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2005年11月28日
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カテゴリ:戦争映画
1963 松竹 監督:野村芳太郎 
出演者:渥美清、長門博之、左幸子、中村メイコ、桂小金治ほか
99分 カラー


 棟田博の原作をもとに映画化。登場人物の一人でもある原作者の目から通した、渥美清が演じる、純でおとぼけな主人公、山田正助(山正)の兵隊生活と戦後の生活を描いた純朴なヒューマン映画である。渥美清の木訥とした好演でコメディ的な箇所も随所に見られるが、全体的には戦争という因果にふりまわされた切なさの方が強い。純朴であるが故に、天皇陛下への近しい感情と尊敬の感情が混雑するのが逆に悲しさを誘うのだ。また、戦友役の長門や上官役の役者の演技も実に味があり、ストーリーに幅が出てそれなりに楽しめるのだが、やっぱり最後には、儚さや切なさがつきまとう。
 また、原作者の視点ということで、山正と離ればなれになっていた時期は空白となって全く語られない。山正という独特の人物像をもっと知りたいという欲求も出てくるが、あえて語らないところで客観的に見据えることができる。ちょっと離れた視点で見る事によって、山正が何故「天皇陛下最後の赤子」だったのかがわかってくるのだ。カメラワークや構成にやや稚拙さが見られるのは時代のせいだが、現代の技術でリメイクしたらかなり良い作品に仕上がるのではないかと思う。
 舞台は支那事変勃発前から戦中・戦後までで、岡山歩兵第10連隊が所属である。体験談だけあって、召集兵の招集・除隊の関係や再応集の状況が良くわかる。また、戦後の生活の厳しさも良く表現されている。ちなみに、戦闘シーンは全くない。
 なお、作中に度々出てくる起床等のラッパによる替え歌が懐かしかった。私の親父が良く朝起こしに来るときに言っていた「起きろや、起きろや、みな、みな、起きろ。起きないと班長さんにおこられる。」など多くの替え歌が登場する。
 街の人役で裸の大将山下清が出ているのにも注目。張り紙を読んでどもっている。

興奮度★★★
沈痛度★★★★
爽快度★★
感涙度★★★


(以下 あらすじ ネタバレ注意  反転でご覧下さい)
 岡山の歩兵第10連隊に、召集兵が入隊する。漢字の読めないムショ上がりの山田正助(渥美)、棟本博(=原作者:長門)、鶴西(桂)らである。正助は二年兵の原一等兵の戦友となり、厳しくいじめられる。鶴西も二年兵に妻からの手紙を囃されるが、田舎の窮状を訴える内容に皆しんみりとなる。
 教官に菊池少尉というものがおり、ある日初年兵らが非常呼集される。青年将校らの決起に賛同を促すためであった。その菊池少尉は5月15日を境に姿を消した。5.15事件に関与していたのだ。
 入隊して1年がたつと二年兵の原一等兵は除隊となった。正助は原への報復を計画するが、急にやさしくなった原に仕返しはできなかった。
 二年兵となった正助らは、遊郭へ遊びに行き帰営に遅れる。重営倉5日をくらうが、毎日中隊長の堀江大尉がやってきては共に正座をしていくのだった。罪を犯した兵と共に罪をつぐなうというのだ。さらに、中隊長は文字の書けない正助に一年兵の柿内二等兵を戦友に指定する。柿内は教員あがりであり、正助に文字を教えるのだった。そんな柿内に、正助は厨房から盗んできた食い物を渡すが、柿内は盗んだものはいらないと突き返す。怒った正助は柿内を平手打ちするのだった。
 昭和7年11月になり、秋期大演習に天皇陛下が観閲する事となった。中隊長以下が極度の緊張状態の中、正助は白馬に乗った天皇陛下を窺い見る。鬼のような姿を想像していた正助は、優しい顔をした陛下に親しみを覚えるのだった。
 いよいよ一等兵になった正助の満期が近づく。正助は軍隊の方が食いっぱぐれることもないので、もっと置いてくれと嘆願するが、堀江大尉は正助のために果樹園の仕事を世話し、餞に着物を与える。その中隊長は朝鮮の龍山連隊へ転属していった。
 昭和9年頃、棟本は岡山県の津山におり、見合いで結婚し小説を書いていた。しかし、次第に戦局が展開し、支那事変が始まる。棟本も上等兵として再招集がかかる。再び岡山の第10連隊に戻った棟本は中隊事務室付けとなる。そこには事務官の浦上准尉がいたが、野戦に回される事を知って頭がおかしくなる。中隊には正助(一等兵のまま)や鶴西(上等兵)も再呼集されてきた。棟本は伍長に昇進していた。
 南京攻略戦が成功すると、終戦ではないかという噂が中隊に広がった。正助はせっかく軍隊に戻れたのにと残念に思い、天皇陛下に軍隊に残して貰えるよう手紙を書き始める。「ハイケイテンノウヘイカサマ」カタカナだけの手紙を見た棟本はあわてて破り捨てる。こんな手紙を出せば不敬罪になってしまうからだ。正助は棟本の言う事だからと納得はするが、腑に落ちない。
 結局戦争は終わらず、昭和13年の北支戦線に棟本と正助は出征する。前線で撃たれて3時間後に死んだ戦死者を焼く兵隊に、正助は「3時間あって天皇陛下万歳と言えて良かった」とつぶやく。それを聞いた兵隊と天皇陛下万歳と言えるかどうかの口論となり、正助は「元の中隊長(堀江少佐)は頭を打たれて3度言った」と激高するのだった。
 それから3年。正助は別の大隊に編入し、棟本は自らが書いた「分隊長日記」が評判を呼び、各地で講演をする日々が続く。そんなある日、炭坑での後援で除隊していた正助と出会う。すっかり偉くなった棟本だったが、正助には変わらぬ友情で接し、正助は感動する。
 昭和19年になり、棟本は従軍作家として中国にいた。正助も再招集され中国のどこかにいるはずだった。昭和20年終戦を迎え、正助は易俗河で堀江少佐の墓前で泣いていた。
 昭和22年春、棟本は茨城県七浦にいたが、世間は兵隊作家には冷たく、妻のヤミ屋仕事でなんとか食べていた。そこに正助が尋ねてくる。しばらく一緒に暮らすが、喧嘩別れとなり、正助は日光の開拓団に入る。棟本は再び小説を書き始める。
 仲直りした正助は月に一度棟本のもとにやってくるようになった。その際に棟本の隣人手島という未亡人に惚れてしまう。すっかりその気になった正助は開拓団を辞め、給料の高い日光の身投げ自殺者引き揚げ係員となる。しかし、手島は育ちが違うとして断る。
 昭和25年正助は水道工事の仕事に就き、棟本のもとに一人の女性を連れてやってくる。飲み屋で知り合った井上セイ子という女性だった。やはり夫を戦地でなくした女性だが、結婚することとなったのだ。
 しかし、間もなく新聞に山田正助(40)が交通事故死の記事が出る棟本は信じる事ができなかったが、やはり正助は死んだのだ。
 「天皇陛下の最後の一人の赤子が戦死しました」



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最終更新日  2005年11月28日 08時59分10秒
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