カテゴリ:音楽あれこれ
ホワイトストライプスは二人編成のバンドだ。バンドの最小編成といえばだいたい三人ということになっていた。ドラムスとベースのリズム隊。そしてギターかキーボード&ボーカル。ホワイトストライプスにはベースが欠けている。意図的か偶然かわからないが、ホワイトストライプスは必要とされる楽器が足りないバンドだ。
例えばサンハウスやロバートジョンソンといったブルースマンのCDを聞くと、一人での弾き語りにもかかわらずしなやかなグルーブを感じる。それはそうしたブルースマンの偉大な才能によるものなのだろう。 ロックのルーツをさかのぼると、そこに辿り着く。それは逆に言うと、そうした偉大なブルースのグルーブにロックが匹敵できるかということでもある。その悪戦苦闘が音楽面における「ロック」の営みだったのかもしれない。その回答として、ハードロックからブルースロックまで、色々な方法論が試された。 スコ―ピオンズやメタリカのような、かなりブラックミュージックやブルースとはかけ離れた「ロック」にもそれ独特のグルーブがある。グルーブと言うとブラックミュージックに限定されてしまうから、「乗り」という言葉を使った方がいいかもしれない。それに対する好き嫌いはあるだろうけど、メタルキッズやメタルオジサンが「スコ―ピオンズ格好いい」「メタリカ最高」とか言うとき、そこにはある「乗り」「グルーブ」が存在しているといっていいだろう。ヘッドバンギングをさせてしまうようなそんな「乗り」。それはブルースマンのしなやかなグルーブに対するハードロック側の回答だ。 ではベースがいないホワイトストライプスにとって、グルーブとは何か。ホワイトストライプスにとってどんな「乗り」があり得るのか。 正直に言うと、僕は『エレファント』までのホワイトストライプスにグルーブを感じなかった。単に話題になっているから押さえておく。その程度の存在でしかなかった。そんなホワイトストライプス観を変えたのは、フジロック04での彼等のライブだった。そこにはホワイトストライプスにしか出せない「乗り」があった。 そして昨年発表された最新作は、そんなホワイトストライプスの「乗り」をうまくスタジオレコーディングできた名作だった。今回のライブはそんな新作をひっさげての来日だった。 1曲目でいきなり『ブルー・オーキッド』が演奏された。こんなにもギターリフが耳に残る曲は久しくなかったように思う。ライブでもそのリフが流れ、ジャックが歌うと自然に会場も熱を帯びてくる。 ジャックはフィードバックノイズが好きなようだ。曲間にさかんにギターをアンプに向ける。そして次の瞬間にギターリフが始まり、メグのドラムスが炸裂する。 それは音の塊といった感じだ。ジャンル分けが不可能な、そしてそれを無意味な気分にさせる音の塊。ある日突然生じてしまったような事故のような「音楽」。それはこんな事を想像させる。ビートルズやレッドツェッペリンの「音楽」もそんな風にして生まれてしまったのではないのだろうか。 ピアノとドラムス、木琴とドラムスというかなり変則的な編成で演奏したりもする。しかしそれは観客を退屈させない。「実験的」ではなく、まるで事故のように目の前で生じてしまったハプニング。そんな緊迫感がその演奏に感じられるからだ。そしてそれこそが僕が「ロック」に求めていたものでもある。 そうした緊迫感を「ロック」に取り戻すためにはベースレスという何かが欠けているバンド編成でなければならなかった。渋谷陽一氏の説を借りればそういうことが言えるのかもしれない。 アンコールでは『セブン・ネーション・アーミー』も演奏した。その時だけフラッシュライトがたたかれ、そのライブで初めてステージ演出らしい演出がされた。しかしそんな演出なしでも、彼らの作り出した音の塊はスリリングで、心や体を踊らせるパワーを持っていた。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2006.03.07 03:12:58
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