![遭亀企嘘-4.jpg](https://image.space.rakuten.co.jp/lg01/44/0000170944/93/imgccdde6d7mkn5q7.jpeg)
全羅南道の海南郡と珍島郡の間に架かるのが珍島大橋である。
1984年10月18日に開通し珍島は陸続きになった。
![珍島大橋](https://image.space.rakuten.co.jp/lg01/44/0000170944/92/img1c2a57cemkmz8g.jpeg)
そして2005年12月15日には第2珍島大橋が開通した。
写真の右が古い橋で、左が新しい大橋である。
![dekyo-yakyon](https://image.space.rakuten.co.jp/lg01/44/0000170944/48/imgc933f0f073dosg.jpeg)
夕方には夜景が美しい・・・
この海峡は東洋一といわれる潮流が流れ
まるで海が鳴くような音がすることから
鳴梁海峡と呼ばれている。
美しい観光名所になっている珍島大橋だが
今から約400年前、この場所で激しい戦があった。
豊臣秀吉による朝鮮出兵!慶長の役である。
時は1597年9月16日早朝!
日本水軍は兵船133隻(一説には300隻とも・・)
対する朝鮮水軍は13隻であった。
海戦が始まった頃、潮流は東から西に向かい
朝鮮水軍にとっては逆流となっていた。
李舜臣将軍は海峡の中流に船を連ねて碇を下ろし、
船が流されるのを防ぎ、日本水軍を攻撃した。
日本の兵船は鳴梁海峡は狭く、潮は満ち、
水は益々急になり、日本水軍は上流より潮に乗り
まさに山を圧するがごとく襲来した。
ところが戦闘が続くさなか、潮流が西から東へと変わり
攻守所を変えた朝鮮軍は潮流に乗り逆襲した。
「豊臣秀吉の朝鮮侵略 北島万次著」
![鳴梁海峡(地図)](https://image.space.rakuten.co.jp/lg01/44/0000170944/91/img93d72376mkmr9o.jpeg)
李舜臣将軍が書き残した「乱中日記」には
鳴梁海戦の闘いで日本水軍「馬多時」を撃った!
と記録されている。
珍島大橋を案内するときは過去の歴史を語るのだが、
ここで韓国人から「馬多時」という日本人武将のことを
質問されると返答に困った。馬多時なんて名前は
見たことも聞いたこともない!
だが最近偶然にも「来島通総=馬多時」
の一行を日本の本から見つけ、
珍島郡庁での勤務10年目にして
胸の中のモヤモヤが解決した。
来島通総とは瀬戸内海に武威を誇った
村上水軍・村上(来島)通康の三男である。
しかし、なぜ来島通総が馬多時になったのか
新たな疑問が生じるのではあるが・・・・・・
![HAKA-1](https://image.space.rakuten.co.jp/lg01/44/0000170944/52/img3840c244mkztz3.jpeg)
日本の水軍兵士が眠る倭徳山の合同墓地
珍島の古郡面、内洞里から馬山里に抜ける用水路を超えると
荒れ果てた小高い丘のような場所がある。
昨年、ここが珍島大橋の下で亡くなった日本人水軍兵士の
合同墓地であることが珍島の歴史家により明らかにされた。
現在は干拓事業のため当時の面影は残ってないが、
400年前は海水が内陸まで入りくんでいた。
日本人兵士の死体は五山里まで流れてきたのだ。
漁民は海で死体を発見すると、そのまま過ぎることはない。
必ず収拾し安らかに埋葬してやるのが礼法である。
海に浮く死体を見つけ、それを放置すると
その死体が船の後を付いてくる!ということわざを
今も信じている。
「倭徳山」といわれるこの場所は今は誰も訪ねる者がない。
菜の花が淋しく揺れるだけだ。
今にして400年前の歴史が紐解かれ、
ここに眠る魂の恨みが少しでも解かれることを祈るだけである。