけで、だから昔から色々な人が歌の読み方や意味を研究してきました。だから読み方や解釈の仕方が時代によって変わっていたりするんです。

百人一首を選び編さんした藤原定家は一般的には歌人と認識されてますが歌論や歌学書と呼ばれる研究書の類も多く書いていて古典の研究者という学者の顔も持っていた人でした。

定家の時代は万葉集が編さんされてから五百年近くたっていたので、すでに万葉集の正確な読み方は伝わっていませんでした。つまり「田子の浦に・・・」は定家の時代の解釈による読み方なわけです。その解釈に定家が関わっていたかどうかまでは私にはわからないんですけどね。

その後、形骸化した万葉集の研究などを現代に通じるような研究分析へのきっかけを作ったのが水戸黄門こと水戸光圀だったりするんです。

水戸光圀は「大日本史」という歴史書を作ろうとした人で、その編さん作業は光圀の死後も受け継がれ明治時代にやっと完成しています。この「大日本史」を作るために光圀は彰考館(しょうこうかん)という今で言う研究所のようなものを作りました。この彰考館には万葉方(まんようがた)という万葉集を専門に研究する部署もありました。

この万葉方で万葉集の研究を光圀から依頼されたのが下河辺長流(しもこうべちょうりゅう)て人なんですが、この人は病気で死んじゃうです。その後、長流の研究を引き継いだのが契沖(けいちゅう)というお坊さんだったんですが、この人が「データ主義に基づいた実証的文献学」というのを実践した人だそうで、私のならった先生によれば「近代、現代の万葉集研究の基礎を築いた人」なのだそうです。

ちなみに「に」と「ゆ」の話ですが江戸時代後期になると賀茂真淵(かものまぶち)ていう超有名な研究者がでてきて、現在の万葉集の解釈で「田子の浦ゆ・・・」になっているのは、この真淵の研究の成果なのだとか。

さて2回にわたった百人一首と水戸黄門の話はどうでしたか?ほとんどこじつけた内容ですが、一応関係があるってことで(^^;

その1はこちら>百人一首と水戸黄門

   








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最終更新日  2007年01月09日 01時37分39秒
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