テーマ:皇室 二(50)
カテゴリ:歴史 傳統 文化
本日は旧暦一月三日、鳥羽・伏見の戦。睦月、鶏はじめてとやにつく。 今日は「正論」平成十八年二月号に掲載された林道義元東京女子大学教授の「『皇室典範有識者会議』とフェミニズムの共振波動が日本を揺るがす 改正報告書に仕組まれた罠とは何か」から三回目。 林道義氏は皇室典範改正推進派が「女系が即位する事による権威の失墜」より先に「皇位継承制度を民主主義の論理で決定する事による皇室の否定」を狙っていると指摘する。 このたびの「女系天皇問題」に関して政府に言いたい事のある方は左記より。 元東京女子大学教授●はやし・みちよし林道義 「皇室典範有識者会議」と 改正報告書に仕組まれた罠とは何か (続き) フェミニズムが捏造した「国民の支持」 その証拠が「報告書」の中の「女子や女系の皇族に皇位継承資格を拡大する」理由の「イ 国民 の理解と支持」である。これはほとんど全面的にフェミニズムに依拠して書かれている。 「女性の社会進出も進み、性別による固定的な役割分担意識が弱まる傾向にあることは各種の世論調査等の示すとおりである」 「最近の世論調査で、多数の国民が女性天皇を支持する結果となっていることの背景には、このような国民の意識や制度の変化も存在すると考えられる」 「象徴天皇の制度にあっては、国民の価値意識に沿った制度であることが、重要な条件となることも忘れてはならない」 「国民のあいだでは、女子や女系の皇族も皇位継承資格を有することとする方向を積極的に受け入れ、支持する素地が形成されているものと考えられる」 これを見ると、「国民の意識」を金科玉条にして、それを女帝・女系推進の根拠にしていることが分かる。しかし、この「国民の意識」なるものは長期にわたるフェミニスト一派の意識操作によって作り出されたものである。 また、その根拠としている「各種世論調査」なるものも、狡猾に仕組まれた質問の仕方や統計のごまかしによるものが多いことは拙著『家族を蔑む人々──フェミニズムへの理論的批判』(PHP研究所)において詳しく暴露している。 百歩譲って、性別役割分担意識が若い人々のあいだで少なくなっているとしても、その傾向が今後も続くということは少しも証明されていない。逆に若い女性たちの間で高まっている専業主婦志向は繰り返しマスコミの話題になっている。 報告書はフェミニズムが「国民の意識」とイコールだという間違った前提に立って、こう結論づけている。 「今日、重要な意味を持つのは、男女の別や男系・女系の別ではなく、むしろ、皇族として生まれたことや皇室の中で成長されたことであると考えられる」 このように、男女の区別をなくし、機械的に男女の区別なく皇位につける制度にするのが、フェミニストの戦略目標である。女帝への「国民の支持」を誘導してきたのは、男女の性差をなくそうとしてきたフェミニストの活動であった。有識者会議を終始リードしてきたのがフェミニズムの思想と理論であったことは明白である。 「天皇制」反対派が女系容認派に だが、それだけであろうか。女系天皇はフェミニズムにとって有利なだけではない。もっと広範な反体制的・反日的な勢力にとってもまた、格好の温床と武器になりうるのである。いやフェミニズムの中にもそうした勢力が浸透しており、フェミニズムを隠れ蓑にしているのである。次のように考えると、その勢力のおおよその輪郭が明らかになる。 女系容認派の中には、「天皇制」反対論者たちが入っている。女帝を認めるか否かという世論調査の場合に、天皇・皇室の存続に賛成か反対かを質問していないので割合は分からないが、女系容認派の中には「天皇制」反対論者が大量に入りこんでいることは想像に難くない。 つまり「天皇制」反対派が大挙して女性天皇・女系天皇賛成派になだれ込んで、男女無差別が「今や時代の流れだ」と主張しているのである。このことの意味は大きい。すなわち「天皇制」反対派にとっては、女帝・女系は都合がよいということを意味しているからである。 では、彼らにとって女系天皇はどういう意味で都合がいいのか。女系天皇になると天皇の権威が落ちて、皇室の在りようが崩れていくからか。答えはノーである。彼らはそんな悠長なことを考えているのではない。女系への移行の仕方にこそ秘密がある。つまり議論の仕方そのものに罠が仕組まれているのである。 有識者会議は「国民の支持・理解」をなによりも重んじている。まるで絶対的な大義名分であるかのような扱いである。たとえば、元皇族の皇籍復帰は「国民の理解が得られない」の一言で片づけられてしまう。 しかし、皇室典範第一章「皇位継承」を民主主義的な議論の対象にした途端に、天皇・皇室は存続の危機に立たされる。女系容認に移行することが危機であるという以前に、男系に限るか女系を容認すべきかを国民が論議の対象にすること自体が、皇室の危機なのである。 ここはきわめて重要なところなので、詳しく考察しておこう。 「天皇制」は国民が決める? そもそも皇室典範第一章「皇位継承」は、原理的に変えることは不可能、かつ変えてはならない部分なのである。 もちろん法律上、手続き上は変更可能である。現在の皇室典範は憲法と違って一般の法律並みの扱いであるから、国会の過半数の賛成で変えることは可能である。しかし、私が言っているのは、手続き上可能かどうかではない。そうした「民主主義的な」手続きで変えてもよいかどうかを問題にしているのである。 天皇とは、原理的に民主主義とは相反する存在である。国家の最高権威であり国民統合の象徴と定められた存在が、世襲であり、血統を重んずる原理で決められるということは、国民の意思(投票や選挙)で物事を決定する民主主義の原理とはまったく別の原理によって存在していることを意味している。 現皇室典範は、形式的な法手続きの問題としてみれば、国会での過半数の賛成で改訂することができる。昭和二十二年に制定された内容は、旧皇室典範を大筋において受け継いだものであるが、その成立は「民主的な」手続きによって出来たものである。 しかし男系によって継承されるという原理には、「民主的」なアメリカも変更を加えなかった。それは理屈以前の厳然たる事実であり歴史的伝統であって、これに変更を加えることのできる正当な論理もなければ、いかなる者にもその権利はない。個人としての天皇にも皇族にも、この原理を変える権利はないのである。ましてや首相にも国会にも国民にもあるはずがないのである。 すなわち皇族や政府や国民のその時々の意思によっては左右されず、かつ民主主義的な手続きからは超然としている存在が天皇であり、皇室なのである。 したがって、この制度を民主主義的な手続きの対象とすること自体が間違いなのである。それはまるで、首相を選ぶように天皇を選ぶことに通ずるような、民主主義的思想によって事実上皇室を否定することも可能にするような考え方なのである。 一口で言えば、天皇、皇室はもともと民主主義とは違う原理で存続しているのに、それを民主主義的な手続きで変えようとする矛盾を犯している。したがって「皇室典範有識者会議」などというものを作ること自体、天皇と皇室の原理を否定するものである。 特に、その根幹に位置する皇室典範第一章「皇位継承」は、民主主義的な手続きによって手を付けてはならない部分である。もしこの部分が民主主義的な手続きで変更可能ならば、天皇・皇室そのものも民主主義的な手続きによって廃止可能だということになる。つまりこの部分に国民の代表たる国会が手を付けたが最後、ゆくゆくは天皇・皇室そのものもまた国民の意思で変更ないしは廃止することが可能だということを宣言したことになる。 (続く) 平成十八年 一月三十一日 コロムビア男性合唱団「宮さん宮さん」を聴きながら コメント・トラックバックは予告無しに削除する場合があります。あらかじめご了承下さい。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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