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かっこいいホンダの広告をパシャリ。 ![]() ホンダイズムの原点である本田宗一郎さんをモデルにした「ニワトリを殺すな」という本があります。最近この本の存在を教えてもらったのですが、この本の中に「ニワトリ会議」の話が出てきます。 ニワトリは群れの中に血を出しているニワトリがいると、みんなでよってたかってつついて殺してしまうそうです。そして、このニワトリの群れのような会議が多くの会社で行われています。 失敗した社員をみんなで血祭りに上げる会議、社長が誰かを攻めたら、「そうだそうだ」といってみんなで攻める会議・・・。なんともありがちですね。 本田さんによれば、技術開発に失敗はつきもの。失敗を奨励し、褒めるような文化にしないといい自動車は作れない。独創的なアイデアも生まれない。 広告にもそのメッセージがよく現れていますよね。本田さんが亡くなって20年以上経ちますが、こういう哲学がお題目にせず、受け継ぐ。そして発展させる。企業を走らせるのがDNAなんですね。やっぱり。 【中古】政治・経済・社会 ≪政治・経済・社会≫ ニワトリを殺すな【10P25May12】【画】【中古】afb 【ブックス0531】
津崎さんの新刊「道具としての経営理論」(日本実業出版)が結構売れているそうです。 津崎さんがBBTを(ひと足先に)卒業されてから5-6年経ちますが、独立後にアカデミーヒルズで連続講演されているセミナーのサマリー的な位置づけの本です。本は2部構成で、1部は「なぜ理論を学んでも使いこなせないか/いかに理論を実践につなげるか」という話、2部はMBAで習う理論をさらっと俯瞰する感じです。 MBAって実務に役に立つの?どんな事を習うの? と思っている方にはお勧めの一冊です。 もちろん「MBAやセミナーに行って勉強しているのに、いまいち成果が出なんだよなあー」という方にも、いろいろなヒントがあるはず。 【送料無料】道具としての経営理論
行動ターゲティング型広告(ユーザーのキーワード検索履歴や購買履歴などを元に広告を出す仕掛け)を不快に思う人が増えてきて、それを拒否できる「Do not track me」という機能がブラウザーやHPに追加される動きになっている。 ユーザーの嗜好をネット上の行動から割り出し、その人に合った広告を出すのは、TV的なマス広告に対して、合理的なやり方と言える。 このようなCRM的手法は,なじみの飲み屋にいって「いつものあれ」と言えば,好みの料理が出てきたり、近所の八百屋のおやじが、お得意様に対して過去に何を買ってもらったかの記憶をベースに、コンシェルジュ的に今日のおすすめを紹介したりするのも同じ。 アマゾンの「おすすめ本」紹介機能や、リッツカールトンホテルが、枕や室温をお客様ごのみに自動的にしてくれるというサービスなどは、昔から絶賛されてきた。Tカードなどは、まさにそういう顧客の行動情報をベースに商売するモデルだ。 では、なぜそういうサービスを不快に思う人が増えて来たのか。自分の情報を知られたくないというと思うのはどんなときか? たとえば、コンビニがICタグを利用して、入店した瞬間に自分の過去の購買履歴をベースに、おすすめの商品を提示して来たらどうだろう。レジで「ワカバヤシさん、いつもご来店ありがとうございます」といったらどうだろう?僕は不気味に思うかもしれない。 人は「記号」(大勢の中の無名な客の一人)になりたい店と、そうでない店がある。私にとってコンビニは「記号」になりたい店だ。同じように、多くのアイドルオタクにとって、アイドルとファンには線引きが合って、アイドルと親しくなろうと思ってはいない。むしろ、CRM的に「ーさん、いつもコンサートに来てくれてありがとう」などと言われたら、もう来なくなるかもしれない。「記号」でいられなくなるからだ。 「記号になりたい場所」と「なりたくない場所」。その線引きを間違えると、ビジネスは失敗する。「Do not Track me」の動きは、この線引きを浮き彫りにしたといえるかも知れない。 http://consumerist.com/2011/01/google-and-mozilla-announce-new-do-not-track-me-features.html この辺りをうまく解説した本があるので、ご興味のある方はどうぞ。 【中古】 afb【古本】空気のトリセツ/指南役
先日のニュースによると、今年は大学生の就職率が93.6%にアップしたという。要因としては学生が中小企業へ向かった事が大きいとのこと。このニュースを聞いて、昨年、ある中小企業の社長がインタビューを発言していたシーンを思い出した。 「不況のおかげで、昔はうちのような会社に見向きもしなかった優秀な大卒がきてくれるようになりました」 この発言を聞いて、それまで会社に貢献してきた社員達は一体どう感じただろうか。僕が高卒の社員だったら、きっとこう思っただろう。 「誰が一体この会社を支えてきたんだ。大卒の学生が採用できるぐらい会社が利益をあげられているのは、オレたちが一生懸命、会社を支えてきたからじゃないか!」 それまでの社員への感謝を忘れて、大卒者がとれたぐらいで有頂天になっているようなレベルの社長は、そのうち足下をすくわれるだろう。そして、せっかく採った大卒者にも見捨てられる。社長の人格レベル以上に会社は発展しない。そんな事をふと思った。 http://www.47news.jp/47topics/e/229292.php
Ustream やニコニコ動画の登場によって、政治家や有名人による記者会見の模様がノーカットで生中継されるようになった。当然、質疑応答についても一部始終がされることになり、各テレビ局や雑誌がどのようなレベルの記者を送り込んでいるかも視聴者に分かるようになった。 今回はネットでも話題になっている2012年5月8日の大阪橋下市長とMBSの女性記者とのやり取りについて少し考えてみたいと思う。 その前提として立花隆の古典的名著「「知」のソフトウェア」(講談社新書1984)から一文を引用したい。 「人にものを問うということを、あまり安易に考えてはいけない。人にものを問うときには、必ずそのことにおいて自分も問われているのである。質問を投げ返されたときに、「問うこととは問われること」という2重構造がはっきり表に出てくる。 こわい相手に出会うと、そのうち、どちらが答える者かわからなくなってくる。プラトンの対話編がその典型だろう。ソクラテスに質問をした者は、逆にその質問についてソクラテスから問いただされ、質問者自身の考えが、逆に問いつめられていく。人にものを問わんとする人は、人にものを問うことの恐ろしさを知るために、プラトンの対話編の1つや2つは読んでおくべきであろう」(P125-126) この立花氏の指摘を加味した上で、記者会見の映像を見てみよう。(あまり気分のいいやり取りではないので、その点はご注意を) http://youtu.be/3OKlJeer0PQ 質疑応答を見て分かるのは、記者の方が自分の質問している内容とその背景をきちんと理解していないという点。やりとりの冒頭でその点が明らかになってしまったために、あとは不毛なやり取りになってしまっている。 また「こういうことを言わせたい」という前提があって、それにはまるような答えに誘導しようとしている点も気になる。(記者自身も「市長が私の答えて頂きたい質問に答えて頂けないので」、と思わず言ってしまっている)。 つまり、もともと客観的に対象者の意見を聞いて理解しようという姿勢になっていおらず、むしろ何らかのセンセーショナルな言質を取って自分の成果にしようとする姿勢が透けて見えてしまっている。 記者は自分の問うべきことを、問われる者以上に理解しておく必要があるし、自分のスタンスにバイアスがかかっていないかを自己検証しておく必要がある。(少なくとも便宜上は。) 今回の場合は、あなたは「答える人」(ディフェンス側)、私は「質問する人」(攻撃側)という固定的な慣習を破って、橋下さんが記者に質問したために、記者の方が自分が質問していることの意味が自分でも分からなくなってしまっている。 米大統領の記者会見では、記者の方が大統領よりホワイトハウスでの取材経験も専門性も持っていることも多く、大統領に対して「あなたが言っていることは、ブッシュ前大統領と矛盾しますね」とか、質問の意図を汲み取ってグザッと本質をつく質問をすることも多い。(逆に日本では首相担当のメディア記者は若手から中堅が多いので、そこまで踏み込めない場合が多い)。 今回の橋下市長の取材にしても、もう少し入念な調査とか、記者自身が本件について多角的な分析や洞察をしていたら、もっと価値のあるやり取りになったに違いない。 どちらにしても、視聴者側が記者会見での質疑応答を見ながら「ここの記者は質問レベルが低いな」とか「これだけするどい質問をする記者を送り込んでいるぐらいの雑誌や新聞なんだから信頼できるな」などという判断が出来るようになったのは大変いいことだと思う。 取材者もこれからは衆人監視によって鍛えられるのである。
鮒谷さんの本を読んでいたら、建築家・安藤忠雄さんの興味深いエピソードが2つ出てきた。一つは中学生の頃見た東大寺南大門の話で、とにかくスゴいと思ったそうだ。2つ目は「建築を目指すなら見た方がいい」と言われてパンテオン神殿に言ったときの話。実際に見て、全く何も感じなかったし、興味もわかなかったそうで、回想として「(好奇心を持つには)知識も必要だった」とのこと。 岡本太郎さんなんかは、芸術はとにかく見て、何かを感じればいいという考えだと思うので、「知識があろうが無かろうが直感的に」と言うのかも知れない。一方では、芸術マインドが足りないのか、私はその芸術家のエピソードなどを事前に聞いた方が、作品を見たとき何となく分かった気になれる。芸術はどう鑑賞すればいいのだろう。なかなか難しいもんです。 【送料無料】変われる人
爆問学問で「君はシリアスゲームを知っているか?」を昨日放送した。 といっても録画をミスったので来週の再放送まで見れないが(涙)、シリアスゲームとか、ゲーミフィケーションが今後どんどん進んでいく事は間違いなさそう。 給与やポジションなどの外発的動機付けから、内発的動機付け(要は「やりたい」という気持ち)がどんどん重要性を増すなかで、学校教育にも、そして会社経営にも、このコンセプトが活用されていくのは時間の問題だと思う。(というより、すでにうまく言っている事例の中ではゲーム的要素が活用されているので、それが可視化されるという方が近いかもしれない) http://www.nhk.or.jp/bakumon/previous/20120119.html
「アリストテレスの哲学の基本的な概念は、ギリシャ語の基本的な言語構造からいわば、強制されて引きずり出されたものであることを、私たちは知っている。逆に、極めて遠い外国語がかすかな光によって私たちに暗示することのできる抜きがたい断絶の姿、そのなかに身体ぐるみ運ばれることは、なんとありがたいことか」 ロラン・バルド「表徴の帝国」 ロラン・バルドは構造主義を代表する論客の一人であり、人間の思考が言語体系によって規定されると考えた。同じような言葉をしゃべっているようで、たとえば日本語で「ごはん」が意味するところは、フランス語の「ごはん」が意味するところとは異なっている。同じようにすべての言葉や語法において、我々は少しずつ異なる認知体系を持っており、それが結果的に、思考そのものを作り出していると考えた。 これが、バルドのいう「断絶」である。 英語はロジカルだといわれるけど、なるほどしゃべっていると、自然にロジカルにならざるをえないストラクチャーが、英語そのものの中に内包されている。 つまり英語をしゃべる人はロジカルに見えるは、「賢いから」とかそういう理由ではなく、単にそういう言語体系だからにすぎない。 日本語はどうかといえば、英語には絶対に表現できないニュアンスや、独特の思考プロセスを内包している。 そして同一言語内でも、属するコミュニティによって使う言葉はまったく異なる。 言葉が人間の思考(認知)を方向づけているという意味では、「演じる」ということにかなり近いニュアンスを持っている。 つまり、しゃべる言葉を換えると、思考が変化するのだ。思考を変える前に変えるべきなのは、「ことば」なのである。
「プロフェッショナルを演じる仕事術」(PHP)が世に出てからもう少しで2カ月。 この本は、私自身がいろいろな人から教えてもらった「学び方の方法」を、多くの人とシェアしたいという思いから執筆した。 ただ文字数の制限によってカットせざるをえなかった内容も多く、出版後に寄せられた感想の中に「なるほど。それはおもしろい視点だなあ」と思ったものも数多くある。 そこでブログを通じて、本に書ききれなかったことを、思いついた時につれづれと書いてみたい。 この本を貫いているテーマの一つは 「我々を取り巻いている世界は何なのか」 「我々に何かを演じさせようとしている世界をどのようにすればコントロールできるのか」 ということ。 このテーマを掘り下げていくと、そもそも「社会はなぜ今のようになっているのか」について考えることになり、さらにその社会の中で 「これは良いこと(善)」「これは悪いこと(悪)」 という善悪の価値観がどのように決まっているのかを考えることになる。 たとえば、私たちは 「《人を殺してはいけない》なんて当たり前じゃん」 と思っている。では、もし子供に「なんで人を殺しちゃいけないの?」と問われたら、何と答えたらいいだろう?大人が 「駄目なものは駄目なんだ」 と言ったら子供は納得するだろうか。僕が子供だったら納得しない。 私たちが普段から「当たり前」と思っていることは、何かの理由によって作り出されている。 それを知るためのヒントが「構造主義」という哲学にある。何やら難しそうな言葉だが、ざっくりと僕の解釈を書いてみる。 まず、そもそもの社会の成り立ちについて考えてみよう。何の秩序もない原始的な社会では、人は何をしようが自由だった。 人を殺そうが、盗もうが、誰もとがめる人はいないし、食糧が少なければ、当然ながら人を殺してそれを奪ってもいい。 このように人間はもともと、自分のしたいことを自由にする権利(自然権)を持っている。 ところが自分が他人を殺す権利を持っているということは、同じように他人も自分を殺す権利を持っているということを意味する。 これは怖い!だって、突然誰かがやってきて、何の理由もわからずに殺される可能性もあるからだ。(まるで「北斗の拳」のような世界といっても、分かりにくいかな?) このようにすべての人が好き勝手に行動して、その結果として殺されてしまっては、その他の好きなこともできなくなってしまう。 そこで人々は 「自分が好きなように何でもやっていい」 という権利のうち、その一部(たとえば他人を殺してもよいという権利)を放棄して、 「その代わりに他人も自分を殺さない」 という約束をするのが得だと考えるようになる。 もちろん世の中には自分勝手な人もいて、 「そんなの知るかい!」 と勝手に約束を破る人もいるから、そのような事ができないように、約束を破ったら罰を与えることもできるような権力者に仕切ってもらうことになる。これが昔の「王様」の役目だった。 ところが、どこの世界でも人は権力を与えられると暴走する。王様だって、そのうち 「俺は偉いんだ」 「何をしてもいいんだ」 と勘違いして、民衆に対して独裁政治をするようになってしまう。人々が殺しあわないように、その約束の保証人として「王様」にお願いしたのに、その王様が好きなように民衆を殺すようになってしまったら、まさに本末転倒。 そこで、王様という個人ではなく、「法律」という社会契約によって 「これはやっちゃだめ」 「これはやってもいいよ」 という取り決めをしましょうという風に、社会は進んでいく。 もう一度、繰り返すと 「自分が他人を殺す権利を放棄することで、他人も自分を殺すことができないようにしましょう」 つまり自分ができる事が100あって、そのうちの1つである「人を殺す」をあきらめることによって、99が自由にできるような社会を作りましょう、という合理的な発想が元々あって、人を殺すことが道徳的に「いい」とか「悪い」とか価値判断はなかった。 そして殺人以外にも、人々が快適に生活できるように、さまざま約束をしましょうということで社会的な契約が結ばれていくことになる。 しかし 「自分のしたいことをするために、泣く泣く一部をあきらめる」 という極めて自己チューで、合理的な理由で決められた約束だったのに、それがずーっと繰り返し行われているうちに、それは無意識に実行している「当たり前」の事になり、そもそもの理由は、人々に完全に忘れ去られる。 そして、そのうち 「大勢の人がやっていることはいいこと」(善)だ」 という価値判断に変化していき、 「みんなやっている事は正しいことだから、みんなと同じようにやりなさい」 と言われるようになる。つまり、その社会にいる限り、ルールに従って演技を強要されるという事になる。 さらに大衆はピラミッド型の組織をつくり、上の方にいる「偉い人」がいう事が<価値的>にも「正しい」という事になっていく。 なぜかと言えば、その偉い人は「こうしなさい」と他人に命令することで、大衆の行動コントロールすることができるから。 「大勢のしていることが正しいこと」と多くの人は盲目的に考えるために、偉い人の言う事が、価値的に正しいこと、と考えられてしまうのだ。 そもそもの合理的な理由が忘れ去られ、 「群衆(大衆)に従う事自体が良いこと」 と考えるようになると、群衆はだんだんと暴走し始める。 人と違う事をやっている人は、そのやっていること自体が正しいかどうかより、 「みんな(群衆)と違う事をする奴」=「悪」 のレッテルを張られる。 ーーーー たとえば、僕は学生時代に何度も生徒委員会や、その顧問の先生に 「この校則は変えるべきだ」 「できないなら、なぜこの校則は今のようになっているのかを説明してほしい」 と提案したことがあるが、彼らから出てくる答えは決まって、 「大勢の学生から不満の声は上がっていない」 「他校も同じようにやっている」 というものだった。つまり 「大衆が従っているんだから、それが正しいに決まっている。だから従いなさい」というものだった。 実際に 「大衆に反抗するなんてガキのやることで、権力に従う事こそが「大人」になることだ」 みたいな妙に冷めた見方が僕の周りでは多数派だったし、そういう反権力的な姿勢を取る僕を悪人とか、危険人物的とみなして、距離を置くクラスメートも結構いた。僕には、そのこと自体に違和感を感じていた。 僕が持っていた学生時代に持っていた「違和感」に対して、明快な説明を与えてくれたのは、大学に入って勉強したホッブズ、ルソー、ロック、カント、ニーチェなどだった。 さて、僕の本でもニーチェの言葉を引用しているが、 「隣の人と同じようにすることが(価値的にも)正しいことだ」 と考えている群衆を「畜群」(ヘールデ)と呼んで軽蔑した。 もちろん「殺人の禁止」のように、そもそもそれが禁止された合理的な理由どおり、それに従う事が良いものもたくさんあるが、きちんと吟味せずに何でもかんでも大衆の価値観に従っていると、自分自身も「畜群」になってしまう可能性がある。 ーーー さて、ここまで、ざっくりとした社会の流れを解説したが、お読みいただければ、私たちが「これは正しいこと」「これが悪いこと」と考えている事が、必ずしもいつの時代も正しい<普遍的な真実>などではない事がわかる。 もともと価値観は合理的な理由によって人工的に、そして社会構造的に作り出され、そして大衆によって実践されているうちに「当たり前」になっていった。 「プロフェッショナルを演じる仕事術」で、自分の当たり前だと思っている価値観が、いったい何に立脚しており、そして世の中が自分に何を演じさせようとしているかに気付き、 そして最後には自分の意思でコントロールできるようにしよう、と何度も書かせていただいたのは、こういう考察がある。 プロフェッショナルとは、ある意味で大衆の価値観に盲目的に従わず、自分の価値観を絶えず疑い、何度も問い直し、自分なりの哲学を確立し、その道を生きている人のこと。 そこから学ぶとなれば、自分自身も、自分の価値観を疑う事から始めななければ、同床異夢で、似て非なるものになってしまうと思うから。
出版記念セミナー 「プロフェッショナルを演じる仕事術」(PHPビジネス新書) の発刊を記念して 「ビジネスの達人の技を120%吸収する「教えられる技術」セミナー」 を丸の内で開催予定です。ご都合がよい方はぜひ。 ○日時 2011年12月17日(10時30分~12時30分) ○開催場所 東京21cクラブ (JR東京駅 徒歩1分) ○参加費 2,500円(税込) 詳細はこちら http://kokucheese.com/event/index/22613/ │<< 前のページへ │一覧 │ 一番上に戻る │ |