「表現」媒体としてのチカラが、今、ネットに移ってきているんだなと、
そんなことを感じることがありました。
アメリカから、町山智弘さんが帰国しておられます。
あちこちのラジオ番組に出て、それがポッドキャストで聞ける。
そこから、あれあれ、と。
町山さんという人は、元「宝島」の編集者で、
後に、「映画秘宝」という雑誌を始めた方。
誰もやらなかった「映画批評」の分野を裸一貫で開拓した、
知っている人は知っている、スゴ腕の編集者でしたが、
知らない人は、知らなかった。
その町山さん、今、ラジオでこう紹介されます。
「今、一番敵に回したくない人!」
町山さんは、ブログを書いています。
それを見ると、なるほどと思わされる。
「ベイエリア在住町山智浩アメリカ日記」
が、そのブログになります。
唐沢俊一さんの「盗作問題」。
シンプソンズの「声優問題」。
ブッシュ/米国キリスト教福音派のおバカぶり。
「おクラ入り」になってしまった映画の上映運動。
戸田奈津子さんをはじめとする日本の映画関係者への批判。
そして、最近では、「ミクシィ」の「規約改定」問題。
どれも、スピードと鋭さにおいて、一頭地を抜いています。
町山さんは、日本から追い出されるように、渡米されたそうです。
「出版」という表現媒体は、町山さんには、窮屈だった。
そして、「ネット」という媒体に乗って、町山さんは「帰ってきた」!。
今回、うなったのは、ラジオの「放送後記」的な、ポッドキャスト。
「配信限定!放課後DA★話(3/8)【町山編】で、聞けます。
すごい、ポッドキャストでした。
ネットの前衛性を、見事に表現しています。
内容で、おおっ!と思ったのは、
蓮實重彦論。
蓮實さんは、1980年代の映画批評をリードした東大のセンセイです。
のみならず、
蓮實さんは、東大総長となって、現在の「大学」の姿を方向付けた「立役者」。
のみならず、
蓮實さんは、3年前、私を魅了した言論人。
でも、今、蓮實さんは、色あせて見えます。
蓮實さんが主導した「大学」の姿は、ひたすらに現状追認の人間を作る装置になりつつある。
その批判は、「ネオリベ生活批判序説」という書の中に、見事に展開されている。
この本を読んで、少々のショックを受けました。
つい最近傾倒した方の批判に、これほど納得させられるとは!という、ショック。
蓮實さんは、「正義」を語る際の「恥じらい」を強調される。
カッコいいことを言う時、人は「照れ」を忘れていること。
でも、カッコいいことを言うその人は、結構、ダメな人間である。
なのに、言葉ばかり、カッコいい。
これは、おかしい。
もうすこし、「照れ」とか「恥じらい」とか、そういうものを持ったらどうだ・・・
・・・そんなリアリズム。
私は、ぞっこんほれ込みました。
でも、リアリズムの果ては、何か。
イデオロギーも、哲学も、文学も、勿論、神学も、
リアルな世の中には、多分、邪魔者です。
英語を習得し、コンピューターに習熟し、人間関係スキルを磨く。
渡世の術を身につけることこそ、リアリズムとしての「学び」でしょう。
だから、大学は、これから「リアル」なものを追及します。
そんな「大学」像を蓮實さんたちは、追及した。
それでいいの?
この世の中を上手に渡る、ということは、
この世の中の歪みを、温存する人間を作り出す、ということでは?
「ネオリベ生活批判序説」という本は、全編にわたって、
そうした問題提起に促されて書かれている。
なぜ、蓮實さんのリアリズムは、こんなに味気ないものを作り出すのか。
その語るところは、とても魅力的だったのに・・・
その疑問に、町山さんが、見事な答(のようなもの)を、くださいました。
蓮實さんは、「表層批評」ということを、映画批評として主張される。
それは、つまり、「見えるもの」に拘るということ。
「見えないもの」、つまり、作者の意図とか、その背後にあるイデオロギーとか、
そういう「深層」をアレコレ論じてもしょうがないよ、というご主張。
たしかにその通りなのです。
「深層」は、アレコレ論じても、時間の無駄。
だって、見えてないんだから。
「見えてる部分」で、勝負しようよ!
なんという、リアリズム。
でも、町山さんはこれをバッサリ切り捨てます。
>「見えてる部分」をこねくり回した「批評」なんて
>結局、「ワケが分からん言葉の羅列」にすぎないじゃねぇか!
と、そんなことを、言い切る。
この、見事な一刀両断は、
「第4回 特別編
『映画秘宝の歴史』」
で、聞けます。
(リンクページの一番下のほう、になります。)
私が初めて出会った、衝撃的な程に見事な、蓮實批判。
その町山さんが、再度、蓮實論を展開していました。
先ほどの、
「配信限定!放課後DA★話(3/8)【町山編】です。
町山さんは、だいたい、こういいます。
>もともと、マルクス主義イデオロギーが空気を支配していた時代があった。
>映画批評も、「マルクス主義的かどうか」を巡って、展開された。
>ひたすらに、「正しい物語かどうか」ばかりが論じられ、
>それだけが、「深層」の批評として尊重された。
>蓮實さんは、それに抗った。
>「見えないもの」を論じることを批判し、「表層」をのみ、論じた。
>その後、「映画批評」というものは、「感想を述べ合うこと」になった。
>今でも、誰も、映画の背後を調べない。調べれば分かることを、調べない。
>自分達は、それに反発した。
>分からないことは調べる。「表層」の背後を、調べる。
だいたい、こんな感じでした。
視界が、一気にクリアになります。
かつて、「革命」を信じた時代がありました。
「マルクス主義」という近代の申し子が、
「今」を否定して、「未来」を期待させた。
その時代、あらゆる言説は、「革命」へと徴用されました。
大学も、勿論、そのためにこそ、存在しました。
でも、「革命」は、幻滅に終わった。
そして、時代の「空気」は逆転します。
「未来」を信じて「今」を否定する言説は「虚妄」とされ、
リアリズムこそ、「正しい」とされる。
あらゆる言説はリアルのためにこそ徴用され、
大学も、勿論、そのためにこそ、存在を許される。
でも、それでいいのかと、今、問われている。
それを先んじて問うた町山さんは、
日本から出て行って、海の向こうで足場を固めて、帰ってきた。
すごいなぁ。
でも、「マルクス主義」でもない「リアリズム」でもない、とすると、
どんなものなのかな・・・
と思っていたら、ポッドキャストそのものが、見事な答を用意していました。
ポッドキャストの司会は、ラジオ番組の司会者である歌丸さんでした。
私と同い年の、ラップ歌手。
歌丸さんは、時間の終了に当たって、全体をまとめようとします。
すると、町山さんがそれをクサす。
>まとめない方が、人生は楽しいよ。
そうなのです。そういう話をしていたはず、だったのです。
ポッドキャストは、三人のトークで進行していました。
そして、三人は、最後までバラバラに話しながら、
バラバラのことを考え、話だけ、あわせている。
その最後、どうなるか。どうなるべきか。
どこで終わるのか――と、思っていたら、最後、
ドカーン!
で、おしまい。
凄い、と思いました。
マルクス主義は、未来に希望をおきました。
リアリズムは、今が全てといいます。
どちらも、一つの言葉で括れます。
「予定調和」、です。
新人議員さんが、国会議事堂に入ると、
突然、使い出す言葉があるそうです。
それが、「粛々と・・・」という言葉。
田中康夫さんは、そのことを盛んに批判していました。
>「予定調和」じゃダメだから、わざわざ議員になったんでしょ!
って、感じです。
想定される未来へまっすぐに進むのか、
今ある世界をまっすぐ進めるのか。
いずれも、「予定調和」です。
いずれも、「息苦しい世界」=「生きにくい世界」を、招致する。
「ドカーン」は、
「今」も、「想定される未来」も、破壊することです。
でも、破壊されるのは、「予定」の「調和」です。
本当は、何も破壊されていない。
歌丸さんも、町山さんも、元気に番組を終え、打ち上げに繰り出す。
本物のリアルが、新しく更新されて展開して行く。
「ぐるぐる~」と、議論を深め、観念の世界を展開し、予定を詰めてゆく。
でも、それは、「どかーん」と、どこかでさっぱり、終わりにしないと。
そうしないと、「議論」とか「観念」とか「予定」の中に、閉じ込められちゃう。
そうなったら、おしまいだよ。
あとは、「終わりのない日常」が、ひたすら続くだけだよ。
「どかーん」と、やってごらん。
きっと、楽しくなっちゃうから。
(もちろんこれは、“from いないいない ばあ”、です。)
なるほど。きっと、そういうこと、なのでしょう。
これはきっと、子育てにも、つながりそう。でも、それはまた別の話。
今日は、ネットの前衛性、ということで話し始めたのでした。
スポンサーさんがいたら、きっと、こうは終われない。
予定調和でないと、お金がつかないもの。
ネットが、新しい時代に相応しい表現を、つかみつつあるのだと、
そういうことだと、思います。
・・・なかなか、「ドカーン」とは、終われません。
私は、前衛に憧れる鈍牛、なのでしょう。
では、形だけ・・・どかーん!
ダメだ。形だけでは、きっとダメだ。どうしよう・・・