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「キリスト教って、いったいなんだろう。」
昨日、喜寿をはるかに超えた、でもカクシャクと現役を続ける御夫人 (そんな人が、私の周りには何人もいるのです)から、 深く、問われました。 「キリスト教って、いったい何だ?」 私は、学生から同じ質問を、しょっちゅうされる。 それも、 「なんでキリスト教なんてワケのわからんものを学ばねばならんのか」 という、ある種の苛立ちをこめて、 学生から、しょっちゅう、問われます。 私は、いつも、同じ答えをいたします。 「キリスト教は、宗教です。」 宗教は、胡散臭い。 誠に、ごもっとも。 でも、それは人間が7千年以上続けてきた営みである。 だから、すこしは敬意を払って、学んでみなさいな。 そう、勧めることにしています。 宗教は、胡散臭い。 本当に、そうだと思います。 つまり、キリスト教は、胡散臭い。 なぜか。 宗教は、そして特に、キリスト教は、 「赦し」と「愛」を説く。 それはつまり、 大のオトナに、「甘え」を許す。 罪をきれいさっぱり水に流して、 人を再起させる、と言えば、聞こえはいいが、 それは要するに、 人をスポイルすることでも、あるかもしれない。 だから、キリスト教は、胡散臭い。 でも、考えてみます。 今、私は、3歳の娘と格闘中です。 「しつけ」というものを、 親は、子に、しなければならない。 自分は、そんな立派な人格でないけれど、 でもとにかく、親の責任で、それをする。 子供が、「悪いこと」をする。 親は、それを叱る。 わが娘は「お父さん大好き」の甘ったれですから、 お父さんが怒ると、その瞬間に、相当ビビる。 それで、かならず、わが娘は「抱っこ!」と甘えてくる。 怒っているお父さんを、どうにかつなぎとめて、 怖い気持ちを癒そうと、必死になります。 抱っこしてもらって、抱きつきながら5分も泣くと、 ケロリ。もう大丈夫。 賢いわが娘、怒られたときの心の傷を、 どう癒せばよいか、よく分かっていらっしゃる。 それで、本当は、 悪いことをする→叱られる→泣く→謝る→抱っこしてもらう が、お決まりのコースなのですが、 だんだん、知恵がついてきて、 最近は、このコースを、変更し始めました。 つまり、 悪いこと→叱られる→抱っこ→謝る→泣く なら、まだいいのですが、 悪いことをする→(これはまずいと気付いて)抱っこ要求→叱らられる・・・ ということが、しばしば。 要するに、叱られる前に、先回りして、 精神の安定と心の傷への癒しを求めて、 抱っこを要求する。 最近は、さらに昂じて、 「悪いこと」をしながら、「抱っこ」と言ったり。 これは、つまり、「甘ったれ」でしょう。 もちろん、こちらも対応して、 「抱っこしない」 という強硬手段に出る。 「ごめんなさい」を言って、反省するまでの、我慢比べ。 でも、考えてみます。 わが娘は、「必ず自分の心の傷は癒される」と信じている。 どうしたら癒されるのか、完璧に分かっている。 だから、「悪いことかも・・・」ということを、 トライしてみて、エラーして、怒られる。 とりあえず、試行錯誤する勇気は、わが娘には、あるようです。 それは、娘の中からのみ、湧き上がるもの。 でもそれは、 「お父さんが抱っこしてくれる」という「甘え」があって、 はじめて、湧き上がってくる。 「甘ったれ」には困ったものですが、 でも、人間には、「甘え」ることが、必要なのでしょう。 それは、子供だけでなく、オトナだって、同じであるはず。 宗教は、「オトナ」に甘えるチャンスを用意する。 「こうやって謝れば、必ず赦されますよ」と、 そうやって、制度を作り、儀式を整備している。 人は、甘えることによって、勇気を得る。 人は、そうやって、自分自身と和解し、他人と和解する。 その底に存在している基盤は、つまり、「甘え」です。 宗教は、その最後の部分を保証するための装置。 人類の、知恵の結晶です。 でもそれは、実に、胡散臭い。 ウソだろ、それじゃ、ちょっと、マズイんでないの、と、 常識人には、そう思われてしまう。 実際、イエスは、そういう胡散臭い人だったようです。 たとえば、イエスの思想は、こんな「例え話」で伝えられている。 三つの例え話。「甘ったれ」を助長するかのような、ヘンな話。 ある人が、100匹の羊を所有していた。 ある日、そのうちに一匹が迷子になった。 その時、羊飼いは、 99匹をほっぽり出して、その一匹を探しに行きました。 (・・・99匹は、どうなっちゃうの?) ある人が、銀貨を10枚持っていた。 そのうちの1枚が、どっかにいっちゃった。 その人は家じゅうを探し回って、 その1枚を、ついに見つけ出した。 嬉しさの余り、この人、周り中の人を呼び集めて、 大宴会を開いて喜びました。 (それじゃ、結局、赤字でない?) ある人の次男坊が、親の遺産を親の生前に相続して、 大都会に出て行ってそれを蕩尽し、素寒貧で帰ってきた。 お父さんは、そのバカ息子のご帰還を、異常なまでに喜んだ。 そのお父さんには、ご長男もいる。 このご長男、馬鹿な弟の帰還を知り、 そして、オヤジが馬鹿喜びしているのを知って、驚き、怒る。 怒る兄貴を、お父さんがなだめながら、叱って諭す。 「死んでいたものが生き返ったんだ。お前も喜べ」 (・・・そんな、甘えを許して、いいものか?) たぶん、イエスは、めちゃくちゃに、赦した。 不倫の常習犯だって、売国奴だって、怠け者だって、野蛮人だって、 何でもかんでも、徹底的に、赦した、らしい。 だから、イエスの周りには、やたらと人が集まった。 その集まった人たちは、イエスに甘えて、 イエスにしゃぶりつき、ぶら下がり、 最後には、イエスを見捨てて、甘え切った。 イエスはその責任をとり、思想犯として逮捕され、政治犯として処刑される。 そうしてできたのが、実は、「キリスト教会」。 それは、甘えの果ての、挫折の反転。 なんだ、最初から、キリスト教会は、胡散臭かった。 それは、「甘ったれ」たちの、集まりだった。 でも、そこに、不思議な輝きがあった。 そして、今もきっと、教会には不思議な光輝がある。 今、教会がくすんでいるとすれば、 きっと、「常識」の枠におさまっているのでしょう。 まっとうで、立派で、そつのない教会。 それは偉いと思うけど、それは、くすんでないか。 そんなことを考えると、 大学について、すこし、違った見方ができてきます。 今、成績考査が、いよいよ大詰めです。 残念ながら、今年も、何人もの人々が、 単位を落とされる。 最後まで、あきらめないなら、 絶対、単位は取れるのです。 大学の授業は、国家試験や大学入試とは違う。 いつだって、学び始められる。 いつだって、挽回できる。 でも、締切が迫ります。 学生さんが私に繋がれなければ、 私には、何もできない。 繋がってくだされば、ご一緒に何かできる。 何かできれば、必ず、単位は取れる。 でも、繋がってくださらなければ、 私には、何もできない。 ここで、「迷子の羊」「なくした銀貨」「放蕩息子」を思い出す。 困ったことに、いまここに、 どこに行ったかわからない、つながりようのない学生諸賢がいる。 その時、私は待つしかない。 その時、教師は、無力な存在です。 でも、たとえば昨日、一人の方が、繋がってくださった。 事務の方が、連絡をとってくださって、 そして、その学生さんは、やる気をふるい起した。 諦めを振り払い、私を信じて、単位に手を伸ばした。 もう大丈夫。 一人の人に繋がれた。 大学って、もともと何か、思い出しましょう。 大学は、10世紀ごろ、西欧で、始まる。 それは、「一つになったもの」という呼び名で呼ばれ、 そのまま、歴史の荒波を乗り切って、今の「University」となる。 「University」の「Uni」というのは、 ラテン語で「一つ」という意味です。 つまり、 職員と、教師と、学生とが、 「真理探究」のために、一つになった「組合」。 それが、大学なのです。 一人の、単位を落としかけている学生がいる。 一人の、無力な教師がいる。 そして、職員の方が、大変なご労をくださる。 学生と、教師と、職員が、ひとつになって、 一人の人を、諦めの沼地から引きずり出す。 ここに、「大学=Uiversity」が成立する。 教会や宗教は、きっと、大学の真逆にあります。 大学は、真理を追究して、 実に立派に、英雄的に、存在し、働いている。 教会は、美しい友愛の輝きを放ちながらも、 でも、とっても軟弱で、ズブズブに甘ったれている。 でも二つが一つになることもある。 その時、何かが起こるかもしれない。 奇跡の化学反応が、絶望を吹き飛ばす、 そんなことも、きっとあるでしょう。 「キリスト教学」という学問が、大学の中に存在すること。 その意味を、新しく知った気がしています。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
Feb 11, 2009 08:57:38 AM
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