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水も滴る天徳貴人・kannosuke7の日記

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2012.01.01 楽天プロフィール Add to Google XML

[ 2365 ] あくまでも勁い心をもって

曇ってはいるが実に穏やかな元旦を迎えることができ、家族の平安と安寧を喜び、2012年壬辰平成24年の安泰な生活を願ってしまう。

新聞等の干支の絵が、昇り龍を凛々しく表現させた見事な絵を掲載しているが、だれしもが納得できる生き様の日々を送りたいものだ。

年末に読んだ松下幸之助翁の記事の中に、人は不運になっても不幸になってはいけないと、書かれていたことが強い印象で残っているが、事実まぎれもない至言だと思っている。

元旦だからおめでたいことだけを記載すれば好いのだが、生きる厳しさがあり世の中の決まりごとに生かされる日々を、何としても天命の恩恵を受けながら、清らかに穏やかに対峙をしていくことを目指している。

元旦のテレビ画面からは、お正月の縁起良い富士山の初日の出とか、各地の神社仏閣の初詣の様子が伝わってきているが、外見からは観ることができない、様々な願い事を真剣に参拝する姿は、人の持つ人間の素と器として窺え知れないものがある。

元旦の新聞記事にあった、アメリカの作家であるドナルド・キーン博士が、日本人が持つ心の勁さを、日本人以上の繊細さで評価をしていたことが嬉しくなる。

ドナルド・キーン博士は長年日本文化を研究されてきて、昨年の3月にあった東日本大震災に期を同じくして、長年の夢であった日本人となる帰化申請を決断された方だが、知る限りもっとも日本人らしい優雅な心をもった文化人である。

日本人として生まれ育っても、なかなか奥深い日本文学は馴染みが無く、古典の書籍も縁遠い学生時代が悔やまれるが、キーン博士の能力の高さと熱心な研究心の情熱を喝采しなければいけない。

国籍に関係なく、人の持つ感性と意識の高さが、どれほどの感嘆と感銘を得ることが出来ることを、キーン博士が教えてくれているようだし、奥深く理解をしようとする意慾こそが、人を凛々しく若々しくさせてくれるようでもある。

文学とは縁遠い人間を自認しているが、文学に限らない異文化の理解は、その人を豊かな心にさせてくれるようだし、包容力をもった人間の温かさが、人までも豊かな心にさせてくれる。

元旦早々に素晴らしいキーン博士の文章に出会えて、とっても嬉しくあり、人情を厚くもった人やロマンティストの勁さが如何に大切で価値があるかを、縁起良く教えてくれたお正月のスタートが出来たことが嬉しいく心丈夫である。

毎日は様々な情景をもって対峙をさせてくれていることに、難ありて感謝をし、無難に大きな感謝をし、あくまでも勁い心をもって、前を向き歩むことが肝心であるようだ。


Last updated  2012.01.01 20:28:55
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2011.12.31

[ 2364 ] それだけに一層の心掛けをして

威風堂々とは言わないまでも、淡々と正々堂々の心構えをする人として、常に虚心坦懐に生きることを心掛けていきたいし、できるだけ不平不満を吐露しない生き様を学んだ。

今年も大晦日を迎えて、ひたすら感謝の気持ちが大きく、様々な物事を経験することができたことが、とってもありがたいことであり、手を合わせて謝恩をするばかりである。

お蔭様で、様々な方々からありがたい教示を頂いたし、身に余る厚情を受け取ることもできた一年でもあったし、特に世話になっている方々からの情愛は、嬉しくも自分への御加護のありがたさを身に感じてしまう。

悩み苦しむことが多くあったが、すべてのことは自身の因果があってのことと自戒し、そうした自己管理もできる余裕ができた。

因果応報の教えではないが、年齢に関係なく反省をする素直な気持ちが大事であるし、何かというと人のせいにすること、物の性にすることが往々にしうてあるのだが、ものごとの摂理を理解するべきである。

善悪や正邪は何時の時代も環流しているし反復しているのだから、それが当たり前のことと真摯になって対峙していけば、この世の中は天上天下の流れを俯瞰することができるかもしれないし、素朴になって皆さんからの理解を得ることができるだろう。

一年が過ぎ去る大晦日に思うことは、元旦を迎える新年は年齢を一歳加齢するし、67歳の新年の一年間を、先ずは何よりも健康第一、家族ともども家内平安を願いながら、どうしても難儀を乗り越えていく必然を実現させてみたい。

勇気と忍耐力をもって、正直に親切に愉快にして、信念をもった日々を淡々として生きていくことこそ、我が人生の大道無難としたいものだ。

刻一刻と新年に向ってカウントダウンがされているが、去る一年間に大きな感謝をして、迎える新年を元気に輝かしくできる頑張りを、しっかりと果たしていくことを誓ってしまう。

一人だけの願いや希望でなくして、世の中の全てが希望に満ち溢れた明るさをもって、助け合い尽くしあえる思い遣りも、大切に心においていこうと思う。

姉が亡くなってから、多くの方々からお悔みや慰めの声掛けをして頂いてきて、この年末と年始はお祝いが出来ないが、それだけに一層の心掛けをして、価値ある一年間を振り返り価値ある新年にしていかなければいけない。


Last updated  2011.12.31 22:09:31
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2011.12.24

[ 2363 ] 幼い小心者な証拠であることを認識しながら

何回も何回も繰り返して発信をしても、その度に不具合で配信できない旨の案愛メッセージが届いてしまう。

メールアドレスを確認して、できることをしても、日を改めても同じ結果に気が滅入るのだが、執拗に繰り返して配信の作業をしている自分がいて、作業をしながらどうすれば良い結果がでるのか、無い知恵を巡らせてしまう。

年明け早々に東京である研修セミナーの案内と、参加を問うメールを出して、参加の集計をしているのだが、10数名から返信されてくる内容で、その人が持つ個性が伝わってきて、人を俯瞰してみれる機会にもなっている。

返信や応答が素早い人もいれば、遅々として反応が無く、待つ身である立場がとても不愉快に感じることになるのだが、気にするほど気分的な不快感が増してしまうもの。

その人の考え方や価値観の差異があり、基本的な人様との礼節を理解するのであれば、配信がされたら適度な日で持って確実な返信をするべきであろう。

問い合わせる内容の返信をすることで、自分の責任を果たすことができるし、その返答の内容でその人の持つ徳目が伝わってくるし、人間性の発揮のしどころでもあるから、たかだかメールの返信で解釈されたら軽薄だと思う。

メールを受けとっても内容を把握しても、だんまりの無視をする根性が分からないし、その人の心魂にある性格が理解できないのだが、こうした悪癖を持つ人の中には、一見した外聞が良さそうな責任ある立場の人もいる。

此方とすれば人格者であると評価をしている人からすれば、あまりにも大きな差異がショックであり、期待を裏切られた失望感が大きくなる。

世の中で一応の評価を頂いている人であればあるほど、自覚する責任感は比例するだろうし、自覚をする必要があると信じてしまう。

メールの返信一つをもって、その人となりを評価すること自体が稚拙であるかと、自問自答をしてしまうのだが、たしかに、人は人としてみれば、自分の生き様を確りと構築させて、人から懐疑心を持たれないようにすることが肝心なのかもしれない。

人の振り見て我が身を正すこと、こうして吐露を書き込んでくると、改めて自身の生きる姿勢を正すことを、もっともっと厳しく見つめ直すことが肝心であると気づかされているようである。

まだまだ幼い小心者な証拠であることを認識しながら、稚拙な文章を書きこんである自身に、もっともっと叱咤激励が必用でもあることも反省をしている。

Last updated  2011.12.24 16:45:22
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2011.12.15

[ 2362 ] これからの天命を全霊で受け止めていこうと念じる

4時間の経過とともに疲労感が強まり、身体が火照っていくのが分かり、おそらくは耳たぶが赤くなっているのかと思いながら、熱気をもった会議室の机にむかっていたのだが、対面する二人の担当者も、顔に赤味の熱を帯びている様子が分かった。

机を挟んで座った三人が、お互いに向き合いながら試行錯誤の会議をしていたのだが、暖房の性ではなく身体の奥から方出する熱気が、真剣な思考のエネルギーとなっていたのだ。

さすがに時間経過とともに、三人の疲労感がピークを迎えたようで、どうしても緊張感が途絶えることになり、会合の最後には目が虚ろな情況で終わることになった。

長い年月の懸案する事項につき、三人よれば文殊の知恵になると信じて、いつも同じメンバーで討議をしているのだが、抱える課題が大きいのか、なかなか一気呵成の解決策がみつからなくて、いつも進捗悪く往生をしてしまう。

こんな時に思うことがあって、人間の力量では図ることのできない天真があり、すべての決め事とは、天命の大きな力によって加減されているように思えてしまうのだ。

順調な時の天真もあれば、不調の時の天真もあり、大自然界のさじ加減は魔力そのものである気がするし、他力本願だけでない天命の真実が宿っていることを理解する。

宇宙大万物の中で生きる我々人間は、いかに謙虚になって人間性を磨きあげる心構えがあるかを、確りと見極められているようで、ひたすら大自然界から認知されるかの判断をされているように信じてしまう。

どんな時にでも、その人が備える徳や人間性が価値を持つのであって、傲慢な人欲では信頼を得ることはできないし、お互いの徳を感化し合う豊かな心は生まれてこない。

何時も良心をもって心穏やかな生き方があれば、きっとどんな困難なことにも、確りと対峙をすることができるし、天真が加護をしてくれると信じてしまう。

三人よれば文殊の知恵の会合仲間も、打開策を試行錯誤する中で、いつも結論が同じような落としどころとなってしま事が不思議なほどである。

物事は無理強いしないことを心掛けて、しっかりと落ち着きを払うことが、最善を迎え入れる最高の言行となるだろうし、ことをやたらと性急にしないことも大切な心構えとなる。

達観してしまうと、あまり物事の差異に気を持たなくなって、俯瞰する大局的な判断ができることが嬉しくなり、難儀で苦しむことが無くなっている自分を知るのだが、物事の解決に向けての念力だけは、いつも新鮮で屈強になっている。

奢ることなく、時流からの天真に素直な心構えをして、これからの天命を全霊で受け止めていこうと念じるし、文殊の知恵が大きな果実を産むことができることを、心強く静かに待ちたいものである。


Last updated  2011.12.15 19:30:27
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2011.12.12

[ 2361 ] 溌剌さのある元気を伝えることが出来るように

最近撮影された、集合写真を見ながらショックを受けているのだが、撮影された自身の写真からは、自分の顔や仕草や内面の身上状況まで露呈させられるようである。

我が身を露呈すれば、艱難辛苦の状況は10年近くも引きずって、家人や知人の応援を貰いながら頑張っているのだが、すべてに自己責任として覚悟をしてきたし、時々の最善な施策をしてきた心算であるが、強欲な内面は自己保持の虚勢を張っていた昔が見え隠れする。

自分の雅量を過分なまでに評価をしてしまい、時代背景や世相の力から享受できたものを、すべてに自分自身の力量として納得していた時があり、まるで太っ腹な拝金亡者そのままであった。

バブルが弾けて社会の構築が崩れたり、経験則がまったく役立たない社会を迎えてしまい、歴史の寄り戻しが読み切れない時代背景では、経営才覚がない者としては、不況の嵐の中ではうまい対処が出来ないまま過ごしている。

そんな最中に2年ほど前のこと急逝心筋梗塞を患い、不安の日々を重ねていた心労が重なってか、健康維持のための減塩や体重維持の食事療法もあって、身体が小さくなってきていた。

最高10キロも減量をしてしまうと、衣類もぶかぶか合わなくて尚更身体が貧弱になるのかもしれないが、それ以上に感じているのが、顔の相の豊かさがなく張りもなく貧弱であるし、身体から発散されるパワーも衰えてしまう。

10名の仲間と揃って一列に並んだ姿から、他の元気な仲間と比べてしまい、写真のなかでも溌剌さが欠けているのが明白である自身の姿を観るのは寂しいものがある。

かといって空威張りに虚栄をはっても意味が無く、あくまでも自然体のなかから人格が発揚されることが最善であり、内面にもつ品性とは極自然に滲み出るものだと信じてしまう。

加齢からくる老いた人の体形も味わいがあるが、そこには内なるカリスマ的魅力を望んでしまうし、相応な品格を醸し出す自覚をもちたいものである。

写真で観る我が姿を良き機会にして、常に意識を発揚させてみたいし、他人からも貧弱な老人をイメージさせることなく、溌剌さのある元気を伝えることが出来るように、気をつける意識をもってみたい。



Last updated  2011.12.12 19:28:25
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2011.12.11

[ 2360 ] 全てに起こる因果応報は自分のなかにある

昨日は、所属しているロータリークラブで、ロータリアンはもっと自己の人格形成に向けて研修をする必要があると、地区の委員会が主体になって研究会が開催されたのだが、力量不足であったが精一杯のお手伝いをしてきた。

このお手伝いのメンバーに駆り出された理由とは、他地区で先行して開催している、研究会に出向いて勉強をしてきた経験をもって、仲間の地区委員の方が声掛けをしてくれ、デスカッション・リーダーの要請がされたのだ。

まだまだ人前で、リーダーの役目を実践できる実力が無いことを、自分が一番良く知っているところだが、学んだことがどれほど自分に身についているのかどうか、その試に丁度良い機会と理解して参加をしたところである。

簡単には、思うようにいかないものであり、自分なりのイメージどころか、グループ討議の進行だけに注意力が傾注してしまい、参加されたメンバーとの討議は上手く噛みあわなかった。

与えられた一時間であったが、まったくもって初めてのことであり余裕もなく、他地区に行って受講した立場が逆転した経験をすると、相手のリーダーの立場を理解することができた。

ともすると、リーダーの良し悪しを決めつけたり、安易な批評はできないことを、しっかりと認識させられた。

この世の中では、常に相手が有って成り立つ日常生活があるのだが、すべてが自分の思惑通りにはいかないものであるし、自分が悦に入れられる気分の最高な情況は、なかなか滅多には体験することができないものである。

昨日の研究会にしても、何度か受講をして経験をして準備をしたにも拘らず、リーダーの立場を思い遣る良心が欠如したことを反省する。

交流する多数の相手がいることは、様々な個性と意思をもち人格を形成する他人を相手となると、同じ状況を体験していても、その体感と価値となると討議場面の結果想定はできないものである。

参加してくれたメンバー一人一人は、意識の強さや、目的意識にむけた意欲が全く違うし、全ての人とが波長が合った良縁者ではないことを知るべきである。

リーダーとして初体験をさせて貰えた経験を喜ぶべきで、研修の成果もあるが、それ以上に良き機会を得れた恵みに感謝をすべきなのだろう。

ましては、研修の成否をメンバーの波長が合わないことの性にすることが、非常に情けなく思うし、たとえ相手に瑕疵があったとしても、リーダーとしての資質や学力を見据えていくべきだろうから、千差万別なメンバーが師の立場なのだろう。

全てに起こる因果応報は自分のなかにあることを理解することを再認識でき、世間は師であり続けさせるも、すべてに自分の意識により決まるのであるから、積極的な自己研鑽に励んでいきたいものだ。


Last updated  2011.12.11 21:15:39
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2011.12.09

[ 2359 ] 今後の人生に正直な心をもって精進を心得

母親の4人の兄弟と4人の姉妹は、いろいろな個性をもった叔父叔母であり、物心がついたころから、違った個性の人々との交流を楽しみにするようになった。

父方は叔父と叔母が一人ずついて、ごく近所で共棲していたから非常に淡白な、家族の一員として馴染みが深くあったが、母方の叔父叔母たちは、それぞれ市内の遠方に居を構えていた関係で、遠方からの来客として実に新鮮に迎えることができた。

市内各所にいる親類のお蔭で地理勘が良くなって、子供の割には世間に明るいし、耳歳寄りのように話題が豊富であった記憶をもっている。

時々に入れ替わり訪ねてくれる叔父叔母たちは、お正月を迎えるような新鮮さをもっていて、マンネリ化している我が家に新風や期待感を届けてくれるほど、子供にとってはサンタクロースの存在でもあった。

大勢の叔父叔母は心の中では宝物の存在であり、個性をもった一人一人の来家が嬉しくて仕方なかったし、ましてや宿泊をしてくれている時には、学校からの帰宅も早くなり、小躍りして下校したほどであった。

そんな思い出を作ってくれていた叔父叔母たちも、年々寿命がきて一人欠け二人欠けてしまい、今ではたった二人の叔母がいるだけであった、

そのうちの一人の叔母が昨日亡くなったことが伝えられ、今朝ほどお参りさせて貰ったのだが、小さくなった亡骸は長い闘病の辛さを物語っているようで、思わず、叔母さんよく頑張ったと、声を掛けてあげながら身体に手を当てて伝えてあげた。

今年は年明けと同時に同年代のハトコを見送り、夏には実姉を亡くし、つい先日には一つ年齢が下の従兄弟が急逝したばかりであり、若い者が天国に召されていくのも辛いものがあるのだが、子供の頃に大事な存在であった叔母との死別も物悲しいものである。

叔父叔母たちが家に来てもらえるだけで、心ウキウキした子供心の純粋さを、初老の身にありながら改めて、心にするべき大切な要素であることを再認識してしまう。

現代の子供達には親類の叔父や叔母たちから、こうした損得の無い純粋無垢な感動は得れる機会があるのだろうか、機会があったら聴いてみたいものである。

天国に召された家族や親類縁者の皆さんが、きっと心強い応援をしていてくれるに違いなく、難儀な日々の頑張りを励みたいと思う。

叔父や叔母の存在が少なくなってしまったが、せめても、素敵な叔父として慕われる存在として、今後の人生に正直な心をもって精進を心得ていきたい。


Last updated  2011.12.09 17:41:41
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2011.12.08

[ 2358 ] 善人の価値を求めて努力をする姿

人間とは生かされているのですねーと、何度も電話で耳にする相手の方は、年齢が85歳になる先達の方で、毎日元気にコンサルタントの仕事をして、合間には庭木の手入れや父親譲りの俳句の投稿をしている。

若いころと変わりがない、とっても張りのある声と滑舌が素晴らしく、ついつい愚痴で甘えてしまうほどお元気で、相手の先達を若い時そのままに語りあってしまうほどだ。

きょうも仕事の確認の電話を入れて頂き、直面している難問題の進捗を聴いてもらったのだが、多くの方が関与している難問題の事情を理解してくれ、励ましのエールを沈着冷静にしてくれたのだ。

人の能力や評価はどのようにするべきであろうか、時々やその環境によっても大きく違うのだし、時流のなかで捗られること事は、一時に安易に判断ではできないことになる。

時代背景にもよるし、何よりもその人のもつ資質や品格から醸し出される運もあるだろうし、安易には人の評価はするべきではないと思っている。

最近になってから毎朝誦句するのだが、その中の一つが、天を恨めず人を咎めずと言う言葉なのだが、この言葉とて若いころには思いもしなかったし全く無視をしていた意識である。

年齢と共に経験をしなかったことが重なり、色々な環境を体験してから俯瞰できることができ、その見方や価値観にも、人となりの格幅ができてくるのだろう。

つねに虚心坦懐になって、素直なこころでもって世の中に接すれば、人様に悪い印象をあたえないだろうし、すべてを受け入れる度量であれば、そもそも小心な人間関係を詮索することもなくなる。

全てを受け入れる器量をもって、孤高にして、確りと自分を律することを心得ているし、損得でない善悪を考えられる人となりを身に着けていきたいものだ。

そんな無欲な善人である方が、電話で話をした85歳になる先達なのだ。

今迄も様々なことを学びさせて貰ってきたが、波乱万丈の不透明な今こそ、こうした善行を淡々と実行することを目指して生き、いずれは他人にも感化ができる自分でありたいものと願ってしまう。
善人の価値を求めて努力をする姿が、神々しく存在価値を高めることを、一人静かに楽しみができた。


Last updated  2011.12.08 23:48:22
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2011.12.07

[ 2357 ] 敬天愛人をおおいなる崇敬とさせること

生きているなかでの人様や物事のご縁とは、まったく自分の意志ではどうすることもできなく、摩訶不思議な力量をもった世界の魔力に、不思議な思いを巡らすことが多々ある。

何年間にもわたって、自己責任の負債をもった環境があるのだが、けじめの為に打開に向けての努力はしているものの、一気呵成の妙案が無くただ日々が過ぎ去ってしまう。

今日は24節季の大雪だそうで、朝晩はめっきり冷え込んできたし、朝の灯明時の声明が吐く息が白くなってきたし、手足の先がしびれが日増しにきつくなってきた。

毎朝には、仏壇に先祖代々の皆さんに供養の読経をし、自前の呪文を唱えているし、勿論のこと神棚にも同じように拝礼と呪文を唱えることにしている。

読経は菩提寺から頂いた真言宗の妙本があり、自己流につっかえつっかえ声明しているが、毎日の健康状態によって、その時々のインスピレーションをもって、様々なスタイルの読経や呪文が唱えられている。

ここ数年だが、こうした体験をしていると、時々の心理状態によって読経のスピードが変わり、発声の調子が違ったりして、ど素人なりに読経の苦労をしているところだ。

どれほどの効果が有るかよりは、つねに)冷静さをもって、素直な心を誠心誠意表現させて、自分自身に認識を高めることが大切だと認識し、読経を自己修業と心得てしまう。

艱難辛苦の現状から逃避をするのではなく、一層の重き責任を感じ取らなくてはいけないし、その果たせる役目を真摯に夢中で捗らせたいと覚悟をしている。

よく、世の中の性や人の性にする人が多いのだが、そんな人に出会う時には、一日も早く進化した自責を果たせる、自分自身を形成しなさいとアドバイスをしたくなる。

反省することは、今でこそこうした心境になれたが、若い時からを振り返れば尚更のこと、自我の欲を強くだしていきり立っていた若造の頃があったからだ。

物事がうまく動いている時は怖いものがなく、まるで自分がスーパーマンと錯覚してしまう愚かな人になるのだが、この反動の大きさで目を覚ますこととなる。

そんな懺悔をするために、毎朝の読経と呪文となっていて、神棚への柏手とを欠かさずにおこなっていることが嬉しく、なぜか自信をもって誇らしくもなるのだ。
こんな厳しい環境にあっても、毎日健康に家族ともども食卓を囲めることが、何よりの家宝となっているし、大きな支えになっている現状に、素直に喜ぶことにしている。

自然法爾をこころにさせて、いつも明るく朗らかに精神の統一を専念させて、他力本願でない自責をもてる人間として、しっかりと自己形成させていこうと念じている。

そのために神仏への祈願は貴重な学びの場とさせるべく、敬天愛人をおおいなる崇敬とさせることを、心の支えにできる幸せ感を享受している。


Last updated  2011.12.07 21:12:53
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2011.12.05

[ 2356 ]いつも一緒にいてくれることを信じている

なにかと母親にすがり頼っていた幼稚園児のように、幼い子供心に還ってしまったようで、日常の生活空間において、ふと母親の存在が幻想されてしまい、現実の中に覚醒のように両親や姉の存在が強く感じることが多くなってきた。

今でこそ、一家の大黒柱であるべき自身の立場だが、すっかり自信喪失にさせるに相応しいほど、幻想的に思い起こさせる、母親と姉の存在に依存をしている姿がある。

なんとも情けなく、なんとも不甲斐なき反省の自己弁論にせざるを得ない時がままあって、滅入る気分に追い打ちをかけてしまっている。

がむしゃらな働き者で子供思いの母親であったし、愚弟思いの姉であった母娘二人は、肉親を超越した人間的な大きな度量をもった人であった。

育児とは母親であれば当り前なのかもしれないし、10歳年上の姉であれば当然であったかもしれないが、姉弟の年齢差が違いすぎると、まるで二人の母親に育てられてきたのかもしれないと思えることは、本人たちもそうした意識を持っていたと思えるのだ。

古びた家屋の隙間風のように、薄暗い何度の中のように、子供の時味わった昔の郷愁がまるでそのままに覚醒されてくることは、還暦をはるかに超えて古希を迎える大の男が味わうことなのか戸惑うのである。

いまだ親離れがされていない、幼い精神状態に加えてとんだ幻想を味わっていることは、自分の意志に関係ない何か自然界の力が作用している気がしてしまう。

他人のせいにするのでなく、幼稚な発想をするのでもなく、現実にある大きな影響をおよぼす、非科学的な別世界との交流がされているとしたら、どんなにか現実的な解釈ができることだろうか。

全てが解決されることばかりでなく、非日常のなかでの作用はきっとあるに違いないし、だからこそ未知の宇宙が存在していると思ってしまうのである。

それが神仏の世界かも知れなく、深い知識もない何となくの曖昧な思いの中から、今回の幻想が感じ取れるのかもしれないけど、きっと天国からの愛する父母や姉の激励が真実の応えであると信じてしまう。

全てに虚栄をすてて、しっかりと甘えることに納得した老いた自分とは、所詮は甘えん坊のままであることを誇ることにした。

父親も母親も姉の魂は、いつも一緒にいてくれることを信じていることを、改めて確認できたことが覚醒のように気づかされているのだろう。


Last updated  2011.12.06 00:17:19
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