
周囲にあるものを肯定していられたどんなにか気楽だろうか。そうしなければ生きていられないこともあったし、それで好かったこともある。だが、それだけでは何時までもという訳にはいかなくなる。否定することは闘いにもなる。時には環境と闘わねばならなくなる。大抵社会環境だ。いくつかのステップを踏んでいかねばならない。充実した少年時代や、青年時代を過ごしてきただろうか。振り返れば後悔の念がないわけではない。もっと有益にできなかった訳ではなかった。へそ曲がりでもあったから。それも個性だろうか。まあ、ここまで生きて来れたのだから、不運だっただけではないだろうと思う。
・人並みに来たかどうか疑問だが、壊れかかった自分の内分泌がある。化学反応と付き合いながら、これからの暮らしがあると思う。国家の政治が直接間接に係わっても来るだろう。一つ間違えば日本人も放浪の民になりかねないと思っている。放漫経営が破綻を招いてもいる。甘い見通しが、国家を危うくする。その兆候はいくつもあるからだ。郷里の熊本では、水俣病を身近に感じてもきた。熊本地方裁判所で胎児性水俣病の患者をみたとき被害の苛酷さにショックだったことを今でも覚えている。
・へ2・・・「自己否定を意味せざる人生の肯定はない」というフレーズを、口の中で何時もささやいて生きてきたが、それができてきたかどうかは分からない。ただ観念としては消えずにある。社会には、肯定と否定がある。正しいこともあれば悪もあるということだ。大胆に然も細心でなければならない日常が控えている。目の前にあるものを確り視なければならない。