カテゴリ:音楽あれこれ
少年の声は風に消されても
間違っちゃいない 『少年の詩』 はっきりさせなくてもいい あやふやなまんまでいい 僕達は何となく幸せになるんだ 『夕暮れ』 自分にとってあまりに巨大な存在であるため、距離を取ってそれを書き表すことができないアーティストがいる。それはブルーハーツであり、ビートルズであり、ローリングストーンズであったりする。それらについて文章を書くと、自分がそれらのアーティストと出会ってどんな風に人生を変えられたかという個人的な文章にならざるを得ない。 だからブルーハーツの何が偉大だったのかとか、どれくらい重要なアーティストなのかといった事について自分は客観的に書く事ができない。またブルーハーツがロックの歴史の中でどのように位置付けられるのかといった事も客観的に書く事ができない。 そう言うわけでここにアップした文章はブルーハーツについての些細な事でしかない。 なぜ今の時期にそのような文章を書こうと思ったのか。それはハイロウズが活動休止をしたというニュースを聞いたからである。 ブルーハーツが自分の伝えたい事を伝えるために取った方法論はこういうものだ。自分が思ったことや考えている事を、自分たちにとってリアルである音楽に乗せて、はっきりとしたわかりやすい日本語を使って歌い、演奏する。 それは簡単なようで実は非常に難しい。わかりやすい日本語で歌詞を作ると、自分のいいたい事が誰にでもわかってしまう。だからバカバカしい事を歌えば、誰にでも「バカバカしい」「考えが足りない」とわかってしまう。それは例えば『チェルノブイリ』に向けられた批判を考えればわかると思う。だから単純に格好をつけたいだけならばわかりやすい日本語など使わない方がいい。実際そういったバンドは今も昔も多かったし、そんな中でブルーハーツの登場は非常に衝撃的だった。 ブルーハーツのファーストアルバムはバンド結成からその方法論で築き上げてきた、彼らの美学の集大成といっていいと思う。ロックを聴き、歌う事でしか自分の生きていける方法がなかったヒロト。孤独なロック少年だったマーシー。そんな二人が出会った奇蹟や二人が出会う前にそれぞれが感じていた疎外感、不安、苛立ち、憂鬱、希望…。 そのファーストアルバム製作中、彼らは二十五歳前後だった。だから自分の少年時代や青年時代の感情をまだリアルに覚えている事ができた。それをパンクロックに託して叩きつけたファーストアルバムはまさに再現不可能な奇蹟的名作である。 しかしそのファーストアルバムがあまりにも鮮烈過ぎたせいで、その後のブルーハーツの活動はおまけ程度のしか語られないことが多いように思う。ブルーハーツがなぜ今でも高い評価を受けるのか。あるいは自分のようにリアルタイムにブルーハーツを聞いてきた人間にもいまだに信頼されるのか。それは単に偉大なデビューアルバムを作れたからではないと思う。ブルーハーツは自分たちが作り出した表現方法に対して、最後まで誠実かつ真剣で、しかもクオリティーの高い作品をその後も作り出せた。だから彼らの音楽はいまだに色褪せないし、リアルであり続けているのだ。八九年当時のバンドブームの頃、ブルーハーツもどきのバンドが沢山登場した。しかし今ではそれらのほとんど全てが忘れ去られている。彼らは何を勘違いしたのか。そしてブルーハーツはそれらのバンドと何が違っていたのか。それはブルーハーツが開発した「自分が思ったことや考えている事を、自分たちにとってリアルである音楽に乗せて、はっきりとしたわかりやすい日本語を使って歌い、演奏する」という方法論に対する態度である。 例えば二〇歳の青年と三〇歳の人間の考える事は当然ながら違ってくる。二十代から三十代にかけて体験する様々なことは、人の考え方や生き方などに影響を与えずにいられない。二〇歳の時「違う」と違和感を感じたことが三十歳を過ぎると許容できたり、あるいは二〇歳の時許容できた事が三〇歳を過ぎると許容できなくなったりする。 そうした変化を成長と呼ぶか堕落と呼ぶかは、人それぞれで意見がわかれるだろう。 ブルーハーツのファーストアルバムは『少年の詩』に象徴されるような若さゆえの性急さに満ち溢れていた。そして「大人」に対する反発や嫌悪を隠さなかった。 しかしそんなブルーハーツも年月が経つにつれて「大人」と呼ばれる年齢になる。そういう年齢になっても知らない顔をして『少年の詩』の二番煎じを作りつづける。そうする事で自分たちは大人に迎合していないとアピールする。それもひとつの手としてあったと思う。 だが、ブルーハーツはそうしなかった。自分が作り上げた方法論にどこまでも誠実であろうとした。だから彼らは三十代になったら三十代である自分の考えや感じ方をわかりやすい日本語で、そしてその時に自分にとって最もリアルな音楽に乗せて表現し続けた。そうする事でファーストアルバムの頃に攻撃した『大人』とは違う別の「大人」像を示そうとした。 それが成功したのか、失敗したのか。僕には客観的に評価する事はできない。しかしその結果として作られた『ダッグアウト』という作品がなければ、ブルーハーツがここまで伝説化されて語られる事はなかったと思っている。 冒頭に紹介した『少年の詩』はファーストアルバムに入っている甲本ヒロトの曲。『夕暮れ』は『ダッグアウト』に入っている甲本ヒロトの曲である。白か黒か。オール・オア・ナッシング。そうした性急さで突っ走らなければ気が済まない「少年」に対して、曖昧さを許容しながらそれでも自分にとって大切なことに忠実であろうとする「大人」。 そんな「成長」を自分たちが作り上げた方法論によって誠実に表現した『ダッグアウト』は、同時にブルーハーツにとっての臨界点でもあった。だから彼らは潔く解散した。 鮮烈さや衝撃性といったことからはファーストアルバムの方が勝っているかもしれない。しかしそれに対する落とし前、またはその後も自分達らしくあるための知恵としての『ダッグアウト』を僕は否定し去る事ができない。それはあるいは自分の過剰なブルーハーツに対する思い入れのせいかもしれないが。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2006.01.30 16:29:33
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