テーマ:皇室 三(37)
カテゴリ:歴史 傳統 文化
旧暦五月廿二日。皐月、梅の実黄ばむ。 本日は「正論」平成十八年三月号に掲載された寛仁親王殿下の「いま申し上げて置きたいこと」から三回目。 (続き) 絶対に変えてはいけないもの ─ 小泉純一郎首相のやり方は、「改革」の名の下なら、何でも変えていいんだというように見えます。でも変えて良いものと良くないものがある。日本として大事に守って行かなくてはならないものがあるのではないでしょうか。 寛仁親王 私たちは(立場上)小泉さんのやり方が良いとか、悪いとかは言えません。ただ、変えて良いものと絶対に変えてはいけないものがあるのは確かです。天皇家の中でも、どんどん変わって行った事があります。三笠宮家が良い例なのですが、皇族の歴史の中で、初めて親子が一緒に住んで生活をするという大改革をしたのはうちの両親が最初。二番目にそれを実行されたのが、いまの両陛下です。これもある種の改革でしょう。先帝様も随分色々な事を変えられました。一夫一婦制や殆ど洋服で過ごされるようになさった事もそうです。日本最古のファミリーもそうして次々と変えていらっしやった。私が《現場監督》として、この三十五年間、スキーや福祉の仕事で現場に徹して仕事をしてきたのも改革の一つです。 伝統というのは一度切ったらそこで終わってしまいます。郵政改革とは違うと思います。世界に冠たる伝統を築くにはまた、二千六百年掛かってしまう。良いものは、続いた方が良い訳ですよ。こんな大事なものを変えようとしている訳ですから、一朝一夕ではなく、最低でも五年間ぐらいは議論して、日本の津々浦々で意見を聞いて、それから、有識者会議がもう一度、答申を出されて、国会で国民の代表である議員が慎重審議をし、国民の大多数が納得するような結論を出す必要があると思います。 ─ 皇室、皇族のあり方について伺いたいのですが、殿下は皇室というのは「存在そのものに意義がある」とおっしゃっていますね。 寛仁親王 私は昔から感動しているのですが、先帝様は、台風などで被害が出ると、必ず「稲穂の状態はどうか?」「被災民は大丈夫であるか?」と待従に御下問される。農家の方たちや被災民の方々は陛下が心配して下さっていると聞いて、もう大感激です。だから、陛下がそこにいらっしゃるだけで国民が安心できる。陛下が国民の事、世界平和の事を常に考えて下さるから、我々は自由な事が出来るということは確かにあると思うのです。 私たち皇族は、職業選択の自由も限られていますし、政治、営利にタッチ出来ないということは、普通のサラリーマンも出来ないし、会社を興す事も出来ない。突き詰めて考えれば、私は皇族というのは仕事をするために存在するのではなくて、極端な話、存在していることに価値があるのだと思います。皇族は「血のスペア」ということですね。 背筋が凍った先帝様の打ち明け話 ─ 昭和天皇のお話が出ましたが、産経新聞で「戦後六十年で印象に残った人物」を読者に聞いた時、「昭和天皇」を挙げた回答が多かった。それだけ国民に親しまれ、敬愛されていらしたという事でしょうね。 寛仁親王 私が解釈しているのは、先帝様(昭和天皇)ほど、戦前戦中戦後という日本国が蒙った未曾有の大波乱、国難の時代を国民と苦楽をともにされた方というのは、他にいらっしゃらない。そこを国民はよく見ているのだと思うのです。私は、戦後生まれですから戦前戦中は判らない、先帝様の足元にも及ばない訳です。あれだけの国難に毅然として立ち向かわれた方はいません。しかも、公平無私という言葉が見事に当てはまる方でしたね。だから、鮮やかに印象が残る方といえば、私だって先帝陛下としか答えようがないと思います。 ─ 殿下は皇族のあり方について、何度か昭和天皇とお話をされたそうですね。 寛仁親王 皆さん方も一族の中で、長老とか中堅とか若造といった区別があると思うのですが、皇族の中では明快に序列が決まっていますから、しょっちゅうお会いしている割に、議論をするという事はなかなかないのです。私は子供の頃から、秩父宮様や高松宮様の所へお伺いして、よく議論を繰り返したものですが、同じ伯父様でも陛下の所へはそんなに行けないでしょう。 それが世間に漏れていない話だったので、吃驚したのです。一つは二・二六事件の時に、ご自分で「馬引け」とおっしゃったのですね。そして鎮圧に行くと。二度目は(終戦を決めた)御前会議で、和平派と継続派が三対三となり、鈴木貫太郎首相(当時)が「三対三で決着がつきません」と絶妙のタイミングで陛下の御意見を伺った時です。ただ、陛下は御自分の意見を聞かれたので答えられた訳で、「御聖断」とはニュアンスが違うと思います。決して立憲君主の道を踏み外された訳ではないのです。私がこの話を聞いた時は、まだ世に出ていなかった訳ですから、背筋が凍る気持ちがしました。これは他言出来ないぞと。それが、その後の記者会見で陛下、おん自ら、この話を明らかにされましたので、私も平気で話が出来る訳です。それがとても印象的でしたね。 (続く) 【二・二六事件】 昭和十一年二月二十六日、前夜から降り積った大雪の朝、第一師団の第一、第三連隊を中心とする将校と兵約千五百名は目標とする重臣たちの邸を襲い、斎藤実内大臣、高橋蔵相、渡辺教育総監を射殺し、侍従長鈴木貫太郎に重傷を負わせ、岡田啓介首相邸では、義弟を岡田と誤認して射殺、牧野伸顕と西園寺公望に対しては計画を果せず未遂に終った・・・ついには真崎も説得を諦めて、このうえは詔勅の発出によって反乱軍を解散させるほかはないと考え、川島義之陸相は参内して勅令を仰いだ。 こうなっては、反乱軍も、反乱軍に同情的な陸軍の将軍たちも、いかんともし難い。反乱軍は、兵を原隊に帰し、将校は陸相官邸に自首して縛についた。二十九日の午後二時であった。 【御聖断】 ・・・そこで鈴木はこの重大な事柄を決するに、じつに陛下ご自身にお願い申し上げ、国の元首のお立場から御聖断を仰ぐべきだと心中強く決するに至ったのである。そして玉座近くに進み出でて、かくなるうえは誠にもって畏れ多い極みでありますが、これより私が御前に出て、思し召しをお伺いし、聖慮をもって、本会議の決定と致したいと存じますと述べた・・・ そこで天皇は、「自分は外務大臣の意見に賛成する」と仰せられ、その御説明においては、誠に理を究め、曲を正す、正鵠な御認識によるお諭しの御言葉であり、いかに陛下が平素から正しく戦局を御認識あられたかが拝察できる御論旨であった。一同ただ声なく粛然と襟を正したのである・・・ そして最後に「このような状態において戦争を終結することについては、さぞ皇軍将兵、戦没者、その遺家族、戦災者らの心中はいかがであろうと思えば胸奥の張り裂くる心地がする。しかし時運の赴くところいかんともなしがたい。よってわれわれは堪えがたきを堪え、忍びがたきを忍び・・・・・・」と仰せられたかと思うと玉音は暫し途切れたのである。仰ぎ見ればおお、おいたわしや、陛下はお泣き遊ばされているではないか。 この玉音を拝するや、たまりかねた一同は御前もはばからず、どっと泣き伏したのである。なかには身悶える者もあったのである。 「重光・東郷とその時代」より 女性天皇と女系天皇の違い青、男系天皇 赤、女系天皇 男 ┌─女…雑系女子 平成十八年 六月十七日 高倉敏、近江俊郎「かくて神風は吹く」を聴きながら コメント・トラックバックは予告無しに削除する場合があります。あらかじめご了承下さい。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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