テーマ:日露戦争(25)
カテゴリ:歴史 傳統 文化
世界を救った日露戦争戦勝百周年記念、「小村寿太郎とその時代」より本日は《ロシアの満洲占領》。《》は引用。 ロシアの意図を考えればいずれ戦争は避けられない 義和団の乱に端を発した北清事変が勃発するとロシアはこれ幸いと一九〇〇(明治三十三)年七月九日、満洲に出兵、チチハル、長春、吉林、遼陽と進撃し、十月一日に奉天を占領して満洲を制圧した。 しかし駐露公使の小村寿太郎は《「ロシアの当面の目的は鉄道の安全のためであろうが、結果としては、ロシアは完全かつ永久に満洲を管理することになるであろう」》《「事件の落着後、形式的には正規兵を徹兵することはあるかもしれないが、事実上満洲はロシアの軍隊の下に占領されたのとまったく変わらない状況となるであろう」》と報告している。 樺太を侵略し、対馬を狙う露西亜に対して小村はこれを機に支那大陸に於る勢力範囲の画定を行おうとするが、ロシアの答えは、 《「ロシアが満洲を占領しようと思えば、それを実行するのは簡単である。占領しようとしまいとそれはロシアの意思次第である。ロシアとしては占領の意思はないが、形勢やむをえず満洲をロシア領として併合する場合、その代りに日本は韓国を占領するといっても、それは一つの理屈であろうが実際はそうではない。 もし満洲がロシア領となれば、韓国に対するロシアの位置は、日本の韓国に対するものと較べても、さらにいっそう大きいものとなるから、日本が韓国の独立を傷つけるということはロシアの同意できないところである」》 つまり、満洲はロシア領とする。日本はそれを阻止出来ないのだから、代わりに朝鮮には手を出すなと言われても聞く耳は持たない、と言うことである。小村は朝鮮ではなく満洲でロシアを押さえるという考えに至る。 放置すればロシアは朝鮮半島から対馬に侵略してくる。不凍港を求めるロシアはいずれ北海道も取りに来る。 《ロシアの意図がそうとすれば、いずれは軍事衝突は避けられない覚悟をしなければならない。しかし覚悟をするといっても、当時、英国と並んで世界の二大超大国の一つであるロシアと戦争するというのは並大抵の覚悟ではない。もし敗けた場合のことを考えると、それこそ慄然たるものがある》 露西亜は《ロシアが勝った場合の日本への和平条件として、ロシアによる「満洲および韓国の併合の問題のほかに、日本は永久に戦闘力を奪われなければならず、太平洋沿岸におけるロシアの優越は保障されなければならぬとの見解には誰も彼もが一致している。それには、日本に対して艦隊を所有することを禁止する条件が課されねばならない」と述べている》 今迄の露西亜の侵略の歴史を見れば日露戦争は日本の侵略戦争だったという説は現実を知らない人々が机上で生み出し物だと言うことが解る。 《戦争をしないで放置しておけば、結局戦争に負けたと同じになるかもしれないという判断があってはじめて戦争に踏み切れる。戦争しなければ、いずれは朝鮮半島南端までロシアが進出してくる。そのときに北海道とか対馬について無理難題をいわれれば、それこそ日本の存立にかかってくるので対決しなければならない。 どうせ同じことになるのならば、極東におけるロシアの戦備がどうしようもないくらい強くなってしまう前に、いまのうちに、という判断である》 露西亜は清と旅順協定を結び満洲の清国軍を武装解除させる。日本は抗議したが返事は「回答する義務はない」。さらに露西亜は長城以北から諸外国の権益を排除し、満洲防衛は露西亜軍の手に委ね、官吏・検察官の任命にも露西亜の了承を必要とする条約を清と結ぼうとする。これを知った日本が厳重に抗議すると、今度はこの条約案を撤回した。 《極東ロシアの陸海軍は相対的には日本より弱体であり、急いで強化しようとしたりすると、日本がロシアの戦闘準備が整う前にただちに戦争を始めるかもしれないという恐れがあることが真の理由だったようである》 《日露戦争は、開戦の前の段階から戦争の最後の最後まで、極東における軍備を増強してから日本を圧倒しようというロシアと、ロシアの戦備が整う前にロシアの進出を排除しようという日本の努力の競争であった。 ロシアが本格的に満洲に進出してしまえば、ロシアは日本がとうてい敵う相手ではなかった。日清戦争後の海軍拡張案に対して、尾崎行雄が議会で、「日本の歳入は二億五千万円、ロシアのそれは二十億円である。こんな大国と軍備競争をして勝てるわけはない」といったとおりである。ロシアはナポレオン戦争以来、世界最大の陸軍国であり、常備兵力でも日本の陸軍二十万余に対して、ロシアは二百万であった。 もしクロバトキンがいっているように、満洲に百万の兵力を集めて南下してくれば、満洲から朝鮮半島南端までどこでどう戦っても日本に勝ち目はなかった。 ロシアの問題は、まだそれだけの大兵をシベリアを横断して輸送する手段が未完備だというだけのことであり、時間とともに日本にとって形勢が悪化することは白明の理だった》 《ロシアの極東進出はシベリア鉄道の完成にかかっていた》。一八九一(明治二十四)年の起工式後、年平均六百二十キロの速さで進んだが、日清戦争で日本が勝つと《一年間に千三百三十八キロの建設を強行した》。 《一八九一年、シベリア鉄道が起工されると、早くも翌九二年には福島安正中佐がシベリアを単騎横断してその状況を視察した。 その後も日本側のスパイ活動は、鋭意シベリア鉄道の情報蒐集に努め、単線しかないシベリア鉄道の輸送能力は二十四時間で七列車を過ぎることはないと判断した。これはロシア側の計画とびったり合致していた。 しかし戦争が始まってからロシアは鋭意輸送力の増強につとめ、バイカル湖南岸線は開戦後七カ月たって開通し、また最後には、貨車を回送せず乗り捨てるという、貧乏な日本では想像できなかった使い方をして、結局、戦争中にハルビンまで鉄道輸送された兵員は『近代日本戦争史』によれば延べ百二十九万四千五百六十六名、馬匹二十三万二百六十九頭、貨物九百五十万トンにのぼった。これが戦線に投入されたぶんだけ日本は苦戦を強いられたのである。 輸送力は戦争終了時には鰻上りに増強されていたから、戦争が続けば日本に勝ち目はなかったことは明瞭であり、また戦争開始がもう少し遅かっただけで、日本は負けていたかもしれない、というのは事実であったろう。 これを見るだけでも、戦争を急いだ小村の判断は正確であり、極言すれば、それが日本を救ったということもできよう》 岡崎久彦 外交官とその時代 平成十七年 九月八日 ユーライア・ヒープ「安息の日々」を聴きながら お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2005年09月10日 00時21分30秒
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