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![]() ・へ2・・・物欲を忘れることは難しくはないが、名誉を求める心は棄てるのは容易ではないともいっている。金を欲しがる心よりも、さらに醜く奇怪にして、まことにやりきらないともいう。これは西洋人ではわからないに違いない。東洋思想の深遠さでもあるが、解脱は現代人にも理解することが難しくなった。 ・私たちは愈々我執から逃れられなくなっている。死ぬことを怖れて、臆病になってしまった。死から遠く離れて生きているつもりでいるが、実は、安全だと信じているコンクリートの床の下も暗闇の死でしかない。どこにも安全な場所はないのだ。ヘイフリックの限界は、静かに忍び寄る背後の殺し屋である。 ・へ2・・・閑居の気持ちはなってみないとわからない。嫌がられ、蔑まれる。現代の姥捨て山があるだろう。名誉欲の段ではないだろう。ことばにはうそがある。衒いだろうか。だが独りでいることは、これだけ地上にあふれた人間を思うと、まだ豊かなのだろう。 ・太宰の「作家の手帖」の末尾に「女の本性は、無心である」。もちろんそんなに単純ではない。あえて太宰は無心だという。逆もまた真だろうか。戦前まで日本では男女平等ではなかった。世界的に見ても男女差別が酷かったと評されている。実際の庶民の間でどうだったかは一概には言えないだろうが、差別はあったのであり、一部がそうでなかったから全体がそうではなかったとはいえないのだ。差別意識というのは、それこそ太宰の作品の中にあるだろう。それを太宰がどこまで気づいているかでもある。 へ2・・・そこに時代性がある。当時の作家たち、芥川にしろ、太宰にしろ根深い女性蔑視がある。それに気付いていないだけだと思う。平気で廓に行っているのに「女の本性は、無心である」もないものだろう。太宰も女性が無心であるとどこまで本当に思っていたかはわからないが、それでも、読者を「そうかもしれない」と思わせれば、太宰は勝ったと思うだろう。それ以上でも、それ以下でもない。 ・へ2・・・暴力を受けたものが、それに対して抵抗できるかが問題だ。ミャンマーの国民には、国の政策に反対してデモをする権利がない。しかも僧侶がデモをするとはよほどのことであろう。それさえ国際世論は、軍事政権を止められない。情けない世界でしかない。圧政に対してどうすればいいだろうか。白バラのゾフィーのように潔い死を選ぶだろうか。抵抗して死を選ぶか、黙って忍従するか、それであれば無心もあるだろうか。無抵抗ではない無心があるだろうか。こどもや夫につき従う母や妻は、無心だろうか。女性は子孫を残すために、男以上に免疫によって心身ともに守られているという。抵抗力も、環境への適応性も優れており、感性も豊かであり、バランス能力もある。あるいは無心を装っているように見えるだけだろうか。ひとつの「擬態」だろうか。「柔よく剛を制す」テクニックだろうか。
Last updated
Feb 15, 2009 10:11:41 PM
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