カテゴリ:雑記
久しぶりに行ったばいかも。
マスターは笑顔で迎えてくれた。 隣に座った常連さんが俺のことを覚えてくれていた。こちらも名前を知っていたので「○○さんですよね」と。 少し話した。 店のお客さんとも仲よくさせてもらっている。いまだに飲み会に誘ってもらったり。 ばいかもに行った帰り道。 ふと思う。 会社では、笑いながら酒を飲めるみんな。 大学の農場に行くと、担当教官の先生、後輩。 サークルの先輩もたまに集まり、一緒に飲んでは昔の話で盛り上がる。 旅先で知り合った方々。こちらからの再訪。また島根までたずねて来てくれる方も。 赤穂に帰ると、高校の時にぼろくそに怒られたバレー部の顧問、親よりも一緒にいたチームメイト。中学時代から釣りに、キャンプにと遊んでいる友人。 そして家族。 もう亡くなったが、いつも犬の散歩に行ったり公園で遊んだり、俺をかわいがってくれたおじいちゃん。 いつも一緒に買い物に行っている、あっけらかんとしてのんびりしているかのように見えていろいろ考えているおばあちゃん。 小さい時から釣りに、キャンプに、いろいろなものを見せてくれた、大学進学の時はわざわざその大学があるところまで連れて行ってくれた、自分の気持ちの表現のヘタクソな、不器用な親父。 いつもうまい飯を作ってくれ、テストだといったら勉強させられ、運転ができないので電車で遠くへ出かけたり、また、ギターを片手にフォークソングを歌ってくれたりした気分屋のおかん。 最近まであまり話もしなかった、気の利くやさしい弟(どうして兄弟でこうも違うのか…)。 多くの経験。忘れてしまっていることもあるが(忘れていてもどこかでそれが生きている気がする)、それらすべてが今の自分を作っている。 俺は幸せだと思う(何を突然…)。 こんなに人に囲まれて、働けて給料をもらい、夜には酒も飲めるし、休みがあれば遠く、近くに出かけることもできる。 世の中、暮らしに困っていない人までが格差社会がどうのこうの騒いでいる。 うちのおかんもなんやかんや言っているが…。 あんなもの、気持ちしだいだと思う。 豊かな生活が当たり前という大前提のもとでのことではないのか。 満足できる生活、その意識が高まりすぎているだけな気がする。 リッチなホテルに泊まり、高い飯を食い、いい風呂に入る。(俺も1度は泊まってみたい?) でも…。その空間の不自然さに本当にリラックスできるか? 家で寝る。十分である。 外でテントを張って寝る。テントという囲いの中で風や虫の音、たまには雨。十分過ぎる。 米が食えて、刺身が食えて、肉が食えて…。満腹になる。 以前、富山の五箇山で宿のおばあさんに「昔はおてんとさまを拝んでありがとうと言ったもんだ」と聞いた。 俺も含めて、今の日本にどれほどいるだろうか。 生かされていると思うこと。生きると思うこと。 ただ生きているのとは違う。 甘やかされて育った俺はいまだに勝手なことばかりしている。我慢することを知らない。その悪いところにも気づかない有様である。 そんな俺ではあるが、こうしてたくさんの人にめぐりあって、世話になり、よくしてもらい…。 北海道で聴いて以来、松山千春がお気に入りであるが…。 ふるさとの歌、人生の歌など。 しかし、これらをしっかり聴いて口ずさみ、しっかり受け止めるところまで俺は達しているのか? 山や川など、それらの景色が大好きである。ふるさとの播州、赤穂が大好きである。 だが、大好きだと自信を持って言える自分なのか? 俺はその自信がない。 酔うとわけがわからないことを言っている。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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