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そろそろまた、師走の声が聞こえてくる。先のことを考えるなどあまりないぼくなのに、もう来年のカレンダーを取り寄せてみた。それもちょっと変わった代物だ。「月と季節の暦」。表紙には太陰太陽暦と書いてある。ケーナ奏者の八木倫明さんが紹介していたもので、彼の音楽に感じた広がりはもしかするとこういう天体とのつながりにあるんじゃないかと、少し興味をもったわけだ。 「月と季節の暦」は、単なる日付や時間の流れを追いかけるだけのものではないようだ。中を開くと、「ご利用のために」などとマニュアルがついている。読みものとしても楽しい一冊だ。さっそく特集の「月時計―月を知る生き物たち」を読んでしまった。 「地球に存在する生命体は、それぞれのリズム、時計を内に蔵して生存を可能にしています。単細胞生物という極小の生き物から私たち人間に至るまでがそうなのです」。 「生物は、いわば月や太陽のリズムに同調する機能を本来備えているということであり、それは月や太陽の恵みを受けて生物が存在し、体内に月や太陽を蔵する小宇宙が私たち生き物であることを示しています」。 なんとなく聞いたこともあって興味深いのに、でもほんとうにはよく知らない話だ。人も自然、という表現をぼくは好んで使ってきたけれど、自然に寄り添って生きるような態度をなにひとつ取っていないなぁと気づいた。特集「月を生きる生き物たち」の最後のページは、人間についてだった。 「地球の1日とは、自転によって同一地点が再び太陽に向く平均24時間ですが、月に対する1日は平均24.8時間。この月の1日が体内時計として人間にセットされている可能性が非常に大きいのです」。 ![]() 特集には、睡眠と覚醒のリズムがこの24.8時間の周期を示した実験も紹介されているが、人類が誕生する前、はるか彼方の何十億年の日々に刻んできたリズムがまずこの宇宙にはあった。人はそろそろその時期だろうと、宇宙のリズムの中に誕生した生き物なのだ。人も自然、どころではなかった。人から見た自然、という視点ではなく、自然界のリズムが体内でも息づいているからこその人間なのだ。だからこうして今、呼吸している。 月のリズムを感じるとは、それではどうすることなんだろう。どんな暮らし方を言うのだろう。カレンダーの始まりに合わせることもない。月はきょうも地球の周りを回っている。 人と人はこの地球上で出会い、いつか天と地に別れてしまう。それを思うと、月を見上げながら言葉にならない思いが何度もこみあげてくるけれど、それもきっと、月のリズムを感じているからなのかもしれない。どうして月は、こんなにもやさしいのだろう。月的生活。月的な人。ぼくもそろそろ、そんな年だ。わけもわからず、そう思う。 ●「月と季節の暦」は、月と太陽の暦制作室の志賀勝さんが制作販売しています。 ![]()
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Dec 6, 2007 04:53:46 PM
11月27日は、ユコタンの一周忌だった。あれからぼくはもう1年を生きているのか。言葉にならない感情に浸りながら長い日々だと思っていたのに、もう1年か。ユコタンは今ごろどうしているだろう。死は、創造の新しい階段を上るようなものだと、どうやら前向きにとらえられるようになってはいるけれど、かなうものなら死後の消息を知りたいものだと忘れたことがない。 命日。この世の命が終わった日。そしてきっと、あの世の命が始まった日。死は、人という生命が続けている永久の営みの、一世一代という大イベントなのかもしれない。生きている間に気づけなかった大切ななにかを、死んでゆく人も、遺される人も、その死を通して思い出すことができる。ユコタンに出会い、ユコタンと別れなければ、ぼくはそんなことさえ知らずに、ただのほほんと生き続けただけかもしれない。 ![]() ユコタンは、ぼくとふたりで開いた「ひかりっ子くらぶ」のある日、一期一会ということばを使った。何度も開いたふたりの会はとても小さなものだったけれど、集った仲間と静かに深くふれあえる素敵なひとときだった。まだまだ続くと思っていたのに、もう二度と開けない。どんな出会いも一生の間にあるたった一度のものだと、あれからぼくの覚悟はできたんだろうか。その覚悟ができないなら、ユコタンとの別れを無駄にしてしまうことになる。そればかりは、ぜったいにいやだ。いま出会っていることに、出会っているこの瞬間に、精一杯の心を開いて、誠意を尽くしていなかったなら、なんのために別れたというのか。命日が、遺されたぼくにまた大切なことを教えてくれた。 ユコタンと出会ったのは50を過ぎてからだった。今度会う時は、子どものころから会おうと約束してある。そしてその前に、今がある。ヨシエどんとは高校で出会った同級生だ。どこかで、今度は若いころに会おうと約束していたかもしれない。人と人の出会いはきっと何度も同じメンバーで繰り返す、果てしない創造のマスゲームのようだとイメージしてみた。少し歩き出す勇気がわいてくる。
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Nov 28, 2007 01:19:32 PM
冬の前の青空にさそわれて、山を歩いてきた。身体の中で、山、山と声がする。山が恋しいんだろうか。登山家でもないのにと、自分でおかしくなる。 旧白峰村からの白山はすぐ間近に見えるせいか、神々しさが一段と増して感じられる。昇ったばかりのお日さまが里山の朝もやを黄金色に染めている。その朝もやを背景に杉の木立が真っ黒なシルエットをつくり、それと対比して透明なほど真っ白な御前ケ峰が浮かび上がっていた。 もちろん写真は撮ったが、こんな風景に出会ったときは撮るよりも、まずは感動だ。途中ですれ違ったあのカメラマンは、今ごろどこにいるだろう。美しいシーンを見ているだろうか、などと珍しくそんなことが気になった。見事なまでにすべてがそろった美しい瞬間に出会いながら、出会っていることは決して当たり前じゃないんだと、自然に手を合わせてしまう。 ![]() 登り口へと続く県道はすでに閉じていた。冬山を登るつわものたちは、ここから10キロ、20キロと雪道を歩くのか。何日かけて登るんだろう。ぼくのこの生涯ではもうあきらめるしかなさそうな冬の白山だなと、少し残念な気もする。行く先を変えて、先日登ったばかりの富士写ケ岳に向かった。標高は940mほどしかないが、富士山を思わせる形が美しい。加賀市役所の撮影をきっかけに白山の周りの山々を歩く面白さを覚えたぼくの、お気に入りのひとつになりそうだ。今年はもうひとつ紅葉が冴えなかったブナたちはいまごろどんなだろうと、それが楽しみだった。 いきなりの急勾配がぬかるんで歩きにくい。ゆっくり登るしかなったが、このところ朝の散歩が滞っていたせいか息が切れる。それでもまだ、山だ、山だの声に包まれて、身体が喜んでいるような気がした。 2時間ほども経ってようやくブナ林に入った。すっかり葉っぱを落として、みんな裸ん坊。まっすぐなやつ、少しねじ曲がったやつ。お日さまのスポットライトを浴びて林立している姿はまるでダンスをしているようににぎやかだ。風がその間をすり抜けて、ぼくの身体をも抜けていった。インドで風を感じてからというもの、ずっと風になりたいと思っていた。もうあきらめてすっかり忘れていたのに、いつの間にか風になっていたんだ。誰にも悟られない静かな喜びがわいてきた。 帰りは登りよりずっと大変だった。雪を見かけてうれしかったのはほんの一瞬。なにしろ滑る。3回も転んだ。1度はまるでスローモーションで、カメラをかばうように身体をひねっている自分を感じながら転げ落ちた。おかげであちこち今でも痛い。でもこの痛みをなぜか身体は大いに喜んで満足しているようだ。相変わらず山、山の声に包まれて。まったく切りがないやつだ。
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Nov 26, 2007 06:04:41 AM
秘密の原っぱの空に向って、きのうもきょうも、大声で歌った。歌詞などないから歌というほどのことでもないか。口から流れ出るに任せて、「あ」の音だけでメロディーをつないでいった。いつものオカリナと違うせいか、小鳥たちは静かだ。聴き入っているんだろうか、それとも羽で耳をふさいでいるんだろうか。朝の静けさの中を声がこだまする。目をとじて、両手を広げて歌うと、勇気がわいて声はどんどん大きくなっていった。どこまで届くだろう。音の高低にはある種の力があるような気がした。言葉のない歌だからこそ、気持ちが乗ってゆくのか。喜びも寂しさも、いろんな気持ちがひとつになって、メロディに乗って広がってゆく。2、3分も歌っただろうか。生意気にも十分に歌い切った気がして、そのまま静かに立っていた。閉じた目の中で、空の友が微笑みながら拍手をしている。よく見ると、大勢の友がいた。みんないっしょに、聴いていてくれたんだ。 空があるように、あなたといたい。 山元加津子「宇宙の約束」 ![]()
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Nov 24, 2007 03:56:00 PM
ものの見事にハードディスクのひとつからデーターが消えた。仕組みがわかって使っているわけではないぼくに詳しい原因を突き止めることはかなわないが、とにかく初期化されたみたいにきれいさっぱり吹っ飛んでしまった。幸か不幸かデーターの中味は仕事関連ではなく、誕生以来ことあるごとに撮ってきたかわいい孫たちの写真だった。ヨシエどんは「よかったじゃない。仕事じゃなくて」と慰めてくれたが、その瞬間にぼくの口から出た言葉は、「仕事ならごめんと謝ればなんとかなるよ。でもタウリンたちとの時間はそんな簡単なもんじゃない」だった。正直な気持ちだった。 デジタル化の波に乗って、ぼくは割と早くからデジカメを取り入れた。写真は銀塩にかぎると言う愛好家の話をときどき耳にするけれど、その歴史はまだ200年にも満たない。誕生してアッと言う間に変遷してきた写真の、いったいなににこだわる必要があるんだろう。憧れの先輩の真似をするようにコダクロームの発色が好みなどと言っていた時期があったぼくも、いつのころからか、生きている時代にあることを肩に力を入れずに楽しもう、という気持ちになって行った。ぼくの写真は何に記録するかより、生きているいま何に出会って、どう感じて、どう撮るのかと、自然に動いてゆく自分自身の瞬間がもっとも興味深い。ちょっと大袈裟なようでも、それこそがぼくが生きている、という気がするほどだ。 ![]() photo by Namiko とは言いながら、データーは消えた。消えてやっぱり悲しい。はかないもんだ。フィルムなら防湿箱に保存しておく限り、ぼくが生きている間ぐらいはそのままだろうに。でも待てよ。火事もあれば天災だってある。仕事場もろともガラクタになってしまうことだってあり得るんだ。そこにぼくがいれば、同じように跡形もなく消え去ってゆく。どこかに境界線を引いて、ここからははかないもの、ここからは永遠のもの、などという区別などできない。大体が、地球や宇宙さえも、生まれて死んでゆく存在なんだ。はかないのはデーターだけではけっしてなかった。 はかないものに、少しだけこだわることにした。100パーセントじゃないがデーターが復旧できたと、依頼したパソコンショップから知らせがあった。伝えてきた代金はなんと100,550円。2日ほどの作業代らしいが、店主の言葉は「それで高いのかどうかはデーターの重要度の問題」とそっけなかった。大切にしているなら高くて当たり前なんだろうが、子や孫たちとの思い出の数々に値段なんかつけられるか。データーどころじゃない。人の命だって同じなはずなのに、嘱託殺人があり臓器が売買されている。まったくなににこだわって、世の中は成り立っているんだろうか。 その復旧したデーターをきょう受け取りに行く。財布の中味もこれできれいさっぱりなくなって、返ってすっきりした気分だ。はかないのだ、すべて。でもな、ほんとうに大切なものは、どこへも行きやしない。死んで還るまで、この心の中に大事に大事にしまっておこう。もしかするとそれは、天にだって持ち帰ることができるかもしれない。
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Nov 24, 2007 01:18:13 PM
一度断食というものをやってみたかった。おまけに沈黙という得難い経験もできる。2月に参加した小食念仏道場が実に良かったからと、迷わずに参加した愚静庵の沈黙断食道場だった。ところがふたを開けてびっくり。ほとんど一日中念仏と瞑想の繰り返しで、静養気分でなんとなく描いていた内容と大きなずれがあった。 初日にして、「こんなことやめて帰ろう」と思いはじめた。何時間も声を出して念仏を唱え、なにが沈黙だ。これじゃ修行だ。修行は好みじゃない。静かに座るための瞑想の時間だろうに、ぼくの心と頭の中はグルグルと不平不満の渦がさかまいた。ああ、いやだ。ほんとにいやだ。 そこに現れたのが、比叡山千日回峰行を2度までも満行された酒井雄哉大阿闍梨の姿だった。お会いしたこともなければていねいに著作を読んだこともないのに、なぜだか比叡山を歩いている様子が浮かんできた。「なんのために歩いているのか」。死をも覚悟した行を続けながら何度迷われたことだろう。単純なぼくだ。「阿闍梨さんの過酷な行に比べたら、こんな道場、屁でもない」と思い直していた。 ![]() 4人の参加者のうち2人が体調をくずして、何日かはタカちゃんとぼくだけになった。正座や結跏趺坐などできないぼくは長い時間姿勢を保つのさえ苦労したが、それは若いタカちゃんも同じようで、たまに足を伸ばしたり背中を叩いたりしていた。ぼくはぼくで、念仏のリズムに合わせながら得意の背骨ゆらし。まったく行とも言えない、滑稽な行の姿だ。 ああ、もうだめだ。体力気力ともに果てそうになる度、タカちゃんがシャキッと座り直して、姿勢を正し合掌した。それを見て、ぼくもまた立ち上がれた。娘ほどの世代だろうに、大したもんだ。弥山堂から見えるふかしぎ光山に向かって、ふたりで手を合わせながら想像した。タカちゃんとぼくは同じ星からやってきた同士なんだ。いまふるさとの星では大変な紛争が起きている。ふたりで並んで祈りながら、それを鎮めているところなんだ。面白くもない念仏の時間は、ぼくの想像をふくらませる愉快な時間にもなった。 こうしてなんとか、1週間の道場を乗り切った。まったく、ようやく乗り切った。「少し念仏と瞑想の時間を減らしてほしい」と願い出て、完璧にやり遂げたわけではないんだから、乗り切ったとはお世辞にも言えないかもしれないが、それでも時々の助けがあり、それぞれに得るものがあるんだから、互いに影響しあう人生とはほんとに不思議なもんだと感じてしまう。
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Nov 23, 2007 08:43:17 AM
![]() 風にも言葉があるんだ 耳を澄ませてごらん そよ風のちいさな声がきこえるだろ もっと聞きたければ、耳に手のひらをあてるんだ ほら、ささやくような風の波 やさしくこころを吹き抜けてゆく かあさんの、あの ぬくもりに似て 風の言葉
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Nov 22, 2007 02:17:33 PM
人には身体があって、心もあって感情があり、それにもうひとつ、見えない魂もあるという。『ミュータント・メッセージ』のあとがきにたしか、現代人に向けたアボリジニの長の言葉があった。「あなた方はなぜ魂の話をしないのか。あなた方には魂はないのか」。それを読んでぼくは相当なショックを受けた。魂って、ほんとうにあって、それを感じて日常として生きている人たちがいたのか。 ぼくは、ぼくも魂であると、だから信じている、つもりだ。けれども残念ながら、その存在を確かなものとして感じたことがない、ようだ。どうして魂ってやつをもっと身近に感じることができないんだろうと、ずっと思ってきた。 『神へ帰る』の中に面白い言葉をみつけた。 「感情は魂の言語なのだ」。 言葉は心の創造の産物で、行動は身体の言語だとも言っている。そして、「感情は最初の思考であり、純粋な思考だ。感情は言葉にならない思考だよ。何かについて『語る』ことなしに、たくさんのことを伝えている」。 ぼくがほんとうに撮るとき、つまり撮ることに集中しているとき、そこには言葉はひとつもなかった。思考さえないのかもしれない。なにかを感じていることは間違いないけれど、それがぼくの意識には上っていないのだから、言葉で表すことなどとてもできない。そこにもしかすると、魂ってやつが関係しているんじゃないだろうかと、少しうれしくなっている。 ![]() 大して実感もないことをぐだぐだと考えているぼくに、友は言った。 「私達の本質が魂だから、鏡のようなものがない限りは自分が見えにくいのと同じようなもの。目を内に向けないで、外にばかり向けて、自分を外に探してるんだな。頭のさきっちょにぶらさげた人参を追い求める馬のように外に向かってるんだな」。 これは参った。まさしく今のぼくだ。これまでずっとそうしてきた、ぼくの姿が見えるようだ。人が魂だとしたら、その魂から魂を感じることは実に難しいかもしれない。 「魂は神の性質を持ち、個性をも持った存在。個性だけに注目して神の部分であることを忘れてしまったんだね。もし神と一体に繋がっていることを思い出し実感することができれば、個性を持ちながら神の性質を持つ素晴らしい生き方ができるね」。 そうだな。ぼくは、ぼくという個性をとても気に入っている。一時は、この人生なら永遠につづけていたいと思ったほどだ。でも、確かに抜け落ちていた。神の性質がぼくの中にもあることなど、畏れ多くてとても言えないだろう。だからか、神はいつも見守っている、という言葉に隠れて、これまで好き勝手にやってきた。ああ、でももういいや。人は誰もがみんな神の性質を持っているんだ。ぼくだけじゃない。みんなだ。だったらこれからは少し違った生き方をしようかな。 ますます感情を大切に。そこには、ぼくの真実があるんだ。ぼくの感情は、ぼくの魂の言葉なんだから。そうだろ、ぼくの魂。
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Nov 22, 2007 01:21:33 PM
4畳半にも満たない弥山堂の空間に4人がすわり、念仏と瞑想を繰り返していた。静かな時間が流れている。ただ、見えないけれどぼくの中ではざわざわと、こんな時間、早く終わらないかなと騒いでいる。突然ごう音とともに強い風が吹いた。目を開けた。開けて、驚いた。何万枚もの葉っぱが青い宙を舞っているのだ。きらきらと、くるくると、輝きながら。3枚のガラス戸越しに、それは信じがたいほど神々しい絵のようだった。数分もその絵は続いた。ひらひらと、はらはらと、降りてくるようだ。あれらはきっと、落ち葉とは呼ばない。黄色や橙色にひかりかがやく天使にちがいない。ざわめく心でしか座れないぼくだとしても、それでもいいのだと、天使たちがささやきかけていた。 ![]()
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Nov 22, 2007 06:08:25 AM
![]() 窓を開けると、外は雨。冷たく湿った空気をゆっくりと吸い込んだ。北陸人は多湿を好む、などと言ったらほかの市民は否定するだろうか。それなら、ぼくは湿り気を好む、と言い直そう。肌もしっとり、心まで。やがて降ってくる真っ白な雪がふうわりと積もったところへ静かに身体を沈めるのは、さらに好み。ぼくの冬の最高の楽しみだ。つめてー。雪まみれの顔を一度自分で見てみたい。気持ちいいとかでもなくて、雪と遊ぶと喜んでいるのがわかる。身体も心も、ぼくの全部で。それに今気がついたけれど、これは想像するだけでも同じように感じられる。冬、早く来ないかなぁ。ぼくを真っ白にしておくれ。
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Nov 21, 2007 08:15:37 AM
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