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今度の梶井講座では「蒼穹」「筧の話」がある。主人公はよく散歩をする。「町あるき」というジャンルがあるほど、日本の作家はよく街を彷徨い歩くのだ。それは怠惰の証明だろうか。暇を持て余した人間たちだろうか。じっとしておれなくて立ち上がり、彷徨うのか。それは怜悧な眼がさせているフレーズなのだろうか。まるで詩歌のように儚い。
・どこか僅かの日々を鳴き暮らす蝉のようでもある。どこで鳴くかだろう。場所を間違えば陳腐にもなる。当時の若者たちは自分の不幸を恨み続けたのだろうか。そして「蒼穹」を読んで感激したのだろうか。然し、私にも梶井の作品に近い感情があるのも事実だろう。嫌だがある。直ぐ近くの風景を見てきたし、光景を見たに違いない。妙に人糞の沁み込んだ農家の臭いがしてくる。私はそういうけばけばしさの中に暮らしてきた。彼の作品は、自分の気持ちを表現しようとしたものだけでしかない。それが、私の心には響かないだけなのだろうか。
・へ2・・・分かるものと分からないものがいる。とよく講師は言う。理解できなければ人生の失格者でも何でもない。或いはその反対もある。作家がまともとは限らない。作品がすべてではない。私もいまよく街歩きをしている。街の様子も見ているし、碧空も見上げるが、彼のようには思わない。ただ、梶井のような人間も否定はしないだけだが、日本人の作家たちの自己本位のモノローグは視野が狭くて詰らないと思うだけだ。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2008.11.26 10:30:17
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