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東京漂流記 [全1103件]鮒谷さんの本を読んでいたら、建築家・安藤忠雄さんの興味深いエピソードが2つ出てきた。一つは中学生の頃見た東大寺南大門の話で、とにかくスゴいと思ったそうだ。2つ目は「建築を目指すなら見た方がいい」と言われてパンテオン神殿に言ったときの話。実際に見て、全く何も感じなかったし、興味もわかなかったそうで、回想として「(好奇心を持つには)知識も必要だった」とのこと。 岡本太郎さんなんかは、芸術はとにかく見て、何かを感じればいいという考えだと思うので、「知識があろうが無かろうが直感的に」と言うのかも知れない。一方では、芸術マインドが足りないのか、私はその芸術家のエピソードなどを事前に聞いた方が、作品を見たとき何となく分かった気になれる。芸術はどう鑑賞すればいいのだろう。なかなか難しいもんです。 【送料無料】変われる人
爆問学問で「君はシリアスゲームを知っているか?」を昨日放送した。 といっても録画をミスったので来週の再放送まで見れないが(涙)、シリアスゲームとか、ゲーミフィケーションが今後どんどん進んでいく事は間違いなさそう。 給与やポジションなどの外発的動機付けから、内発的動機付け(要は「やりたい」という気持ち)がどんどん重要性を増すなかで、学校教育にも、そして会社経営にも、このコンセプトが活用されていくのは時間の問題だと思う。(というより、すでにうまく言っている事例の中ではゲーム的要素が活用されているので、それが可視化されるという方が近いかもしれない) http://www.nhk.or.jp/bakumon/previous/20120119.html
「アリストテレスの哲学の基本的な概念は、ギリシャ語の基本的な言語構造からいわば、強制されて引きずり出されたものであることを、私たちは知っている。逆に、極めて遠い外国語がかすかな光によって私たちに暗示することのできる抜きがたい断絶の姿、そのなかに身体ぐるみ運ばれることは、なんとありがたいことか」 ロラン・バルド「表徴の帝国」 ロラン・バルドは構造主義を代表する論客の一人であり、人間の思考が言語体系によって規定されると考えた。同じような言葉をしゃべっているようで、たとえば日本語で「ごはん」が意味するところは、フランス語の「ごはん」が意味するところとは異なっている。同じようにすべての言葉や語法において、我々は少しずつ異なる認知体系を持っており、それが結果的に、思考そのものを作り出していると考えた。 これが、バルドのいう「断絶」である。 英語はロジカルだといわれるけど、なるほどしゃべっていると、自然にロジカルにならざるをえないストラクチャーが、英語そのものの中に内包されている。 つまり英語をしゃべる人はロジカルに見えるは、「賢いから」とかそういう理由ではなく、単にそういう言語体系だからにすぎない。 日本語はどうかといえば、英語には絶対に表現できないニュアンスや、独特の思考プロセスを内包している。 そして同一言語内でも、属するコミュニティによって使う言葉はまったく異なる。 言葉が人間の思考(認知)を方向づけているという意味では、「演じる」ということにかなり近いニュアンスを持っている。 つまり、しゃべる言葉を換えると、思考が変化するのだ。思考を変える前に変えるべきなのは、「ことば」なのである。
「プロフェッショナルを演じる仕事術」(PHP)が世に出てからもう少しで2カ月。 この本は、私自身がいろいろな人から教えてもらった「学び方の方法」を、多くの人とシェアしたいという思いから執筆した。 ただ文字数の制限によってカットせざるをえなかった内容も多く、出版後に寄せられた感想の中に「なるほど。それはおもしろい視点だなあ」と思ったものも数多くある。 そこでブログを通じて、本に書ききれなかったことを、思いついた時につれづれと書いてみたい。 この本を貫いているテーマの一つは 「我々を取り巻いている世界は何なのか」 「我々に何かを演じさせようとしている世界をどのようにすればコントロールできるのか」 ということ。 このテーマを掘り下げていくと、そもそも「社会はなぜ今のようになっているのか」について考えることになり、さらにその社会の中で 「これは良いこと(善)」「これは悪いこと(悪)」 という善悪の価値観がどのように決まっているのかを考えることになる。 たとえば、私たちは 「《人を殺してはいけない》なんて当たり前じゃん」 と思っている。では、もし子供に「なんで人を殺しちゃいけないの?」と問われたら、何と答えたらいいだろう?大人が 「駄目なものは駄目なんだ」 と言ったら子供は納得するだろうか。僕が子供だったら納得しない。 私たちが普段から「当たり前」と思っていることは、何かの理由によって作り出されている。 それを知るためのヒントが「構造主義」という哲学にある。何やら難しそうな言葉だが、ざっくりと僕の解釈を書いてみる。 まず、そもそもの社会の成り立ちについて考えてみよう。何の秩序もない原始的な社会では、人は何をしようが自由だった。 人を殺そうが、盗もうが、誰もとがめる人はいないし、食糧が少なければ、当然ながら人を殺してそれを奪ってもいい。 このように人間はもともと、自分のしたいことを自由にする権利(自然権)を持っている。 ところが自分が他人を殺す権利を持っているということは、同じように他人も自分を殺す権利を持っているということを意味する。 これは怖い!だって、突然誰かがやってきて、何の理由もわからずに殺される可能性もあるからだ。(まるで「北斗の拳」のような世界といっても、分かりにくいかな?) このようにすべての人が好き勝手に行動して、その結果として殺されてしまっては、その他の好きなこともできなくなってしまう。 そこで人々は 「自分が好きなように何でもやっていい」 という権利のうち、その一部(たとえば他人を殺してもよいという権利)を放棄して、 「その代わりに他人も自分を殺さない」 という約束をするのが得だと考えるようになる。 もちろん世の中には自分勝手な人もいて、 「そんなの知るかい!」 と勝手に約束を破る人もいるから、そのような事ができないように、約束を破ったら罰を与えることもできるような権力者に仕切ってもらうことになる。これが昔の「王様」の役目だった。 ところが、どこの世界でも人は権力を与えられると暴走する。王様だって、そのうち 「俺は偉いんだ」 「何をしてもいいんだ」 と勘違いして、民衆に対して独裁政治をするようになってしまう。人々が殺しあわないように、その約束の保証人として「王様」にお願いしたのに、その王様が好きなように民衆を殺すようになってしまったら、まさに本末転倒。 そこで、王様という個人ではなく、「法律」という社会契約によって 「これはやっちゃだめ」 「これはやってもいいよ」 という取り決めをしましょうという風に、社会は進んでいく。 もう一度、繰り返すと 「自分が他人を殺す権利を放棄することで、他人も自分を殺すことができないようにしましょう」 つまり自分ができる事が100あって、そのうちの1つである「人を殺す」をあきらめることによって、99が自由にできるような社会を作りましょう、という合理的な発想が元々あって、人を殺すことが道徳的に「いい」とか「悪い」とか価値判断はなかった。 そして殺人以外にも、人々が快適に生活できるように、さまざま約束をしましょうということで社会的な契約が結ばれていくことになる。 しかし 「自分のしたいことをするために、泣く泣く一部をあきらめる」 という極めて自己チューで、合理的な理由で決められた約束だったのに、それがずーっと繰り返し行われているうちに、それは無意識に実行している「当たり前」の事になり、そもそもの理由は、人々に完全に忘れ去られる。 そして、そのうち 「大勢の人がやっていることはいいこと」(善)だ」 という価値判断に変化していき、 「みんなやっている事は正しいことだから、みんなと同じようにやりなさい」 と言われるようになる。つまり、その社会にいる限り、ルールに従って演技を強要されるという事になる。 さらに大衆はピラミッド型の組織をつくり、上の方にいる「偉い人」がいう事が<価値的>にも「正しい」という事になっていく。 なぜかと言えば、その偉い人は「こうしなさい」と他人に命令することで、大衆の行動コントロールすることができるから。 「大勢のしていることが正しいこと」と多くの人は盲目的に考えるために、偉い人の言う事が、価値的に正しいこと、と考えられてしまうのだ。 そもそもの合理的な理由が忘れ去られ、 「群衆(大衆)に従う事自体が良いこと」 と考えるようになると、群衆はだんだんと暴走し始める。 人と違う事をやっている人は、そのやっていること自体が正しいかどうかより、 「みんな(群衆)と違う事をする奴」=「悪」 のレッテルを張られる。 ーーーー たとえば、僕は学生時代に何度も生徒委員会や、その顧問の先生に 「この校則は変えるべきだ」 「できないなら、なぜこの校則は今のようになっているのかを説明してほしい」 と提案したことがあるが、彼らから出てくる答えは決まって、 「大勢の学生から不満の声は上がっていない」 「他校も同じようにやっている」 というものだった。つまり 「大衆が従っているんだから、それが正しいに決まっている。だから従いなさい」というものだった。 実際に 「大衆に反抗するなんてガキのやることで、権力に従う事こそが「大人」になることだ」 みたいな妙に冷めた見方が僕の周りでは多数派だったし、そういう反権力的な姿勢を取る僕を悪人とか、危険人物的とみなして、距離を置くクラスメートも結構いた。僕には、そのこと自体に違和感を感じていた。 僕が持っていた学生時代に持っていた「違和感」に対して、明快な説明を与えてくれたのは、大学に入って勉強したホッブズ、ルソー、ロック、カント、ニーチェなどだった。 さて、僕の本でもニーチェの言葉を引用しているが、 「隣の人と同じようにすることが(価値的にも)正しいことだ」 と考えている群衆を「畜群」(ヘールデ)と呼んで軽蔑した。 もちろん「殺人の禁止」のように、そもそもそれが禁止された合理的な理由どおり、それに従う事が良いものもたくさんあるが、きちんと吟味せずに何でもかんでも大衆の価値観に従っていると、自分自身も「畜群」になってしまう可能性がある。 ーーー さて、ここまで、ざっくりとした社会の流れを解説したが、お読みいただければ、私たちが「これは正しいこと」「これが悪いこと」と考えている事が、必ずしもいつの時代も正しい<普遍的な真実>などではない事がわかる。 もともと価値観は合理的な理由によって人工的に、そして社会構造的に作り出され、そして大衆によって実践されているうちに「当たり前」になっていった。 「プロフェッショナルを演じる仕事術」で、自分の当たり前だと思っている価値観が、いったい何に立脚しており、そして世の中が自分に何を演じさせようとしているかに気付き、 そして最後には自分の意思でコントロールできるようにしよう、と何度も書かせていただいたのは、こういう考察がある。 プロフェッショナルとは、ある意味で大衆の価値観に盲目的に従わず、自分の価値観を絶えず疑い、何度も問い直し、自分なりの哲学を確立し、その道を生きている人のこと。 そこから学ぶとなれば、自分自身も、自分の価値観を疑う事から始めななければ、同床異夢で、似て非なるものになってしまうと思うから。
出版記念セミナー 「プロフェッショナルを演じる仕事術」(PHPビジネス新書) の発刊を記念して 「ビジネスの達人の技を120%吸収する「教えられる技術」セミナー」 を丸の内で開催予定です。ご都合がよい方はぜひ。 ○日時 2011年12月17日(10時30分~12時30分) ○開催場所 東京21cクラブ (JR東京駅 徒歩1分) ○参加費 2,500円(税込) 詳細はこちら http://kokucheese.com/event/index/22613/ 言語学的に<インドヨーロッパ語>という分類がある。 読んで字のごとくアジアである「インド」で発展したサンスクリット語と、「ヨーロッパ」で発展したラテン語やギリシャ語は語源が一緒ということ。 となれば、必然的にフランス語や英語、そしてサンスクリット語を元にして中国から「漢字」として日本に伝わった仏教用語にはコネクションがあるという話になる。 山並正一「語源でわかった!英単語記憶術」に、<南無阿弥陀仏>についてこんな解説がある。 言語的に「南無阿弥陀仏」は下記の3つに分解できる。 <南無 namo> <阿弥陀 amita> <仏 Buddha *"Amitabha> まず<南無 namo>は、英語でいう「name」と語源が一緒。英語で動詞の「name」は「~名前を呼ぶ」という意味。 つぎに<阿弥陀 amita>は「a」と「meter」に分解できる。 「a」は英語でいう「un」「an」 と一緒の語源であり、「~ではない」という否定の意味になる。例えば「undo」(やらない)という単語を思い浮かべると分かりやすい。 続いて「meter」は読んで字のごとく「メートル」という意味で、動詞としては「~を図る」という意味になる。 ということで、一緒にすると 「~を図ることができない」 になる。 <仏Buddha>は、まさにゴーダマ・シッダルタ=御釈迦様のこと。 もう一度、「南無阿弥陀仏」の意味を全部つなげると 「(人間には)図り知ることのできない(偉大な)仏の名を呼びなさい」 (英:Name unmetered Buddha) ということで、ナンマイダーというのは、実は文章として普通に理解できる事がわかる。
福島県議選が11月20日に行われた。その結果が実に不可解。 今回の投票率は47%で、前回2007年の56.99%(過去最低)を9.48ポイントも下回った。 福島原発の避難区域となった双葉選挙区は54.49%で、11.68ポイント下がったが県平均は上回ったそうだ。 こういうときだから、県民は言いたい事がめちゃくちゃ多いだろうし、とくに非難区域となった被災地の投票率は比較的高いことから、選挙に行けない人が多いので投票率が下がったという事も無いはず。 でもこの投票率の低さは何だろう。 県外に避難している人がいることを考慮しても80%ぐらいあってもおかしくないのでははないか? 「怒りを通り越してあきれた」 と言ってみたところで、アクションを取らなかったら何も変わらないのではないか。どうしてこうなってしまうのか。 http://www.kahoku.co.jp/news/2011/11/20111122t61002.htm
英治プレスさんのHPで何ともうれしいニュースを発見。 有隣堂ヨドバシAKIBA店 ビジネス書ランキング2011. 11.6 ? 11.12 1.『スティーブ・ジョブズ 2』(W.アイザックソン著 講談社) 2.『スティーブ・ジョブズ 1』(W.アイザックソン著 講談社) 3.『ザ・ラストバンカー ? 西川善文回顧録 ? 』西川 善文著 講談社) 4.『一瞬で大切なことを伝える技術-論理的な人になれる世界一シンプルな思考法 』(三谷宏治著 かんき出版) 5.『自分のアタマで考えよう ? 「知識」にだまされない「思考」の技術 -』ちきりん著 ダイヤモンド社) 6.『どんな本でも大量に読める「速読」の本 』(宇都出雅巳 著 大和書房) 7.『ずるい考え方-ゼロから始めるラテラルシンキング入門 』(木村尚義著 あさ出版) 8.『プロフェッショナルを演じる仕事術 』( 若林計志 PHP研究所) 9.『ルフィの仲間力 ? 『ONE PIECE』流、周りの人を味方に変える法 -』(安田 雪著 アスコム) 10.『僕は君たちに武器を配りたい』瀧本 哲史 著 講談社)
著書「プロフェッショナルを演じる仕事術」がアマゾンで「なか見!検索」ができるようになりました! およそ出版から一ヶ月ぐらいで用意されるものなんですね。 楽天ブログではアマゾンへの直リンクがはれないのですが(汗)「買おうかなー」とご検討いただいている方はぜひご覧ください。 まえがきから第一章「カツ丼を食べる謎」、そして「スタンフォード監獄実験」のあたりまでがざっと読めるようになっています。 そろそろ発売から一ヶ月ほど経ちますが、人生初の自著へのサインをしたり、初出版セミナーをやらせていただいたりと、いろいろと「初」が続きます。うれしい限り。
今朝、NHKの朝の連続ドラマ「カーネーション」を見ていたら、主人公(洋裁師)が自分のお客であるダンスホールの踊り子の向かってこう諭すシーンが出てきた。 「人は着るもんで変わるんや。私があんたに本当の本気で最高のドレスを作っちゃる。あんたは毎日その服を着て、釣り合うようにがんばればええ。」 話は変わるが映画「マイフェアレディ」で、主人公のイライザがこう言うシーンがある。 「ピッカリング大佐は私をレディとして扱ってくれる、だからあの人の前ではレディになれる」 人は「扱われ方」によって変わる。そのきっかけを作るものは、内面的なものよりも、むしろ着るもの、しゃべり方、といった外見だったりする。 そして「扱われ方」が変わることで、内面がだんだんと変わっていく。 「マイフェアレディ」の原作者はバーナード・ショウ。 その原作名は「ピグマリオン」。 一説では心理学に言う「ピグマリオン効果」はここから名づけられた。 「プロフェッショナルを演じる仕事術」(PHP新書)では、このあたりの心理メカニズムを、うまく自分の仕事力アップにつなげるにはどうしたらいいのかという視点で書いています。 |一覧| |
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