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堕天使のトリック

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2008.08.10
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 曽祖父文ジョンフル先生

先生を中心として見る時、先生の歴史、先生の先祖の長い間の歴史がありますが、特に先生の四代上の先祖である曾祖父の話をしないわけにいきません。

そのおじいさんの時代から先生まで、四代を中心として見れば、私の曾祖父の時に、今の上思里に新しく引っ越してきました。
夫婦が故郷を離れ、引っ越してきて、本当に難しい環境で出発したのですが、天が祝福してくださり、その当代に成功し基盤を築いたのです。


その方に、三人の息子がいました。その三人の息子の中で、私のおじいさん(文致國氏)が長男でした。
その次には文社長のおじいさん(文信國氏)、その次には城州のおじいさん(文潤國氏)がいました。
我が家が本家でしたが、曾祖父の時には本当に豊かに暮らしたといいます。天から多くの財産を祝福されたために、その近隣地域では有名な家門でした。


 従祖父文潤國牧師

私のおじいさんの代を見れば、三兄弟がいましたが、末っ子のおじいさんは牧師でした。
このおじいさんは、三・一独立運動の平安北道の総責任者として、全国の責任者たちと内密に計画をしてきました。
そして、五山学校の職員と生徒および教会信徒、五山住民たちを率いて、万歳示威運動を繰り広げました。
この時、主謀者として日本の憲兵に逮捕されることによって、獄中で苦しい生活を二年間されました。
獄中の苦しみから放免されてからも、故郷で楽に暮らすことができず、一生の間他郷暮らしをされました。
日本の警察の迫害から身を避けながら、江原道旌善で生涯を終えられたのです。

すべての財産が、おじいさん(文致國氏)に相続されたのですが、そのおじいさんの牧師だった弟(文潤國氏)が、その財産を担保に取られ、すべて使ってしまったので破産してしまいました。
それこそ、私の家は一瞬にして破産してしまったのです。
そのことによって、私の家の人々は、苦労をたくさんしました。

そのあとには、そのおじいさんの弟が他人の鉱山まで売ってしまったといううわさが立ちました。
その当時、信徒の中に鉱山をもっていた人がいたのですが、その信徒の鉱山まで売ってしまい、なんの音さたもなく消えてしまったというのです。

ですから、おじいさんも甥たちもそのように思っていたし、文家全体、村全体、近くの村までも、そのように思っていたのです。
ところが、そのおじいさんの弟がもっていたお金がどこに行ったのかというと、上海臨時政府に行ったのです。

その時のお金で七万円ならば、相当に大きいお金ですが、そのお金を全部上海臨時政府に送ったのです。
そのようなことをしながら、結局外地で世を去りました。そのようなことをしたので、天が愛することのできる立場に立つことができたのです。
それこそ自分のすべてを犠牲にし、信徒を犠牲にし、門中を犠牲にする立場に立って、国のために一生、放浪者として過ごしたのです。

先生が韓国に下ってきた時、親戚といえば、その方しかいませんでした。
夢に、その方が血族の従弟(文龍基長老)に現れて、どのようにして亡くなられたのか、一部始終を説明して住所を知らせてくれたので、その住所をもって従弟の龍基がそこを訪ねていきました。
訪ねていったところ、その時は既に従祖父は亡くなられていて、すべてのことが夢に現れたそのままで、間違いないとのことでした。

私の従祖父は、死んで旌善の谷間に埋められたのですが、それがどのようにして分かるのでしょうか。
多くの試練の中でも国を愛し、監獄に行ってもどこに行っても、国を愛する一念を中心として、国の相対的基盤を備えるための教育をしました。
そのような基盤があるので、いつ来ても活動できるのです。ですから、直接来て教えてあげることができるのです。
そして、文龍基長老も啓示を受けて、従祖父が暮らしていた住所を教えてくれたので、探し出して城州に迎えたのです。

私が幼い時のことです。数えの七歳か八歳くらいの時でした。従祖父が日本人たちに捕まえられて、二年近く監獄生活をして出てきました。
従祖父が監獄生活をしているので、独立軍の軍資金の調達に支障が生じ、どれほど困難に遭遇したのか、従祖父が出てきたという消息を聞いて、独立軍たちが夜中の一時、二時にも人目を避けて訪ねてきました。

母と父は、私たちのような子供は布団をかぶせて見ることができないようにし、そばを煮込み鶏を料理して彼らを接待しました。
そのようなことがきのうのことのように、目にはっきりと浮かびます。
その時、私が考えたことは「あのように立派な従祖父が、国のために生きてきたのに、なぜ監獄に行かなければならないのか。
日本よりも韓国がもっと強かったら、このような姿に、このようなことにはなっていないはずなのに、力がないのでそうなのだなあ」と結論を出したのです。
(真の御父母様の生涯路程 1)


文潤國先生は、その年3月に阿耳浦面の裏山で開催された数千名の万歳運動を主導されました。
五山学校の時にも指導者として活躍されました。
先生は万歳運動の途中、日本の守備隊の槍と剣に3回も刺される渦中においても屈せずに闘争を続けましたが、遂に昏倒し、逮捕されました。

その後約4ヶ月間、激しい拷問を受け、一審と覆審で2年の刑を言い渡されて、服役していた当時、日本の王世子(皇太子)の婚礼式を期に、特赦で刑が半減され出獄されました。出獄後、文潤國先生は想像を絶することを決行されました。

文潤国先生のお兄さんは文致國先生で、この方が即ち文鮮明総裁のお祖父さんになるのです。文潤國先生はお兄さんに、秘密裏に上海臨時政府に独立資金を送らなければならないということを強く勧められました。

平素から弟の業績をよく知っている文致國先生は、憂国の意を共にし、家門の全財産を献納されました。
田畑などを東拓に売って、当時のお金で7万円という大金を工面され、満州に居住する金粛済牧師を通して上海臨時政府に独立資金を送られたのです。

ところで、その当時の状況において、財産を全て売り払って独立資金として送ったという噂を立てることが出来るでしょうか? 出来ません。
それで文潤國先生は株式に投資して失敗し、鉱山に投資して滅んだという噂を流し、真実を隠されたのです。
(1994年12月12日「愛国志士文潤國先生追悼及び建国勲章受勲顕彰会に於ける郭定換先生の追悼の辞」)


出監した翌年、潤國氏は、満州に住む金粛済牧師をとおして独立軍資金七万円を上海臨時政府に差し出しています。
三千円もあれば教会の礼拝堂がつくられた時代ですから、七万円は大金でした。
しかも、自分の財産はもちろんのこと、長兄(致國氏)の財産まで密かに売り払い、捻出したのです。
(「聖地定州」 武田吉郎著 光言社)



文潤國氏は1919年3月1日の独立運動で地方のリーダーだったそうで、2年の刑を言い渡されて、特赦で刑が半減され1年で出獄したそうですが、その頃文氏は数えの七歳か八歳くらいだったそうです。(笑)

3千円もあれば教会の礼拝堂がつくれた時代に7万円工面したそうですが、現在なら普通の家を建てるのに(土地を考慮せず)2千万円位でしょうか?
礼拝堂の建設費といってもピンときませんが、安くて5千万?~1億円位でしょうか?
それで計算すると1円の価値が現在の1.7万~3.3万円位になりますから、7万円は現在の11億~23億円位になります。

上思里に新しく引っ越してきた曽祖父の文ジョンフル氏が、奇跡の大成功を収めて全ての財産を文致國氏が相続したとします。


seika0046.JPG


仮に、所有していた田畑を全部売却したとしましょう。

平成17年の田畑の売買価格を調べると、農地価格の全国平均が10アールあたり155万3千円。
http://209.85.175.104/search?q=cache:7JOmLTiTzF8J:www.nca.or.jp/nca/cyousatoukei/denpata/denpata17.PDF+%E8%BE%B2%E5%9C%B0%E4%BE%A1%E6%A0%BC&hl=ja&ct=clnk&cd=2&gl=jp

10アール(10m×100m=300坪)で155万3千円。
1ヘクタール(100m×100m=3000坪)で1553万円。
当時の7万円が現在の11億~23億円ならば、とても個人で工面できるような金額ではありません。

それから送金先の上海臨時政府ですが、アジア歴史資料センターの資料『関東都督府政況報告並雑報』には、下の写真のように書いてあります。
http://www.jacar.go.jp/


tainou0061.jpg


1921年11月12日付けによると臨時政府は、上海佛租界新民里十四号の支那人家屋一棟を月70円で借りているが、財政困難により家賃を3ヶ月分滞納し、督促を受けていたそうです。
本当に7万円送金したなら家賃は滞納しないでしょう。(笑)


私の三番目のおじいさんに、政治的な風土があれば良かったのですが、純真なキリスト教の牧師でした。
李承晩博士が帰ってきて国を立てたのですが、私のおじいさんを必要としたのです。
旧学問に精通し、新学問に精通しているので、旌善にいる時、ヘリコプターで三度も迎えに来たのです。
そのようにしても「あー、私は政治はしないよ。信仰する人が政治をすることは……」こう言ったのです。
こうして李博士と一つになれなかったのです。もし李博士と一つになっていれば、どんなに素晴らしかったでしょうか。
私が理論を中心として私の従祖父を説得しさえすれば、李博士一族と環境与件、キリスト教幹部のすべてのことを消化するのは問題なかったでしょう。・・・・・
(真の御父母様の生涯路程 2 韓国解放と摂理の出発)



文氏は、李承晩が建国時に文潤國氏を必要としたと語ります。
統一協会でも、文潤國氏が大臣にでもなっていれば、神の摂理は大きく前進したと教えています。
ところが文潤國氏は当時、ソウルから約200キロ離れた江原道旌善郡に住んでいたので簡単に会うことはできません。
そこでヘリコプターでひとっ飛びして、三度も迎えに来たと語ったのです。

ヘリコプターが初めて韓国の空を飛んだのは1950年の朝鮮戦争の時です。
アメリカ軍によって実戦に投入され、負傷者の救出と搬送に大活躍して「慈悲の天使」と呼ばれ注目を集めました。


bell47[1].jpg


bell47[2].jpg


大統領を護衛するシークレット・サービスは当初、単発の航空機は危険という見解を強硬に主張した為、アメリカでベルH-13Jヘリコプターが初の大統領機として採用されたのは1957年(アイゼンハワー大統領当時)のことでした。


bell,h-13j.jpg


アメリカ製のヘリコプターが諸外国に輸出されるようになったのは1950年代からです。
1948年の建国当時、李承晩は一体どこの国のヘリコプターを買ったと言うのでしょうか?(笑)

李承晩と文潤國氏の関係自体は不明なので、友人だったとだけ言えば誰も分からないのです。
しかし文氏は、話をもっともらしくする為に『ヘリコプター』などと余計な嘘を吐いてしまった為、話の信憑性は『地に堕ちて』しまいました。







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Last updated  2008.08.11 01:18:09
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