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![]() ・時代:縄文~古墳 ・種別:散布地 ・所在地:粕屋町長者原字敷縄(かすやまち・ちょうじゃばる・わざ・しきなわ) ・概要:縄文土器、須恵器、土師器等が散布 ※現在、遺跡は消滅し、マンション建設のため造成中。
最終更新日
2008年11月13日 18時32分32秒
古墳後期(6世紀後半)‥北部九州では、装飾古墳が盛んに築かれる。 古墳後期(589年)‥隋が支那大陸を統一。 飛鳥(593年)‥厩戸皇子(聖徳太子)を太子とし摂政とする。 飛鳥(599年)‥粕屋町の長者原屋敷前遺跡で、掘立柱建物群が建てられる。 飛鳥(604年)‥聖徳太子が十七条憲法を制定する。 飛鳥(607年)‥小野妹子らを隋に遣わす。 飛鳥(608年)‥遣隋使小野妹子らが、筑紫国に帰国。 飛鳥(618年)‥鮮卑族の李淵が唐を興す。 飛鳥(630年)‥第一回遣唐使を派遣。 飛鳥(645年)‥中大兄皇子、蘇我入鹿を宮中で暗殺。年号を「大化」と号する。 飛鳥(668年)‥中大兄皇子、即位する。 飛鳥(670年)‥粕屋町に駕与丁池ができる。 飛鳥(709年)‥筑前糟屋評造春米連広国、銅鐘を鋳造し、京都妙心寺へ贈る。 飛鳥(8世紀)‥早良郡の重留の富永修理太夫兼縄の妻に、糟屋の長者の曽根出羽守国貞の娘、古能姫を迎えることになるが、七隈の所で自害。 奈良(713年)‥糟屋郡が成立。 奈良(720年)‥日守駅が交通の要地となる。 奈良(730年)‥大伴家持、大伴百代らが稲公、胡麻呂を日守に送り祝宴をする。
最終更新日
2008年11月14日 02時38分06秒
![]() お産のため宇美(現在の福岡県糟屋郡宇美町)に向かう際に、 この日守(ひまもり)の地で、ご休憩をされました。 そして、「日を守りたまいて」(太陽を見られて) 何時ごろかと尋ねられ、このことから、 この地が、日守りと呼ばれるようになりました。 ※神功皇后は、仲哀天皇(14代:ちゅうあいてんのう)の皇后。 宇美で応神天皇(15代:おうじんてんのう)を出産されました。 ※仲哀天皇の父は日本武尊(やまとたけるのみこと)。
最終更新日
2008年10月28日 21時18分30秒
![]() 「草枕、旅行く君を愛しみ、副いてぞ来し、志珂の濱辺を」(万葉集巻四・五六六) 解釈しますと、 「旅に出かけなさるあなたと、お別れ申すのが惜しさに、お伴して、 志珂の浜辺を知らず、知らず並んでやってきたことである」 となります。 作者は、大伴百代(おおとものももよ)です。 万葉集巻四の注には天平二年(730)夏六月、大宰師大伴旅人(おおとものたびと)は 脚を患って命が危ないといわれ、使いを朝廷につかわし、 庶弟大伴宿弥稲公(しょていのおおとものすくねいなぎみ)、 甥の大伴宿弥胡麿(おおとものすくねこまろ)の二人を九州へ下してもらい、 遺言をしようとしました。 朝廷は、この二人を駅使として、旅人(たびと)の看病につかわします。 ところが、数十日たつと、旅人(たびと)の病は回復したので、二人は都へ 帰ることになりました。そこで、大伴百代(おおとものももよ)や 山口己寸若麻呂(やまぐちいみぎわかまろ)、旅人(たびと)の子の家持等が、 稲公(いなぎみ)らを送るために、この日守の駅まで行き、そこでいよいよ 別れるのを、惜しんで詠んだのが、この碑に書かれている一首なのでした。
最終更新日
2008年10月28日 13時04分22秒
古代の駅路については、 日野尚志の論文「西海道における大路(山陽道)」について」(九州文化史研究所)で 大宰府から企救(きく)郡(門司区)までの駅路が推定ではありますが、書かれています。 それには、大宰府政庁から大路に出て夷守駅(粕屋町日守)、そこから現在の古賀市に あった席内(むしろうち)駅に向かいます。そして古賀から宗像郡の福間海岸を通り 名越山をこえ宗像大社の横側に出て、宗像の鐘崎に近い所にある津日駅へ行ったようです。 あとは嶋門駅(遠賀郡)~夜久駅(遠賀郡)~独見駅(北九州市)~到津駅(小倉北区)と 続き、九州最後の社埼駅(北九州市)を通り、京を目指したのでした。 ※上に挙げている駅は全部で8つしかありませんが、もう1つは美野駅(現博多区美野島付 近)があったといわれています。
最終更新日
2008年10月28日 21時34分35秒
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