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粕屋町 駕与丁池遺跡1次7地点… (そのほか)楽天ブログ 【ケータイで見る】 【ログイン】
粕屋遺跡紀行
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かすやくんの日記

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2008年11月22日 楽天プロフィール Add to Google XML

粕屋町 駕与丁池遺跡1次7地点

時代‥不明

場所‥駕与丁

概要‥竪穴式住居等を検出。現在は消滅。

最終更新日  2008年11月22日 14時57分27秒


2008年11月21日

粕屋町 駕与丁池遺跡1次6地点

時代‥不明

種別‥不明

所在地‥駕与丁

概要‥掘立柱建物等を検出し消滅

最終更新日  2008年11月21日 00時31分13秒

2008年11月20日

粕屋町 駕与丁廃寺推定地

時代…奈良

種別…寺院

所在地…駕与丁(かよいちょう)

概要…9m四方の墓壇上に心礎が所在地したとされる。


最終更新日  2008年11月20日 23時54分38秒

2008年11月13日

粕屋町 敷縄池遺跡群

【 敷縄池遺跡群 】

・時代:縄文~古墳

・種別:散布地

・所在地:粕屋町長者原字敷縄(かすやまち・ちょうじゃばる・わざ・しきなわ)

・概要:縄文土器、須恵器、土師器等が散布

※現在、遺跡は消滅し、マンション建設のため造成中。


最終更新日  2008年11月13日 18時32分32秒

2008年11月06日

粕屋町  板碑

日守から少し南へ須恵川添いの道路を行くと、

板碑があります。

今、現在その由来や概要は解っていません。

最終更新日  2008年11月06日 23時37分41秒

2008年11月05日

粕屋町 日守

日守の東には須恵川が流れており、

律令時代は、この辺りが河口で、

日守は海に面していました。





最終更新日  2008年11月07日 01時14分10秒

2008年11月04日

粕屋町の歴史(古墳~奈良)

古墳後期(6世紀後半)‥北部九州では、装飾古墳が盛んに築かれる。

古墳後期(589年)‥隋が支那大陸を統一。

飛鳥(593年)‥厩戸皇子(聖徳太子)を太子とし摂政とする。

飛鳥(599年)‥粕屋町の長者原屋敷前遺跡で、掘立柱建物群が建てられる。

飛鳥(604年)‥聖徳太子が十七条憲法を制定する。

飛鳥(607年)‥小野妹子らを隋に遣わす。

飛鳥(608年)‥遣隋使小野妹子らが、筑紫国に帰国。

飛鳥(618年)‥鮮卑族の李淵が唐を興す。

飛鳥(630年)‥第一回遣唐使を派遣。

飛鳥(645年)‥中大兄皇子、蘇我入鹿を宮中で暗殺。年号を「大化」と号する。

飛鳥(668年)‥中大兄皇子、即位する。

飛鳥(670年)‥粕屋町に駕与丁池ができる。

飛鳥(709年)‥筑前糟屋評造春米連広国、銅鐘を鋳造し、京都妙心寺へ贈る。

飛鳥(8世紀)‥早良郡の重留の富永修理太夫兼縄の妻に、糟屋の長者の曽根出羽守国貞の娘、古能姫を迎えることになるが、七隈の所で自害。

奈良(713年)‥糟屋郡が成立。

奈良(720年)‥日守駅が交通の要地となる。

奈良(730年)‥大伴家持、大伴百代らが稲公、胡麻呂を日守に送り祝宴をする。

最終更新日  2008年11月14日 02時38分06秒

2008年10月28日

粕屋町 伝説の地 「 日守 」

 神功皇后(じんぐこうごう)が

お産のため宇美(現在の福岡県糟屋郡宇美町)に向かう際に、

この日守(ひまもり)の地で、ご休憩をされました。

 そして、「日を守りたまいて」(太陽を見られて)

何時ごろかと尋ねられ、このことから、

この地が、日守りと呼ばれるようになりました。

※神功皇后は、仲哀天皇(14代:ちゅうあいてんのう)の皇后。

宇美で応神天皇(15代:おうじんてんのう)を出産されました。

※仲哀天皇の父は日本武尊(やまとたけるのみこと)。

最終更新日  2008年10月28日 21時18分30秒

2008年10月27日

粕屋町 日守の万葉歌碑

 この碑は、日守八幡宮に立っている万葉歌碑です。

「草枕、旅行く君を愛しみ、副いてぞ来し、志珂の濱辺を」(万葉集巻四・五六六)

解釈しますと、

「旅に出かけなさるあなたと、お別れ申すのが惜しさに、お伴して、

         志珂の浜辺を知らず、知らず並んでやってきたことである」

となります。

 作者は、大伴百代(おおとものももよ)です。

万葉集巻四の注には天平二年(730)夏六月、大宰師大伴旅人(おおとものたびと)は

脚を患って命が危ないといわれ、使いを朝廷につかわし、

庶弟大伴宿弥稲公(しょていのおおとものすくねいなぎみ)、

甥の大伴宿弥胡麿(おおとものすくねこまろ)の二人を九州へ下してもらい、

遺言をしようとしました。

 朝廷は、この二人を駅使として、旅人(たびと)の看病につかわします。

ところが、数十日たつと、旅人(たびと)の病は回復したので、二人は都へ

帰ることになりました。そこで、大伴百代(おおとものももよ)や

山口己寸若麻呂(やまぐちいみぎわかまろ)、旅人(たびと)の子の家持等が、

稲公(いなぎみ)らを送るために、この日守の駅まで行き、そこでいよいよ

別れるのを、惜しんで詠んだのが、この碑に書かれている一首なのでした。

最終更新日  2008年10月28日 13時04分22秒

2008年10月26日

律令時代の粕屋 交通(駅制).三

 古代の駅路については、

日野尚志の論文「西海道における大路(山陽道)」について」(九州文化史研究所)で

大宰府から企救(きく)郡(門司区)までの駅路が推定ではありますが、書かれています。

 それには、大宰府政庁から大路に出て夷守駅(粕屋町日守)、そこから現在の古賀市に

あった席内(むしろうち)駅に向かいます。そして古賀から宗像郡の福間海岸を通り

名越山をこえ宗像大社の横側に出て、宗像の鐘崎に近い所にある津日駅へ行ったようです。

あとは嶋門駅(遠賀郡)~夜久駅(遠賀郡)~独見駅(北九州市)~到津駅(小倉北区)と

続き、九州最後の社埼駅(北九州市)を通り、京を目指したのでした。

※上に挙げている駅は全部で8つしかありませんが、もう1つは美野駅(現博多区美野島付

近)があったといわれています。




最終更新日  2008年10月28日 21時34分35秒


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