なくしてしまって気づくことは多い。失恋して人が恋しくなるし、若さを失ってからその素晴らしさを知るだろうか。知らずにやってきたが、見えるものが見えず、知らねばならないことを無視してもいた。喰うことも歩くことも当り前と思っていたし、体も何の不自由なく、動いて痛いこともなかった。
人間なんて、どこが優れているのか判らなかったし、寧ろどうして歪んでいる社会だろうと空に唾していただろう。物を食べるということが人間の脳を動かし活性化させ、意欲や力を漲らせてもいる。歩くことが物を考えるエネルギーになるなど思ってもいなかったが、知らずに食べ、知らずに歩いていた。遣ることが判らないでもしていたので、それでどうにかここまでこれたのだろう。
体が老化して、細胞が劣化し、足が動かなくなり、やがて歩けなくなる、歯が抜けてかたいものが食えなくなるだろう。それがどういうことなのか。ようやくその意味がわかってきた。
昔の入牢者に食事の塩抜きをして根性をなくさせたという話を聞いたことがある。
香具師を殺すにゃ刃物は要らぬ。雨の三日も降ればいい。
何が、どこに、どう繋がるのか、判らなければ、見えていても見えないのと同じだろう。よく食べ、歩くことがどんなに体や、脳や、繋がり心身に貢献しているのか、判らないようではこれから物の役に立てるはずはない。
自分の何が無知なのか。それを測るのに、自分の小さなメジャーしか持っていないのに、何ができるだろうか。大航海を始めるのに正しいコンパスのないまま生きて行こうとは、それこそ今様ドンキホーテなのではないか。自分の「蜘蛛の巣理論」でいる奴がいたら阿呆としかいいようがない。
自分の時間を空費してはいないか。そして自分の脳の活動を自分で閉塞してはいないか、ダイエットだから食べず、時間がないからと足を鍛えないでいるのは、山に登ろうとして、谷を下りているようなものだろう。
さあ満開だそうだ、花見に行こう