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風と散策

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2015.04.23
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テーマ:ニュース(99406)
カテゴリ:カテゴリ未分類
今、ジャカルタで開かれているアジア・アフリカ会議(バンドン会議)60周年首脳会議の事です。
去年11月の仏頂面会談から一転して、
中国の習近平首相とは和やかな会談を実現し、云々と云うニュースですが

元外交官の天木直人さんは、ブログで次の様な事を書いてらっしゃいます。

「プライムミニスター、シンゾー・アベ」
 場内に安倍首相の名前がアナウンスされ、演説が始まる直前だった。それまで各国首脳の演説に耳を傾けていた習主席が突然席を立って会場を後にしてしまったのだ・・・
こんなことが起きていたのだ。
  以下続く

中国はAIIB(アジアインフラ投資銀行)に、日本にこそ加盟して欲しくて
(日本の出資金、が中国の目的で)、本音はそこで今回の会談の実現に
こじつけたと思いますが、安倍首相は一時の習主席の美辞麗句で
承知する事の無きよう、切にお願いしますよ。

そして60年前のバンドン会議に際しての、日本の立ち位置が
良く分かる次の記述を挙げておきます。

Wikipediaより

日本からの出席とその反響[編集]
日本は高碕達之助経済審議庁長官を代表として十数名が参加したが、
他国はいずれも元首、首相級が出席し、政府レベルの国際会議となった。
出席者のなかには周恩来、インドのネール、エジプトのナセル等の顔もあった。
加瀬俊一外務相参与(後に国連大使となる)は、外務大臣代理で出席したのだが、
その時の模様を 「この会議の主催者から、出席の案内が来た。日本政府は参加を躊躇していた。
アメリカへの気兼ねもあったが、何分現地には反日感情が強いに違いない、
と覆っていた。私は強く出席を勧めて遂に参加が実現した。

出てみるとアフリカからもアジアの各国も『よく来てくれた』『日本のおかげだ』と大歓迎を受けた。
日本があれだけの犠牲を払って戦わなかったら、
我々はいまもイギリスやフランス、オランダの植民地のままだった。

それにあの時出した『大東亜共同宣言』がよかった。大東亜戦争の目的を鮮明に打ち出してくれた。
『アジア民族のための日本の勇戦とその意義を打ち出した大東亜共同宣言は歴史に輝く』と大変なもて方であった。
やっぱり出席してよかった。日本が国連に加盟できたのもアジア、アフリカ諸国の熱烈な応援があったからだ」と語っている。


戦後アメリカはいの一番に、この 「大東亜戦争」 を 「太平洋戦争」 と
改称する様仕向けました。
成程、上の記述から見ても、日本が東南アジアに果たした役割を
認める様な呼称は、是が非でも避けたかった訳です。

でもこの ”アジア解放が目的だった” は欺瞞だ、
本音は飽く迄も南方の石油が欲しくて南進した、だったとする
見解も勿論有ります。
いえ、寧ろ後者の見解が歴史的見解として妥当ですよね。
人の為に戦争を起こせる訳無い、ですから。

でも一つ分かっているのは、日本は石油が欲しくて東南アジアに進出した
(アメリカの対日石油禁油が戦争の引き金)。
その負い目をアジアの国々に対して感じて、
決してその国を乗っ取ろうとか、支配しようとか、
植民地(朝鮮は植民地、ではありませんからね)にしようとか
考えてはいなかった。

いえ、それどころか宗主国を追い出した暁には、
それぞれの国の独立を保障する、と言質を与えます。
そう言わなければ大挙して日本兵が進駐してくる言い訳が出来ませんから。

けれども宗主国のイギリス、フランス、オランダ、アメリカを追い払って
一時その国を支配した事実は有りますが、それは俄かにはその国の人々の
統治能力が無かったから仕方のなかった事でしょう。

独立を担保した証拠に、
「大東亜戦争」 開始1年間くらいは日本は破竹の勢いで欧米の宗主国を
追い払った後、インドネシア、ビルマ(ミャンマー)等に於いて
その国の人達による軍隊育成を図ったのです。
そして何よりも先ずは、自分達で経営する 「国家」 と云う概念を教えます。

その軍隊は、でも戦争後半、刻々減少する日本兵の替わりをさせようと
思っただけ、では?とする見方も一部出来ますね。
そこんところは私にも分かりません(笑)。
でも、その軍事教練を受けた人達で戦後日本が去った後に
再び帰って来た宗主国と戦う、指導者以下軍隊が出来上がっていた訳です。

インドネシアでは、敗戦後の日本兵2000名余が帰国をしたくて堪らなかったでしょうが、
戦後もインドネシアに留まって一緒にオランダとの4年超の独立戦争を戦い、
最前線に居た日本兵1000名余りが戦死した程の、事実が有ります。

そして他の国々も、世界規模の民族自決のうねりが沸き起こった中、
次々と独立をして行ったのです。
そんな中、アラブ、アフリカ諸国の独立は遅れた訳ですが、
エジプトのナセル大統領の言葉に次の様なものがあります。

日本に後5年頑張って欲しかった。 そうすれば中東とアフリカはもっと早く独立出来た筈だ。 そして中東もアフリカもこんなに苦しまずに済んだ筈だ。

ナセル(第2代エジプト大統領)
第三次中東戦争に惨敗した時の言葉 「アジアには日本がいた。アラブには日本がいなかった」


そうです、日本は東南アジアを植民地にしよう、侵略しようとしたのではない、
事ははっきり言えると思いますね。
だって、世界で一番先に、第一次世界大戦後の国連で
「人種差別撤廃法案」 を出したのは日本、ですからね(アメリカにより却下されましたが)。
その矜持の為にも、欧米の宗主国達を追い出した後の後釜を狙った、とは
到底思えないのです。


 





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最終更新日  2015.04.26 05:03:49
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