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2008年12月08日
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カテゴリ:戦争映画
ビデオ2005 スウェーデン 監督:レーナ・アインホルン
出演者:アニエシュカ・グロホフスカ、マリア・フヴァリブクほか
125分 カラー NINAS RESA/NINA'S JOURNEY


ポニーキャニオン ワルシャワ・ゲットー~ユダヤ人強制隔離居住区~
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 ポーランド在住のユダヤ人生存者ニーナの証言をもとに構成されたドキュメンタリードラマ。随所にニーナ本人のインタビューを交え、過酷なユダヤ人隔離居住区ゲットーでの出来事を描いていくもので、ドラマとしても比較的出来がよい。何と言っても、実話に基づくものであり、ヒシヒシと伝わってくる凄惨さと緊張感がリアルだ。

 ポーランドのウッチ在住だったニーナの家族は、ドイツ軍のポーランド占領とともに戦乱とユダヤ人迫害に巻き込まれ、ワルシャワに設置されたユダヤ人隔離居住区ゲットーに収容される。このゲットーは大ゲットーと小ゲットーがあり、両方合わせて40万人近いユダヤ人が収容されていた。ゲットーからは順次列車で悪名高きガス室へ送られていき、最終的にワルシャワ市内で生き残ったユダヤ人は数百人と言われている。
 本作では、奇跡的にゲットーで生き残ったニーナとその家族の顛末が描かれており、どのようにドイツ軍のユダヤ人虐殺が行われたか、ユダヤ人がどのように生き延び、死んでいったかがよく分かる。また生き延びることが、いかに偶然の産物であり、奇跡的であったかは、生存者の証言ならではの実感がこもる。ゲットーでは労働者として職にありつくこと、そしてタイミングこそが生き残る全てなのだ。
 実話であるからこそ、家族や親類、知人らはハッピーエンドにはならない。小さな男の子、最愛の人、別れを惜しむ間もなく、その時と自覚することもなく、永遠の別れを迎える。人との別れは辛いものだが、それが抵抗できない大きな力によって強制されたものであることは、怒りのぶつけ所もなく呆然とするしかない。「これが姿を見た最後となった」シーンのいかに多い事よ。

 ユダヤ人側からの視点が中心のため、ドイツのユダヤ人政策や虐殺そのもの自体の影像はほとんどない。そのため、ゲットー自体の全体像が掴みにくいのが難点だが、ユダヤ人虐殺、ゲットーについての基礎知識を持ってみれば、糸を紡ぐように見えてくるものがあるだろう。
 映画では「アップライジング(2001)」が良く似た構成となっており、参考になるだろう。また、「聖週間(1995)」「戦場のピアニスト(2003)」はゲットーからの脱出とポーランド人との関わりといった観点で興味深い。

 撮影はワルシャワで行われているようで、街の雰囲気等がよく出ている。ただ、さすがにゲットーの壁等の再現は無理だったようで、そのあたりのスケール感は乏しい。ドキュメンタリードラマなので、こじんまりとした雰囲気でも問題はないが、全体的にインパクトという点では今ひとつ。

興奮度★★
沈痛度★★★★☆
爽快度★
感涙度★★★


!(以下 あらすじ ネタバレ注意 反転でご覧下さい)
 1937年、ポーランドの片田舎ウッチに住んでいた二十歳そこそこの娘ニーナは母親ファイゲルとアメリカに移住した親類を訪ねてニューヨークに行く。当初は3ヶ月の滞在予定だったが、祖父の体調が悪化しそのままニューヨークに滞在し勉強をしていた。兄のルデックはポーランド軍に入隊した。平和なポーランドとユダヤ人の時であった。
 ニューヨーク滞在中にドイツ軍がオーストリアに侵攻。1938年5月、ニーナとファイゲルはポーランドに帰国する。徐々にきな臭さが漂ってくる。ついに 1939年9月、ドイツ軍はポーランド侵攻。12月になり占領されたウッチを逃れ、ニーナの家族はワルシャワに逃げることにする。それでもワルシャワはまだ静かであり、ニーナは勉学に励むことが出来た。
 だが、1940年の秋の終わりになり、ワルシャワにゲットーが設立され、ユダヤ人が狭い地域に強制収容される。ニーナの一家も狭い部屋に移住する。さらに親類の男の子リシオの一家も越してくる。友人のセリンカの家族も越してくるが、セリンカの家は貧しく、一緒に大学を受験することは許されなかった。兄のルデックは軍隊をやめ、ゲットー内で宝石売りをして生計をたてていたが、その後自衛警察隊に入隊する。父もユダヤ人評議会の調理場で働き、チェルニアコフ評議議長とのコネクションを作ろうとしていた。ゲットーではいかにコネクションを持つかが生活を左右していた。
 1942年の夏頃、ゲットー内は飢えで死んだ死体が路上に転がっている状態ではあったが、劇場やコンサートも開催され、日常生活が送れていた。だが、 1942年7月22日からユダヤ人の東部移送が開始される。名目は東部での労働従事ということであったが、チェルニアコフ議長は自殺し、東部の強制収容所虐殺の噂が流れ始める。兄のルデックはドイツ軍に協力したくないと自衛警察を辞める。ニーナは大学入学許可証をもらう。
 セリンカの母が連行される。助けに行ったセリンカも父親もそのまま帰ってこなかった。このころ毎日、5000人ほどが東部地方に移送されていた。東部に連行されないためには労働するしかなく、ニーナとファイゲルは縫製工場で働き始める。母親のファイデルは肝炎になるが、それでも必死に働くしかなかった。「ガス室」「トレブリンカ」という言葉がゲットー内を飛び交うようになる。
 縫製工場でもより分けが始まる。ニーナの家族はゲットーに残ることができたが、すでに36万人のユダヤ人が東部地方に移送されていた。
 1943年1月、スターリングラードでドイツ軍が大敗し、ゲットーにヒムラーがやってくる。ヒムラーは全てのユダヤ人をガス室送りにしろと命じ、ニーナとファイゲルも列車に乗るように命じられる。ニーナは列から脱走するが、ドイツ兵に捕まって射殺されそうになる。だが、兄のルデックから列の最後に並ぶよう言われていたことを思い出し、列の最後尾にいると自衛警察に変装したルデックがニーナとファイゲルを救い出す。
 大ゲットーでは武器を集め蜂起の準備が始まっていた。兄のルデックはゲットー外のポーランド人レジスタンスのマリアと連絡を取り脱出の機会をうかがっていた。
 1943年4月20日、大ゲットーで蜂起が起こる。シュルツにいたニーナらはカトリック教会の墓に隠れるが、リシオと両親はついに東部移送に応じて最後の別れとなる。
 まず、ニーナだけが救急馬車に隠れてゲットーを脱出。ポーランド人のポーラのアパートに匿われる。だが、パルチザンも同居するようになり出て行かざるを得なくなる。マリアの手はずで引っ越ししている最中に出会ったペリカン氏の家に隠れることになる。ペリカン氏の母親と同郷だったことが幸いした。
 5月になりゲットー炎上。間一髪のところで母親とルデックは脱出するが、父親は脱出できずにドイツ軍に捕まってしまう。兄はこのことを一生後悔していた。
 ペリカン氏の家に兄ルデックも同居させてもらえる。だが、ロシア訛りの母親だけは他の家に匿われることに。ワルシャワではポーランドレジスタンスの蜂起が始まる。ドイツ軍の取締も強化されるが、今やポーランド人も逃げる身となっていた。ニーナは兄と農村に避難する。
 1月17日、ついにソ連軍がワルシャワに到達しドイツ兵がいなくなる。ニーナは母親を捜しにワルシャワに戻るが、母親は避難先でドイツ兵に殺害されていた。
 ニーナは医学生となり、後にスウェーデンに移住。2004年に死去する。





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最終更新日  2008年12月09日 00時07分00秒
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