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最近撮影された、集合写真を見ながらショックを受けているのだが、撮影された自身の写真からは、自分の顔や仕草や内面の身上状況まで露呈させられるようである。
我が身を露呈すれば、艱難辛苦の状況は10年近くも引きずって、家人や知人の応援を貰いながら頑張っているのだが、すべてに自己責任として覚悟をしてきたし、時々の最善な施策をしてきた心算であるが、強欲な内面は自己保持の虚勢を張っていた昔が見え隠れする。 自分の雅量を過分なまでに評価をしてしまい、時代背景や世相の力から享受できたものを、すべてに自分自身の力量として納得していた時があり、まるで太っ腹な拝金亡者そのままであった。 バブルが弾けて社会の構築が崩れたり、経験則がまったく役立たない社会を迎えてしまい、歴史の寄り戻しが読み切れない時代背景では、経営才覚がない者としては、不況の嵐の中ではうまい対処が出来ないまま過ごしている。 そんな最中に2年ほど前のこと急逝心筋梗塞を患い、不安の日々を重ねていた心労が重なってか、健康維持のための減塩や体重維持の食事療法もあって、身体が小さくなってきていた。 最高10キロも減量をしてしまうと、衣類もぶかぶか合わなくて尚更身体が貧弱になるのかもしれないが、それ以上に感じているのが、顔の相の豊かさがなく張りもなく貧弱であるし、身体から発散されるパワーも衰えてしまう。 10名の仲間と揃って一列に並んだ姿から、他の元気な仲間と比べてしまい、写真のなかでも溌剌さが欠けているのが明白である自身の姿を観るのは寂しいものがある。 かといって空威張りに虚栄をはっても意味が無く、あくまでも自然体のなかから人格が発揚されることが最善であり、内面にもつ品性とは極自然に滲み出るものだと信じてしまう。 加齢からくる老いた人の体形も味わいがあるが、そこには内なるカリスマ的魅力を望んでしまうし、相応な品格を醸し出す自覚をもちたいものである。 写真で観る我が姿を良き機会にして、常に意識を発揚させてみたいし、他人からも貧弱な老人をイメージさせることなく、溌剌さのある元気を伝えることが出来るように、気をつける意識をもってみたい。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2011.12.12 19:28:25
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