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カテゴリ:塾長の教育論
『自学』を自分にとって都合よく解釈してはならない。
自分のペースで勉強することが自学でもなければ、自分の好きな科目だけを勉強することも自学ではない。自学は、誰かの監視下で勉強することから逃げるためのツールでも何でもない。 そもそも、自学に向いている生徒と自学に向いていない生徒が存在する。自学に向いていない生徒が、いくら自学を志したって一向に伸びることはない。自学の向き不向きを決定付ける一番の要因は、『喉から手が出るほど達成したい目標や夢があるかどうか』だと私は思っている。 前回のブログで、自学とは自分のペースで勉強することではないと書いた。自学で一番怖いのは、勉強のペース配分がすべて自分任せということになる点であると思う。ペースメーカーがいない状態で勉強するので、自分の気持ちの持ち様次第でペースが乱れてしまうことだ。 楽な道があれば、そっちに流れてしまいそうになる。大人であろうと子どもであろうと、人間であれば当然の心理だ。特に子どもの場合、よほどの神童でもない限り、わざわざ苦労する道を自ら選択できる子はいない。 しかし強烈なモチベーションを持っている人間は違う。楽な道には流れることなく、自ら進んで棘の道を選択する。楽な道の先に自分の目指すモノが無いことを知っているから。棘の道の向こうには、喉から手が出るほど自分が望んでいるモノが待っていることを知っているから。 強烈なモチベーションを持たない生徒にとって『自学』は逃げのツールになり、強烈なモチベーションを持つ生徒にとって『自学』は攻めのツールになる。 しかし、強烈なモチベーションを持つ生徒でも、いきなり完璧に自学ができるものではない。塾の先生の中に、完全に生徒任せの自学自習を生徒に認めない先生が実際にいらっしゃるのも、このためであろうと思う。 いきなり完璧に自学ができる生徒ならば、もしかすると強烈なモチベーションすら必要ないのであろう。そんなヤツは放っておいても東大や医大に進学する。 子どもにいきなり自学を求めても、あるいは子どもがいきなり自学を志しても、大概の場合上手くはいかないものだ。 幼子に自転車に乗る練習をさせようと、いきなりコマ(補助輪)なし自転車に乗っけてみて「さぁ、乗ってみろ」と放置する親などどこにもいないだろう。 まずはコマ付き自転車に乗せて、それに慣れてきたら次はコマを外して親が背中を支えてやり、最終的に幼子は自力で自転車に乗ることができるのだ。 子どもにいきなり自学を求めるということは、自転車に乗ったことの無い幼子に、いきなり自転車に乗せるのと同じことであると思う。 完璧に自学ができるようになるまで、少しずつ少しずつ、子どもを誘導してやらなければ、自転車と同じように子どもは勉強というフィールドで転んで怪我をしてしまうことになる。 自学を志す子どもには、自学を志せるようにトレーニングしてやることが必要なのだ。 遅くなったので続きは次回に。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
Dec 20, 2008 11:54:32 PM
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