DJ Kennedy/life is damn groovy
Just Chitchat57
Homesick31
Love Songs37
Four Seasons5
Simple Pleasures34
Thursday-Night Movie14
Friday-Night Boom19
Soul Saturday16
Soft Sunday9
Lounge DJK4
Diary7
Love7
Life&Philosophy5
---aholic1
A Whole New World1
Japanesque3
DJK Sports3
The Silhouette of 80s0
DJK\'s Street Tales USA5
DJK The Tokyo Walker6
Studio 54 Series7
Other12
Live the Moment1
Thoughts of the Day0
DJK in Hokkaido0
DJK Photography0
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記憶を吹っ飛ばしてくれるものが欲しいような気分。けれどワインを飲むことができず、結局コーヒー2杯で今日が終わろうとしている。昨晩こそポルトガル紀行の続きを書こうと1日の予定に組み込んでいたのに、またしてもチャンスを逸してしまった。そして今晩こそ、がまた次回にずれこみそう。 Sorry.先週受けたCT検査の結果報告書とドクターからの話。私のおなかに3センチの腫瘍が見つかった。と言っても今のところは良性で、これが大きくなったり、悪性に転向した時には手術を受けることになるのだそうで、取り敢えずは経過観察。腫瘍。寝耳に水である。2か月前からおなかの鈍痛が気になっていたが、気にかける余裕がなかった。昨秋母が癌にかかり、以来今日までの私の日々は彼女の看病に充てられてきた。極めて優秀なドクターチームのおかげで彼女は快方に向かっていることが救い。けれど5ヶ月後に、今度は私?余計に心配したり、気を落としたりはしていない。確かに体調は悪いので書斎で横になって読書している時間が長いし、去年のポルトガル行きに続いて北海道移転さえ延期になりそうでつくづく人生は皮肉なものだと思うが、かえってそれが笑えてくる。"Oh, how beautiful my life is!!" なんていい気に生きてきたけれど、それは勿論いびつな面だってあって不思議はない。"Life is comedy." これも私の人生。とは言え対象物が腫瘍、癌だもの、何気に命、寿命について真剣に考えたりもするのでこの気分を飲み干す何かが必要になってくる。ワイン、は気分の良い時に飲みたいし、ならばウィスキーだ、といきたいところだが残念ながら薬を飲んでいるし、コーヒー。やっぱりコーヒーだ。 #NowPlaying
April 2, 2012
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Este ano eu estou indo para Hokkaido. Que tamb?m seria ir para Lisboa...振り返ってみるとどうやら一昨年の秋あたりから、言わば「気の抜けたDJK」的であった。今更に気付いたわけでもないが、不眠が始まって1週間の今夜、久しぶりに目の前が少しクリアになっていて、どうしたことか自分を取り戻した気分になっている。ワインが入っているわけでも、ましてや幻覚みたいなものなど見てしまっているわけでもない。きっと、この白く冷たい冬の夜のせいだ。ここまで気温が下がって北風が強く湿度が低い日はニューヨークの家を思い出すのだ。郊外の家は、マンハッタンから北へ向かう電車でたった40分あまりで帰れるのだけれど、その寒さはビル風を除けば比較にならない。カナダからの寒気が下りてくると、マイナス20℃という日も珍しくない。駅から我が家までは歩いて6分、けれどそうした夜は一気に歩いて帰ることができなくて途中立ち並ぶアパートメントのロビーで風をよけながら10分もかかった辿り着く。深夜テラスで濡れたタオルを振り回すと、だいたい20秒で凍りつく。一晩バナナを放置すれば、翌朝勿論トンカチに変身しているし、間違ってハーブの鉢を外に出そうものなら、触れただけでパリンと散ってしまう。まだまだ思い出はたくさんあるけれど、とにかくこんな他愛もないことを思い出していたら、その冷たい冬を楽しんでいた自分に還っていたのだった。意外に簡単な自分が情けないが、今年は夏前に北海道へ移る予定もあるし、また楽しいブログ生活ができる気がしている。
February 2, 2012
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Wishing All of You A Happy New Year!! "Lisboa - walk with pathos (3)" will be posted on Jan. 2nd, 2012. Thank you.クリスマス前、不覚にも風邪を引き熱にうなされながらurgentの仕事を片付け、そして大晦日、日本中から年越しそばをすする音が聞こえてこようというこの時間、私は小さなローカルペーパーの編集をしている。テーブルの上でシャンパンが1本こちらをじっと見ているが、無視無視。今年日本で生きてきた私たちがこの1年を忘れることは決してないだろう。無念の魂に祈りを捧げ、復旧・復興の進まない中厳寒の被災地に訪れる新年に幸せの輝きが満ちるよう心から願い、今思い切り手を振って今日までの日々を送り出し、2012年を迎えたい。個人的にも正直ハッピーな年とは言えなかったけれど、来年はもっと穏やかで幸せで楽しく、そして私らしい1年にしたいと思っている。家族を支え、仕事にやりがいを持ち、大笑いしながら遊んで、旅もたくさんしたい。ポルトガルへも、またゆっくり行きたい。約2カ月の滞在予定だった初めてのポルトガル旅行にと買ったオープンチケットを使い切れなかったので、次は余裕のある時に時間をたっぷりとって歩きたい。北海道移転は、早ければ夏前になろうか。一度しかない人生の中で、しかも海外生活の長い私にとって北海道で暮らすことはファンタジーこの上なく、夏のラベンダー畑など写真で見るだけで心が(激しく)踊り出す。なんだ、もうなかなか良さそうではないの、2012年は。今年はブログのアップデイトが思うようにできず、普段の旅の話、アメリカの話も少ないまま終わりました。それでも多くの方たちが毎日立ち寄ってくださってこと、とても嬉しく、感謝致します。みなさんのブログも楽しく拝見しました。知らない土地の街並みや田園風景を見るのがとても楽しく、目だけでなく心の栄養になりました。ありがとうございました。来年も、お変わりなくお付き合いください。みなさん、美しい新年をお迎えください。・・・さて、今年最後の仕事に戻りますか、早く飲みたいし。 #NowPlaying
December 31, 2011
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DJK's learning: Onde est? o meu hotel? Eu estou aqui. Ele ? bom. Eu n?o falam Portugu?s.周辺はにわかに騒がしくなる。長く暮らしていてもクマに対するここまでの注意は初めてだった。不安は徐々に過剰なデマを飛散させ、地域住民、特に子供たちにクマ恐怖症が蔓延した。「歌を歌いながら歩いてはいけない」「目を合わせると襲ってくるので肌と同じ色のサングラスをかける」「黒や茶色のバルーンをたくさん持って歩くとクマより大きく見える為、クマが逃げる」「甘い香りでクマが寄ってくるので朝食にパンケーキやドーナツを食べない」「Hey!と言うと襲ってくるので、Hello,と優しく声を掛けると襲われない」「"What A Friend We Have in Jesus" を歌うとクマは寝てしまうようだ」こんな、有り得ないことを本気で思いこんでいる子供もいた。ある土曜日、ゴルフに行く途中のパークウェイでこんな車を見かけた。 BEAR SECURITY クマ専用の駆除業者など見るのは初めてだ。その日、私達はゴルフへ行くのを止めた。最初は身近でなかったクマ出没だが、この車を見る機会が増えるにつれ、心なしか外に出ている間、またテラスから外を眺めながら、動物園以外では見たこともないクマを探すようになっていた。近くの学校では屋外での体育も中止となり、子供達の学校生活を中心に、町から日常風景が消えたようになった。「クマは暗い場所が好きだから、パーキングは気を付けた方がいいよ」と友人に言われ、自宅の地下駐車場に入るのさえ躊躇ってしまう。こうして、張りつめた空気のまま1カ月が過ぎ、ある日の午後、犯罪など、スピード違反しかないような静かな町に警察のサイレンが鳴り響いたが、私はそれがクマの捕獲だとは露ほども思っていなかった。クマは我が家から歩いて3分ほどの場所にある、大通りに面した書店裏の森から出て来て、麻酔銃で捕獲された。全長2メートルの大きなクマだったとその夜のローカルニュースで知った。クマが本当に近くにいたことと、もしかしたら私達が、あるいは友人知人が出くわしていたかも知れないと思ったら、捕まった後で初めて恐ろしくなったのだった。翌朝の新聞に捉えられたクマの写真が載っていた。「森のくまさん」という可愛い歌があるが、「あら、くまさん」なんて笑えるような顔つきでは到底なく、また大きな手を見て絶句した。これ以降クマ騒動はないが、私はブームに取り残されたように未だクマ恐怖症が取れないでいる。 「森のくまさん」の代わり…でもないか。
September 27, 2011
↑DJK: "24 hours without internet... Cozy, sleepy, something's missing."今回の台風は大きいぞ、という報道に昨日私は早くから母の仕事場にいたのだが、それが失敗だった。雨風が強くなり始めた頃、このビルディングごとブロードバンドが故障し、インターネットを24時間使うことができなかった。仕事もブログもできず手持無沙汰。文明人は頼りない。それにしても昨日の台風は、私が日本に来て以来一番大きなものだと思う。この部屋は11階だが、雨風が強くなり始めてから4時間くらいの間ずっとゆらゆらと小さく揺れていた。仕事で二日徹夜をしたら、「ケイトのブラッドはピンク病」(=単なる貧血)を発症し、再びぼんやりモード。昨夜から今日にかけてはゆっくり休み静かに一日を過ごした。差し迫った原稿もなく、たまっている雑誌に目を通したり、母の為にクッキーを焼いたり、昨日、注文していた数冊の旅行ガイドが届いたので胸を弾ませながらそれらを読んだり、手帳に旅行プランを書き込んだりした。 Homemade Pineapple & Macadamia Nut Cookies 私ってホントは天才パティシェなのだ~ 日本の旅行ガイドは世界一だ。きれいな写真における情報量が素晴らしい。アメリカで旅行ガイドを買うとその殆どが文字ばかり。「読んで想像しろ」と言われているような気分。こうなるともう、旅行も研究だ。一方、日本のガイドブックは臨場感抜群、瞬時に旅気分を味わえる。そしてまた、この本が私を触発するのは旅の夢のみならず、食欲、購買意欲も然り。美味しそうなシーフードやスウィーツ、そして色鮮やかな伝統工芸品。写真の全てが私を危険ゾーンへと誘う。私"Material Girl"なDNAがとても活発になってきちゃったのである。Shopping!いや、グッとガマンだ、目的を見失うな、ケイト。そう。私は今回あまりお買い物をしないだろう。この旅は単なる観光旅行ではなく、近い将来私が暮らす町の下見なのだ。欲しいものがあるなら、引っ越してからにすればいい。まだこの町に決めたということではないのだが、実はその町と私には、私の少女時代からの深い関わりがある。その意味を知る為にも一度訪れなければならない場所なのだ。大袈裟だが、「人生の謎解き」を秘めた旅行。あ、ちなみに私は海外旅行でブランド品を買わない。大きな荷物になるし、そういうお買い物は、TokyoかNew Yorkで。素敵なガイドブックをとっかえひっかえ見ていたら、その町でフレッシュなフルーツを市場で買う私の姿が目に浮かんだ。やはり既に、半分くらいは暮らしに行くつもりになっている。私の妄想をここまで見事に膨らませてくれるこの本。スゴイ。あ、そうでした、忘れるところだった。一昨日の奇妙なスクラップの正体は?あの写真は、ニューメキシコ州ロズウェルのインターナショナルUFO博物館にて撮ったもので、私のような凡人が見ると単なるアルミニウム片なのだが、どうも「UFOのかけら」なのだそうだ。1947年のロズウェル事件に関する資料等を展示した博物館の展示品の一つ。信じます?信じてみます?…というわけで、答えは二つ。ひとつは、インターナショナルUFO博物館とUFOフリーク、じゃなかった研究者達に敬意を払って「UFOのかけら」。そしてふたつめの答えは「分からないもの」。もしもこの地球上にあのかけらを作った人がいるなら一度尋ねてみたい。「UFOに見せる為のご苦労は?」 Boa noite.
September 22, 2011
Since DJK's a bit tipsy... "At least it wasn't my fault. He made me love him."今夜は、部屋で仕事をしながらケーブルチャンネルで放送していた "Green Mile" に見入って、その後仕事を忘れてヨーロッパの「ドライブガイド」を読み耽っていたら、とうとうこんな時間になってしまった。"Green Mile"に関しては、Tom Hanksも好きだし、あの映画は途中で見つけても最後まで観てしまう。が、あまりに余韻が強い為その後の仕事に影響し、今日中に仕上げようと思っていた原稿が、結局日付も変わり明日の午後までずれ込みそう。おまけに今、CHIMAY BLUEを1本空けてしまって、そろそろバタンQ。でも、美味しい。本当は今夜、もうひとつ「面白いAsia in the US」の小さなお話でもと思っていたのに映画は観るし、引越しの準備でも時間を削ってしまった。明日にさせてください。また1枚、写真を置いていきましょうか。何がいいかな…。NYの写真て意外につまらないんですよね。砂漠の虹っていかが?私は仕事で旅行することが多かったので、「旅行=ドライブ」という構図が当たり前なのだが、欧州をドライブというのはどうだろう。まさか、最近友人宅で観た「水曜どうでしょう」のようになりはしないか。大泉洋が「早く北海道に帰りたい」「もう二度とヨーロッパには来たくありません」と言っていたのを思い出してしまった。彼等の旅はまた過酷だけれど、何もあそこまで言わなくてもいいのに、もう。空想をほろ酔いに任せていたら決心がぐらついてきた。どれだけ日にちが取れるかも分からないし、イベリア半島なら、いつかテレビで観た「列車旅行」も素敵かも。それにしても…大泉洋め。 砂漠にかかる虹 (アリゾナ州)
September 17, 2011
↑Care for some love quotes/love songs? → DJ Kennedy:madly in luv w/ grooves II(日本語) 今夜はunder the weatherの為、お休みを頂きます。 お詫びに良い景色でも・・・どこがいいかな? やっぱり、ハワイ? では、みなさんのお幸せを願って、ワイキキのガジュマルを。 おやすみなさい。
September 15, 2011
今夜は「中秋の名月」。ホワイトゴールドの月が本当に美しい。あまり期待せずに写真を撮ってみたけれど、やはりイマイチ。けれど月は、誰にも邪魔されずに輝いている。今年の月は例年よりも丸いのだと仕事先で聞いてきたのだが、本当?あなたのお家では特別なイベントがありますか?私は、お月見をしたこともなければ、お月見団子を作ったことも、食べたことも勿論ない。日本では、どのくらいの家庭がお月見をするのだろう。とにかく、こんなにきれいなお月さまをせっかく見られたのだから、何かしないともったいないか・・・。と、思い立ったのが、願い事。東京に住んでいては、流れ星に願い事をすることができない。NYにいると、郊外の家から車で20分ほど走ったところに美しい湖があって、そこにかかった橋の上で星空を見上げると、2時間そこにいれば流星群など来ていなくても、小さいけれど20個くらいは星が流れる。人工衛星も宇宙ステーションもよく見たものだ。わざわざそんなことしなくたって?でも、お団子も食べられないのなら、このくらいは。"Wish upon a star" ならぬ "Wishing upon the Moon"月は星より大きいから、願い事もドーンとBIGに!おまけに流れ星と違って一瞬で消えることもない。私は思いきって、20個のwishesを早速お月さまに伝えた。さすがに20全部は無理だろうな。それなら、三つだけ、二つだけ、ええい、ひとつでもOK!一番大切な私の願いを聞いてください。必ず叶えてくださいね。絶対よ。分かった?約束守ってね!叶えてくれなかったら・・・・・・・覚えてらっしゃい!月を脅迫してどうする。何と愚かな、切実なことか。今夜の月は大変。去年より丸いってだけで、妙な約束させられて。その上脅されて。
September 12, 2011
↑DJK「今回はおとなしく東京へ帰る。ヨーロッパは10月だ。」先週、サマーハウスとして貸していた郊外の私の家が空いた。今回は帰って来るつもりがなかったのだが、26年ぶりのハリケーン直撃と聞いてマンハッタンを離れることに決め、二日前、カーター、フロリダ、ドレイク、そのほかダウンタウンで避難勧告を受けた友人達六人を連れて私はHurricane Ireneから逃げてきた。ドレイクを含め5人が金融街に勤めている。早々にClosedとなったスーパーマーケットなどもあり十人分の食料の調達にはコネチカットまで行った。Ireneはカテゴリー1と、ハリケーンの規模としては一番小さなものではあったが、東京で私が経験した台風よりも大きいと思った。眼下の池も決壊し、ストリートにはボートが出た。隣町では、、床上浸水した家屋も多かったようだ。がそんな中、不謹慎ながら私の家は「夏の終わりの同窓合宿」で大いに盛り上がっている。いや、どうやら他のお宅でもマンハッタンからのゲストが多いようだ。実際、避難場所として適当だったのかは疑わしいけれど。地下倉庫からは飽きもせずブラックジャックのテーブルやバーカウンターを出してきて夜通しのパーティ。ここは自家発電なので停電もなく、避難を余儀なくされた友人達には多少の不便はあっても良かったかと思う。辺りを見回すと、数人はバルコニーでワインを飲み、数人はリビングルームでゲームをし、フロリダとカーターは、サウナに入っている。すっかり寛いでいる様子。彼等はスーツを持って来ており、電車は全線運休しているものの、うちから歩いて1分のバスストップからWall St.へ行くバスは明朝、通常通り運行するということなので、彼等はここに車を置いてバスで通勤するのだそう・・・ということは、なに?またここに戻って来るつもり?私は私で、一昨日乗るはずだった飛行機をキャンセルしたのでまた東京へ戻るのが延びた。2、3日中にと思ったが、母に電話をすると「今週はだめよ、こっちにも台風が来てるから。あなたもう、ずっとそこにいれば?」おまけに、今私の横で、私が日本語を打っているのを不思議な顔で眺めているモニカも、この際NYに帰ってくればいい、と言ってくれる。ますます里心が強くなる。どちらにしても、私の家でも地下駐車場と倉庫が浸水したので明日・明後日に帰国することは不可能だし、掃除をして、日本の台風が去った頃東京に帰ろう。この夏も実現しなかったヨーロッパ行きは、できれば10月の終わりにでも。スペイン・ポルトガルにしようかと。Hurricane IreneがNYでこんなに大暴れするとは思いもよらなかった。今年は少し変だ。この1週間に、地震とハリケーン。何故だかこれ皆私の責任ということになっている。そして彼等は私を"Hurrikate"と呼んでいる。迷惑な話であるが、日本でもHurrikate旋風を起こしてはいけないので、台風12号が行ってしまうまではここにいようと思う。それにしても、お気付きかと思いますが、私の友人には未婚者が多い。また、既婚でも子供のいる夫婦は殆どない。アメリカの友達もそうだけれど、日本の友達も同様なのだ。仕事人間か、それとも快楽主義者なのか。きっと両方。「類は友を呼ぶ」ってこういうことを言うのかしら。穏やかで少し肌寒い、夏の終わりを思わせる夜。 A Happy Tune for A Happy Little Reunion
August 28, 2011
昨日、遊び疲れた四人がマンハッタンに戻るや否や、VA震源の地震。高層階のドレイクの自宅は揺れた方だとは思いますがそれでも震度2くらいか、今の東日本ならそう珍しい大きさではなかったと思います。にも関わらず初めて地震を体験した三人の動揺は大変なもので、東北大震災を東京で経験した私の話を一生懸命に聞いています。そんなわけで、ブログの更新ができませんでした。今日一日休ませて頂き、今夜か明日の朝(私達はすっかり昼と夜の生活が逆になっています)にシンシアとカレンの戦いをお話したいと思います。是非またいらしてください。Thank you and...
August 24, 2011
急用ができたので、New Yorkに帰ります。 数日で戻りますので、帰りましたらまた宜しくお付き合いください。 DJ Kennedy
August 5, 2011
↑ まだ東京に帰りたくないDJKある雑誌に「人生のどこかに置き忘れたもの」「人生に足りないもの」について書いてあって、静かな旅先の夜、ぼんやり海外のwebTVを観ながら私の人生に足りないものを考えてみた。今の私にないもの、それはきっと、「夏」である。これから何十年先まで生きていっても決して色あせることのない"Endless Summer"を私は持っていて、それ以上の夏はもうないと思っているから、次の夏が来ても何だか他人事のような気がしているのだ。何とも冷やかな八月。誰にでもあると思う。最高のものを手に入れたら、その後は放心状態になってしまうこと。 Lottoに2度も当選し、円に換算して総額30億円を獲得した知人が言っていた。これ以上ないと思っていたものが手に入ってしまうと、「欲しい」という感情自体もなくなってしまうものなのだと。彼等はLottoで、念願だった世界一周を果たし、Californiaに豪邸を建てて優雅に暮らしているが、確かに幸福が飽和点に達したような、穏やかだけど物事に無関心な、そんな風に生きている。では、私ももう本当に夏は要らない?新しい夏をよそ目に、私は私の"Endless Summer"と戯れている。他の夏など要らない。これは幸福の飽和なのだろうか。それとも私は、ただ単に欲望に対してcouch potatoなだけ? You are. via @youtube
August 2, 2011
ライラックの庭は、自然がそこに造り上げたものではなくて、今の世にひっそりと背を向けているようにも感じられる廃墟の住人が育て、愛でたものなのだった。 Van Slyke Castle(ヴァン・スライク・キャッスル)は、看護師Ruth A. Colesの二番目の夫、NYの投資家William Porterによって建てられた。屋敷は最初、Foxcroft(フォックスクロフト)と名付けられた。ポーターは二年後交通事故で亡くなり、更に二年後の1913年、ルースは三番目の夫、弁護士のWarren Van Slykeと結婚、のちに屋敷はVan Slyke Castleと呼ばれるようになる。結婚後彼等は別の家で過ごすが、1925年に夫ウォーレンが亡くなると、ルースはひとり屋敷に戻った。1940年彼女も63歳で亡くなった。屋敷は親族の手に渡ったがすぐに売却され、1950年代に入るとその親族の離婚によって屋敷は放置されることとなり、1959年、ヴァンダルが入り屋敷に火を放つと、Van Slyke Castleの歴史は幕を閉じた。 ここに記述してみても、屋敷の歴史は極めて個人的な、小さなものなのだが、実際ここに立ってみると、裕福ではあっても次々に三人の夫と死別する(最初の夫は、二番目の夫ポーターの親友だった)という波乱の人生を歩んだルースの物悲しさが、かけらとして残った屋敷と重なって見えた。が一方では、あの見事な花園を見れば、彼女があの家での暮らしをどれだけ愛していたか、その幸福感もまた確かに息づいているのだった。 ドレイクは、この場所にもっと謎めいた、つまり心霊スポット的な盛り上がりを期待して私達を(特にアンバーを)ここに連れて来たようだが、廃墟自体それほど大きなものではなく、また内部、外部ともにくまなく探して回ったが、結局それらしき、つまり「今も誰かが屋敷の中を彷徨っているのではないか」的なものはひとつも発見できなかった。それでもドレイクは「不気味だ、不気味だ」と喜んでいたけれど、鈍い私は、切なさは覚えても不気味だとはてんで思えないのだった。 Click! ドレイクはこんな感じを期待していたかと。→ 今更お話するのだが、このヴァン・スライク・キャッスル、ラマポ・マウンテンの約200メートル地点に位置しており、一番高いところでも251メートルだと言うからとにかく実は、とても低く、そして本来ならば湖の周りを爽やかに歩ける素敵なハイキングコースなのであった。私達のような愚か者たちは、おそらくラマポトレイル始まって以来かと思われる。 Click! 本当のラマポ・ハイキングはこんな感じ→ 空を見上げると、太陽は少し傾き始めたようだった。夏時間は日暮れが遅いが、ここまで実に七時間が経過していた。体力もとっくに限界を超え、持ってきた水も残りわずかになった。そして何より困ったのは、アウトドアライフにおいては第一プライオリティとも言える「トイレ」であった。ここにはトイレがなかった。しっかり下調べをしておけば数時間で戻ってこられるわけで、その間トイレの必要はないのだろう。が、私達は既に2倍以上の時間をここで過ごしていた。水分もそれなりに摂取してきた。さて、この危機を私達がどう乗り越えたか。内緒。 最終回(5)-2へすぐつづく。
July 10, 2011
ごめんなさい。お約束だったRamapo Mountainsの最終回、明日に延期させてください。急な仕事が入りました。七月は独立記念日もあるし、個人的にも、とても思い出深い月なので大切に過ごしたいのに、今年は、春に私なりの「豪遊」をしてしまったため、今になって仕事のしわ寄せが私を窒息させている。実際、かなりの無駄遣いもしてしまったので、そのうちにヨーロッパへ行くつもりならその準備のためにも、少し我慢して?仕事に勤しまなければならない。というわけで、眠い目をこすりながら、仕事に戻ります。Hopefully朝方には終わるでしょう。実は昨晩も徹夜でした。少しつらいなぁ。今夜は、この写真を代わりに置いていきます。これ、誰の飛行機だからご存知ですか? Hint: ああ、飛行機に乗って遠くへ行きたい、私のKingと。 では、明日の夜に。
July 6, 2011
お休みも中日ですね。みなさん如何お過ごしですか? 私は飽きもせず?書斎で仕事中、ブレイクには書棚から 「月と六ペンス」を引っ張り出して読んでいます。 W. Somerset Maughamが大好きです。 新緑の美しい、良い季節になりました。そろそろ「あの」時季だなぁ、と思います。 「あの」のお話をさせて頂く前に、ちょっと仕事を片付けてしまいます・・・。
May 2, 2011
昨日Beach Boysなんて聴くから、今日はため息まじりに過ごさなければならなかった。故に仕事も大して進まず、気分転換にデスクを離れては探し物などしてみたのだった。私には奇妙な癖がある。電話をしている最中、無意識に何かをどこかに挟み入れてしまうのだ。年に数回、書棚の本を虫干しする時にパラパラとめくってみると、必ず何かしら見つかる。NYの家では、一度の捜索で見つかったのが、期限切れのギャラリーへの招待状、友達からの手紙、グランドセントラルターミナルまでの定期券、そしてどういう訳かあちこちから発見された総額68ドル。これにはほとほと呆れたが、実はけっこう楽しみだったりする(反省の色ゼロ)。夕方、ひとつ探していたものが出てきた。因みに本の間から見つかったものではない。 可愛いでしょう? とても気に入っているチョーカー。ご覧の通り価値のあるものなどではなく普段使いにしているビーズで、ネックの高いのセーターに合わせたりするとなかなか良いのだが、つい最近思い出して手当たり次第に探してみると、思わぬところに迷い込んでいた。何故夏のバッグ?おそらくこれも電話中だった私の犠牲になったのだ。 古いけどまだ愛用品のNina Ricci できることなら見つけ出したい、永遠の探し物。遠い昔の記憶。音信不通の幼なじみ。失くした愛。バッグから出てきてくれるならどんなことでもするのに。 去年の夏のfav.
March 25, 2011
上の写真はNYの家の最寄り駅ですが、まだ東京にいます。昨日、未だ冬眠中の精神が目覚める気配を見せない私に、知り合いの老紳士が、モルディブ旅行をプレゼントしてくださった方だが、「君の旅行費が浮いたから、それで美味しいものでも食べましょう」と誘ってくださり、とても美味しい日本料理をごちそうになりいろいろな話をしたが、その時頂いた日本酒が原因。私は日本酒があまり体に合わないようだ、家に帰って来てから体調を崩し、そのまま仕事に取り掛かり寝られなかったことも手伝って、今日は終日ベッドの上で過ごした。とにかく年末には欧州行きを決めていたので、今年の計画が全てなくなった今は独立していることだけが救い、何とか仕事だけは最低限でもこなしているが、おかげで昨夜は徹夜だった。こんな「夜明けのコーヒー」は体に悪い。なので最近では「朝の太陽を浴びてカモマイルティー」、全く色気などなくない。けれどもまたいつどこへ逃げ出すかも分からないので、その時になるべく迷惑を掛けないようにしておかなければならない。本当は、半年も前に一度行っておくべきだった。時間を戻せるなら、と振り返らずにはいられない。その頃は仕事が忙しく、またヨーロッパへ行くことは最終目的だった為、下見のつもりで訪れるつもりだった2月までは、何とか終えるべき仕事を全てこなしてしまおうと必死だった。私はいつでも、何に対しても「決して焦らず、落ち着いて」という姿勢で生きてきた。そんな自分の性格を短所と思ったことはなかった。でも結果、それによって大切なタイミングを逃すことになってしまった。もしそのタイミングを間違えなければ、結局結果が今と同じだったとしても、こんなかたちで終わることはなかっただろうにと反省している。人生の中で「ここだ」というタイミングは何度となく訪れるのだろうけど、誰もがその全てを掴めるわけではない。人生はギャンブルだ。ただ、カードゲームは得意でも、同じように行くわけがない。勿論それでも自分の人生は好きだ。と落ち着いて考えているようだがやはり私にとっては大きな決断だっただけに「もう済んだことよ」と笑えるようになるまでにはまだ時間が必要だ。でも何故そこまでこだわってしまうのか?どなたにもあるのだろうと思うが、私にも、子供のころから周期的に見る夢がある。エレベーターを上って上って屋上に着くと、そこは、行ったこともない、見たことさえないヨーロッパのある国なのだ。その国名だけは幼い私でもしっかりと記憶していた。私の祖父は多くの国へ行った人で、旅先から必ずポストカードを送ってくれたが、その国から届いたことは一度もなかったし、私との接点はまるでなかった。なのに、ずっと同じ夢を見続けて来た。それが、去年あるきっかけからその国へ行くチャンスが訪れた。そう認識した時の気持ちはきっと、一生忘れないだろうと思う。運命が私に、長い間この夢を見てきた意味を教えてくれるのだろうと思ったのだ。私の人生が、本当にきらきらと輝いているように感じられた。雪解けの、流れの速い小川を思い描いた。私はこれから創られる自分の道を信じることにして、それにfaithfulに生きてきたつもりだった、が。気がつくと、全ては春の雪みたいに地面につくなり水に変わり、跡形もなく消えていた。全ては私の責任なのだ。でも、それでも尚今のこの状況を「受け止めている」とか言いながら、実はちっとも受け入れられていないのだった。今日、NYの友達が私に、"Lady, your're a real woman. Never lose your confidence."(おまえはなかなかの女なんだから、自信を失くすな)最高の賛辞をくれた。友情は温かい。が、real womanが聞いて呆れる。1日中パジャマを着替えもせず食事もせず、ベッドの上で枕を抱き、寝返りを打っては溜息をつき、これまでのことを悔やんで勝手に絶望しているのだから。こんなみっともない自分は初めてだ。終わりが見えないだけに、疲労感もガツンと来るより、何だかだらだらと続いていくのかも知れない。今は打開策を考える気すらない。きっと遣り過ごすしかないのだ、どこかで好転するきっかけを待って。もっとも、そう簡単に諦められるのなら、私の決心もそう大したものはなかったということになる。だから、苦しむだけの価値はあるのだと思うことにする、少なくとも今日は。明日の今頃はまた凹んでいるのかも知れないけれど。 simply #nowplaying
March 9, 2011
メトロエリアは初春の雪になった。私は雪がとても好き。でも今日の雪は特別だった。今朝目が覚めた時に見た、静かに舞い落ちる白い雪に安心感を覚えたのは、何だかこのまま疲れ切った私の上にも降り積もって、跡形もなく消し去ってくれるような気がしたからだ。そんなの有り得ないと分かっていても、どうにもお願いせずにはいられず、不可能なその願いを叶えてくれるような錯覚を与えてくれたあの雪に、ただ甘えていたかった。やはり普段より空想(あるいは妄想)が激しくなっている。NYにいる時、私は冬の殆どを郊外の家で過ごす。雪の量がマンハッタンとは比較にならないのだ。雪を見て、雪遊びをして過ごすなら郊外の家。トップの小さな写真をご覧頂いても雪の降り方がお分かりになるかと思う。写真は、私の窓から撮ったものだ。一方、マンハッタンでは、ゲレンデでは使ったことのないスキーを履く。街の中やパークを歩く為に。特に大雪の後のパークを歩くのは醍醐味がある、と言うよりトライアスロンの強化合宿といった辛さもあったのを思い出す。尤も、水っぽい春の雪では用を足さなかったが。東京では、2日以上雪が降り続くことも積もっていることもないので、街でスキーを履くこともないし、雪遊びをしている大人など見たことがないけれど、この町には素敵なカフェがたくさんあるので雪を見ながらゆっくりとお茶を飲む時間をとても気に入っている。そんな時は、本を読んでいるか、本を読むふりをしてあれこれ考えるのだ。今夜Debbieに電話しよう、週末は映画に行こう、あの人は今頃何をしているのかしら、どこかへ行きたいな・・・。やはりどこかへ行きたい。そして私は目的地をどこにしようか考える為だけに週末温泉へ行くことにした。去年行きたいと思っていたお気に入りの温泉宿に空室を確認して、すぐに決めた。が、どこまで「運」というやつは私を嘲笑うのか。私の車を父が仕事で使うと言い出した。仕事と言われては、今それが全く手につかない娘としては「いやです」とも言えず、雪でも降っていたら困るなと思いながら、普段は近場以外走らせない、更にはどう見ても温泉街にはtoo funkyなBMWを出すしかなかった。ここ15年間BMWに乗っているが(父が乗る車は日本車)、何故近場だけ?数年前東北地方へ行った時、スピードが出るのを良いことにhighwayを猛烈に飛ばしspeeding ticketを切られたことがあり、それ以来何故だか懲りて遠乗りしないことにしている。そう言えば、ストックホルムに住む友人が常々「雪の中を走るならVOLVOに限る」と言ってずっとVOLVOに乗っているが、こんなことなら私もVOLVOを買えばよかった、そう思った。コペンハーゲンにいる友人も同じことを言っていた。雪の残っている温泉宿はとてもきれいで、物音と言えば、宿を囲むように覆い茂る木々の葉が風に揺れる音くらいだ。その静けさと澄んだ空気はまるで罪深い心を浄化してくれるようだった。ここに来て良かった。が、そう思ったのは最初の5分で、独りになって窓際の椅子に腰を下ろすと、急に寂しさが込み上げて来た。「一緒に行こうよ」と言ってくれた家族や友人に「仕事を終わらせなくちゃ」などと白々しい言い訳をして一人で来たものの、実際部屋の真ん中にぽつんと佇むと、怖くなるほどに後悔した。父は、まだ私が死にに行くと勘違いして最後までこの温泉行きを反対していた。一人娘の父親とは、こんなもの?夜、耳を切るように冷たい空気の中で庭にある露天風呂に浸かっていると、「星の王子様」の本の表紙を思い出した。小さな星の上にぽつんと立つ王子。私もあの王子と似たような顔をしてるんだろうなと思った。そして、今のこの情けない己と、こうなるまでの経緯をぼんやりと思い返し、こうして独りでいる私を余所に世界はいつもと何も変わらず無情に動いているのかと思ったら、それまでは泣く気にもなれなかったのが、初めて涙が溢れて頬を伝い落ちた。お風呂の中で泣くというのはあまりにかっこ悪いものだと思った。温泉は相変わらずとても良かったけれど、結局気持ちも変わらないし、食欲も出ないし(何とここ2週間で4kg減っていた)、次はどの国へ行くかも決められなかった。それどころか帰りの車では、もう1か所、どこか温泉に行こうかと思った。今日の雪は、何の為に降ったのだろう。冬の終わりを告げる為?もしそうなら、私の悲しい思い出も持ち去ってくれたら良かったのに。残念ながら、まだここにある。 追記。温泉に行ってひとつ良いことがあった。私はこの約10日間、全く音楽を聴いていなかった。そんな心の余裕がなくなっていたのだろうが、お風呂に入って考え事をしていた時に思ったのだ。鼻歌が出てこない。そして、そう言えばNYに帰る飛行機の中でも、郊外の家でも、東京に帰って来る時も、私は少しも音楽に触れていなかった。少し驚いて、温泉から帰る車の中で、自然と気持ちが向いたOldiesを久し振りに聴いたら、心が少し潤った。ただ、泣きはしなかったが、正直とても悲しくなってしまった。 (Click and enjoy the music.)
March 7, 2011
人は暮らす場所を、どのような理由で決めるのだろうか。生まれ故郷?そこで結婚したから?仕事?景色が美しい、都会の喧騒を離れてゆったりと生活したい。健康上の理由もあるだろう。どこで暮らしたいか、どのように、いつまで、そこで何をしたいか、自分がどうありたいか。私は今、それら全てをいったん壊して、もう一度構築し直さなければならないところにいる。去年から私はヨーロッパに移る計画を立てて、その為に動いていた。ところが、それが白紙になって、これまで持っていたはずの可能性がするりと私の手からこぼれてしまったのだった。人生には失敗がつきものだけど、今回ばかりは、立ち直る手段を見つけられなくて「何だかDJ Kennedyは普段と違うぞ」という状況にある。本当にこれが私かと本人すら首を横に振るのだから、母が一大事だと騒ぐのも無理はない。勿論こういった経験は誰にでもあるのだと、今はこの結果も、こうなった原因(殆どが私)も、全てを受け入れなければならないと思っている。とても辛いけど。行ってみたかった。それで、今の私にはまだ早過ぎるのだが、丁度家族が揃っているので今後について話し合っている。尤も、本来我が家は、誰がどこに居ようと口出しなどしない。実際、バラバラと言えるほどに私達家族はそれぞれが好き勝手に生きている。「幸せはどこにあるのだろう?」これが議題である。NYへ帰るよう父は私に勧め、母は、もし私が東京にいられないのなら、ホノルルが良いのではないかと言う。私の頭の中はカンペキにからっぽなので、カナダにでも行ってみようか、などと思ったりしている。オーロラが見たいのだ。来年の今頃など、このブログからオーロラの写真などお届けしていたりして?そう言えば少し前に「露天風呂に浸かってオーロラを見よう」なるツアーを見つけた。あれはカナダではなくアラスカだっただろうか。アラスカではどんな暮らしをしているのだろう。NYの、特に郊外の家は私のお気に入りだ。GCT(Grand Central Terminal)から北へ向かう電車に乗るのだが、ハーレムを通りマンハッタンを出てしばらく行くと、景観は見違えるほどに変わる。むせ返るほどの緑に囲まれ、動物が冬眠から覚めると、鹿、リスやうさぎは勿論、ウッディチャック、チップモンク、スカンク(夏の迷惑者)が暢気に歩き回り、深夜にはあらいぐまが池で手を洗っているのが聞こえる。秋が近くなると「クマが出た!」というニュースも飛び出す。税金は高いがどこより穏やかで美しいところだ。でも、今家に帰るのは良い選択か?ホノルルも然りで、私の全てを受け入れてくれる場所ではいけないと思っている。なんて言いながら、結局は来年の春、「桜が咲きました~」なんて千鳥ヶ淵の写真など撮っているような気もする。来年の春には東京スカイツリーも完成すると言うし?見知らぬ町、というのはどうだろう。モルディブもそのひとつ。日本では観光地として有名なモルディブだが、私は行ったことがない。今回、バケーションで訪れるはずだった海の美しいあの島では、どんな暮らしができるだろう・・・自暴自棄になってる?いや、そんなことは決して。
March 6, 2011
情けないことに、あれからすぐ日本に舞い戻って来てしまった。やはりどうしても自由になれない宿命?ひとりで気ままに旅でも、と思っていたはずが、何だか夢でも見ていたような気分。NYに戻ってから、母からの電話に出なかった私がいけなかった。母は、仕事で東京に来ている父に「娘の様子がおかしい。一大事かも知れない」と話したのだそうで、私を心配した両親による自作自演。父は私が自殺するのではないかと疑ったようだ。暫く離れていると余計に心配させてしまう。そんなことを私がするはずないのに(ただひとつ否めないのは、これほどまでに疲れたと思うのは初めてだ、心身ともに)。「パパはちょっと大変なことになってしまって。申し訳ないが、君帰って来られないか?」スーツケースに入れたままだった荷物はこの出来事を予感していたのだろうか、荷造りに1分もかからず、居心地の良い、大好きな郊外の家を後ろ髪を引かれる思いで後にし、お土産も持たず、帰りの飛行機では父が心配でお茶も喉を通らなかった。病気だと思った。そして空港に着き、ゲートを出ると、大きな笑顔で手を振る私の両親。目の前に立つなり、人目も憚らず私を抱きしめ泣く父。何故だか笑っている母。見事に騙された。里帰りすらゆっくりできず、気がつけば初春の東京。両親の愛情が骨身に染みたが、今回だけは好きにさせて欲しかった。結局、今年一番楽しみにしていたモルディブまでダメにしてやっと勝ち取ったNY里帰り+ヨーロッパ「感傷旅行」は、こんな「泣き笑い」のかたちであっという間に終わってしまった。お騒がせ致しました。皆さんと、両親や友人達と、そしてもう一人お詫びを言わなければならない人。スタッフにも大変な迷惑を掛けてしまった。今回私はPCを持たずに飛び出してしまい、このポストをはじめ仕事の電話やメイル、全てを彼女に任せきりにして随分と彼女を振り回した。チップB、ごめんね。私の為に大変な思いをさせました。相談に乗ってくれてありがとう。今回ここまで両親を心配させたのは、私の主治医が「気休めに」という言葉と一緒に処方してくれたマイナートランキライザーで、母は薬の入った袋を私の部屋で見つけ動揺したようだった。ここ数カ月、仕事に忙殺され、プライベートでも悩みが多く、そんなことを医師に相談した折に頂いたもので、私はお守りとして持っているつもりだったが、数日前、ついに1錠だけ飲んでしまったのだった。元来強靭な精神の持ち主である彼等の娘(私)が精神安定剤を飲まなければならない程に追い詰められていたとは「腹立たしい」と、母は帰りの車の中で家に着くまでぼやいていた。本人にとっては「しっかり眠りたいだけ」でも、家族はとても心配するのだということがよく分かった。ついさっき、母は私の目の前で薬を捨ててしまった。勿論私も賛同した。しかしその後が私の母なのである。「人の命は、いつ終わってしまうか分からないのよ?辛いまま終わるなんてばかばかしいじゃないの。そんなに苦しい生き方をするくらいなら、どこか南の島で酋長の30人目の奥さんにでもなって、何にも考えずにのんびり楽しく暮らして欲しいものだわ」相変わらず突拍子もない説教。だいたい、酋長の30人目の奥さんに?それはもう、奥さんとは呼ばないのではないだろうか?それに、もしも私が何もせずのほほんと暮らしていたとしたら、その時はその時で「働かざる者食うべからず」とか言うのだろうに。年老いて尚、その辛辣さに磨きのかかる、でも誰よりも愛すべき私の母である。今私は、この期に及んでまだ考えている。NYへ戻るべきか、再び「感傷旅行」を敢行するか、あるいは自腹でモルディブへ行くか(実はこの旅行はプレゼントされたものでした)、次はきちんと家族に告げて。それとも、癒しは日本の温泉で得よ、ということか。それも良いかも知れない。日本に留学していたアメリカ人の友人が、日本人が優しいのは、お風呂にゆったりと浸かる文化を持っているからに違いないと言っていたが、何だか彼女の言った意味が分かる気がする。どこか素敵な温泉宿など探してみようか。周囲に迷惑を掛けながらも、春は、日本が一番美しいなぁ、などと暢気に思ったりしている。でも、日本の春は、世界一美しいと心から思います。あと1カ月も経てば華やかな桜の季節が来ますね。そう言えば、きっと気のせいではないはず。沈丁花の香が風に乗ってきました。大好きな春の空気です。また皆さん、どうぞ宜しくお願い致します。
March 4, 2011
私は、自信を失くした時、それから心が痛い時、ふらっと消えてしまいたくなることがあります。私の弱いところです。「一度きり」と仕事相手にも家族にも恩着せがましく言われながら、六月に決まっていたモルディブを諦めてハワイへ行こうかと思いましたが(それでトップの写真に使っていました)、結局NYの家へ帰って来ました。ここ1ヶ月くらいぐっすり眠った記憶もなく、ぼんやりとしたまま、またNYに朝が来ました。明日から、ヨーロッパに行ってみようと思っています。目的地はまだ決めていません。私はイギリス以外にヨーロッパをあまり知りませんが、少しの間、手帳以外何も持たず、メディテーションのつもりで街を歩き、今この時点ではとても無理ですが、元通りの私自身に戻る方法を考えてみようと思います。もともと私には放浪癖があって、突然思い立っては誰にも行き先も告げず出掛け、旅先から「今Savannahにいます」と連絡をしたりということが今まで随分とありましたが、なるほど日本にいると、日々の暮らしに追われ、またこんな気持ちになることもありませんでした。帰って来るや否や友人達に「あなたは身勝手過ぎるよ」と叱られました。でも、人生80年として、こんな我儘な時間をもらってもいいのではないか、と思っています。それどころか、もっと早くこうしておけば、今、窒息しそうなほど苦しんでいる後悔や反省はなかったかも知れないと思っています。さて、どこに行くとしましょう。まさかコインを投げて決める、なんて無茶なことまではできませんが、できればそんな風に行き先を決めたい気分です。やはり私は身勝手でしょうか?
March 2, 2011
これまでに「怖い!」と咄嗟に思った経験、何回ありましたか?詳しくお話することができないので、実はここでお話しすること自体控えるべきなのであろうけれども、今回のエピソードが進まない理由、心に余裕がない、ということを少なくともお伝えしたいと思った。実はここ数日で3度、不気味な出来事が起きた。警察の方達のおかげで、私は今無事に家にいることができるのだが、正直とても不安で、疲労もかなり嵩んできた。「人の気配を感じませんか」そう聞かれても全く身に覚えがなく(と思っているのは本人だけなのかも知れないけど)嫌がらせなどされる理由など想像もできない。なのに?1分でも早く解決してこんなことからは解放されたい。「やい犯人!こっちには無駄な時間なんてないの、いい加減にしてよ、フン!」とかなんとか、叫びたい気持ち。
February 2, 2011
NYはまた雪で、何だかとても羨ましい。私は寒い冬がとても好きなので、今月の東京をかなり気に入っているけれど、それでもやはり、雪が降らない。あと2,3回、白くなった道路を見られないものだろうか。来月からは自分の部屋を仕事場にする為、オフィスの片付けと残りの仕事に追われてSandy & Bobのストーリーを繋ぐことができずに2日が経ってしまいました。すみません。私の仕事は時間が不規則で夜更かしもこれまでは何てことなくできたけれども、遂にドクターストップがかかってしまった。私が仕事が好きなので、朝まで起きていることも何ともなかったし、むしろ一仕事終えて窓から眺める朝日の気持ち良さなら誰よりもよく知っているとすら思ってきた。でも、それによって知らないうちにストレスを溜め込んで体を壊すという始末。その他にも、もっと自分を大切にするようにという助言もあって仕事に関してスローダウンを決めたのだった。今日までの人生を振り返る為にも、明日からの人生を考える為にも良いことだと解釈している。ある日私は、ケーブルチャンネルで日本の昔のドラマを目にした。どのくらい古いものかは分からないが、30年、もっと前のものではないだろうか。その中で、とても美しい女優さんが「誰かの為に生きて行きたい」という言葉を口にして、私は一瞬息を止めた。「本当に?」と普段の私なら軽く笑い飛ばしてしまっていたかも知れない。でも、彼女の美しさゆえなのか、素敵な響きで胸に入りこんだのだった。自分を大切にすることで周囲を幸せにすることは考えられても、大切な人の為に自分の時間を遣っていくことは、とても勇気の要ることと思うのだ。昔の日本女性なら当たり前の人生なのかも知れないけれど、私はこの時初めて、本当に初めて、誰かの為に生きて行くという発想は、女性だからとか言うことではなく、純粋に誰かを大切に思うという観点で捉えたら、何て愛らしくて大胆な人生になることか、憧れに似た気分になった。そういう人生も幸せだろう。実際に、大切な人の為に生きてます、と明るく言い切れる人はどのくらいいるのだろうか。きっと、すごく素敵な人。あなたは、誰の為に生きていますか? I Live for Your Love
January 27, 2011
ちょっと脱線。お茶を飲みながら、少しおしゃべり。今日の私はいつもと違う。何だかちょっと、素敵なワタシ、とかそんなことではまるでない。むしろ素敵ではない。今、私の胸にはホルターモニターと呼ばれる心電計が取り付けられており、24時間完全監視状態の安心セキュリティシステム、とは違うだろうが、とにかく私の心臓の動きを細かく調べてくれているようである。昔、アメリカにBionic Womanという人気ドラマがあったが、私は今日、その主人公Jaime Sommersになったような気分でいる。だからって決して鉄のポールをへし曲げたり悪人を何百メートルも突き飛ばしたりなんてできないけど。体に異変を感じると、これは私がまだ若いからかも知れないが、次のステップへ進む為に、今日までの自分を抜け殻にして過去に置いて行くチャンスなのだと考えることにしている。時には、そんな悠長なことを言っていられないこともあるけれども、それでもこの心臓が頑張って動いてくれている間は生きていかなければならないのだし、第一、私はこの世に生まれてこられて本当に幸せだと思っているので、面倒な検査もまた、プロセスのひとつ。ここに捨てて行く抜け殻にも感謝して、明日の待つ扉を開きたいものである。今年の私はいつもと違う。私は今、運命に試されている。そう思っているだけなのかも知れないけれど、私が向かおうとしている道が既につくられているのなら、私はそこにある幸せに自分の全てを賭けて、その場所に辿り着く為、与えられた試練に果敢に挑もうではないか。人生を一生懸命生きている人なら、きっと誰もがこう思うことだろう。ただ、何をするにも人には健康が一番大切。運命が私を導こうとしているのなら、私の運命、お願いよ。もう少し時間が必要。時を無駄にはしない。でも人はいつでもひとつずつしか荷物を持てないものでしょう・・・ともの申してみたところで、運命は聴き入れてくれるの?この奇妙な機械を身につけてみて、初めて感じたのだ。自分以外のものに体も魂も支配されているような歯がゆさ。それでつい、あれこれ考えた。けれど、こうしてゆっくり自分を振り返るのも、時には良いもの。 今夜はこんなの聴いてます
January 25, 2011
2010年もとうとう最後の日を迎えて、何故かオチ無し、他愛もない話。 昨日ある人に尋ねられた。 「この1年で、忘れたいことと絶対に忘れたくないことってなあに?」 忘れたいことは年末に限らず、基本的にいつも、ない。 きっと欲深いのだろう、どんなこともいつまでも覚えていたいと思っている。 目をぎゅっと閉じて耐えるような辛いことも、ふと涙がこぼれてしまうような 悲しいことも、そこには必ず意味や自分自身の負うべき責任があるのだから 忘れてはいけないのだと解釈するようにもしている。 忘れたくないこと、こちらはいくつもいくつもあって困ってしまうが。 夏が来る頃、今も私の人生を大きく変えようとしている大切な出会いがあった。 人生ゲームのルーレットを回して、「5!」と心の中で願っていたら本当に5で 止まった時のような興奮と、これを運命と呼ぶのだろうかと思わせる胸騒ぎは きっと、この先私がどんな道を選ぶにしても、人生が終わるその瞬間まで 忘れることはない。人生80年あるとして、人は何度奇跡に巡り合うだろう。 私には、もう二度とない。思い出すたび、神秘的に思えて仕方がない。 当たり前のことだが、長い一生、歩いて行く距離が長くなればなるほど 経験の数も比例して、そのうちに「そうか、この為に私は生まれて来たのね」 と思える瞬間が必ずと訪れると信じるようになった。心にじわっと染みわたる 幸せというのとはたぶん少し違う、もっと達成感に近いような自信に満ちた 気持ちを持てるのではないだろうかと。私は、この出会いが私の理由になれば とても幸せだと、その日を待ちわびて日々を過ごす。 勿論、そこへの道のりも短いものではなくて、途中には苦難や葛藤が待ち受け 回り道をすることも、振り向いて引き返すことも考えるのだろう。私は今、 「信じる強さ」と「荒れ地に自分の道をつくる勇気」を試練と受け止めて それらがきっと幸運を引き寄せる力になると心に叩き込み、1年後、5年後 10年後の自分の姿を思い描いているところだ。 実際には、半年後の自分にすら見通しはないけれど。もしかするとこれが 東京での最後の冬になるかも知れない、ということくらいしか。 師走の慌ただしさの中で深夜に寝ぼけて何を言ってるんだか。そう、 そんな時でもこの体だけ切り取られどこかに取り残されているような、 とても自由な気分でぼんやりと、そして至って真剣に考える辺りは我母に 「ああ、私はとんでもないデイドリーマーを生んでしまった」と後悔させる 所以であろう。がおそらく私のデイドリーミングは、来年も変わらず続く。 みなさん、穏やかな、お幸せな新年をお迎えください。 Happy New Year!! 小学生の頃、Karen Carpenterは女の子皆の憧れで、Christmasに 父がプレゼントしてくれたレコードはずっと私の宝物だ。今も年末が 来ると頭のどこからか彼女の歌声が響いてくる。今夜は生意気にも、 小学生時代の私のお気に入りを。これを早熟と言うべきなのだろうか、 子供なら"Sing"や"Yesterday Once More"辺りを気に入っても 良さそうなのだが、もっとぐっと泣きたくなるような歌が好きだった。 (Click the jackets and enjoy the music!)
December 29, 2010
クリスマスのギフトラッピングと仕事で1日を使い果たし、 お話の続きを作れませんでした。すみません。 昨日は自分用に買ってあったワインを間違えてラップし、 今日はまた、並べておいたプレゼントにつけるタグを1つずつ ずらして貼り付け・・・どうも要領が悪くて。 明日は大丈夫。きっとお目にかかります。Good night :) DJ Kennedy
December 19, 2010
なかなかゆっくりニューヨークのお話などができず・・・。しかも今夜はまた、ちょっと場繋ぎ的?に小笑いなど持ち込んでしまった。ですがこれ、日本の方達にはけっこうなストレス解消になっちゃうのではなかろうか、と思っているのは私だけ?因みに私はこの映像のおかげで逆に、最近あまり大笑いをしていなかったことに気付いてしまった。このVideoを作られた方に拍手!大拍手!!THANK YOU!!! では、どうぞお楽しみください :) Click and enjoy the video! You'll like this!
November 6, 2010
用事があって3日間だけNYに戻った。 私には、飛行機に乗ると大抵映画も見ずに熟睡、朝のコーヒーが香って目が冷める というコースが決まってあるのだが、今回は友人に「機上からオーロラを見る」 などと約束してしまった為に頑張って眠い目をこすっていたものの、結局往路復路 共にオーロラの「オ」の字も忘れて夢の世界を楽しんでいた。 経験はありませんか。 これはおそらく飛行機と言う非日常空間が与える影響なのだと思うのだが、 NYへの長い道中、必ず私は夢に恵まれる。何度でも楽しい夢を見てしまう。 飛行機で生活したくなるくらいの甘美な夢までごちそうしてもらえちゃう。 すっかりいい気分になって妙なことを口走ってやしないだろうか。 今回は特に、何だかとても素敵な夢を見たのでいつまでも忘れないでいるけれど 内容についてはコンフィデンシャル :) 親友ドレイクによると、イアフォンから直接聞こえる音楽のせいではないかと。 チャンネルを選べば好みのジャンルをずっと楽しんでいられる。航空会社の 謳い文句ではないが、「快適な旅」はイアフォンが約束してくれるようだ。 良い気持ちで眠れます。 (Click and enjoy the music!)
August 25, 2010
暑いですね。みなさん如何お過ごしですか? この夏は忙しい中3日間の里帰り(NY)などもあって少々バテております。 明日、またお目に掛かります。 Stay cool, everyone. Good night :) DJ Kennedy
August 24, 2010
これは、日本語少しの、うちのセバスチャンにはしない方がよさそうな、ここだけの話。今年の独立記念日は日曜日だったので、家でパーティということになり午前中から友人が8人集まって深夜まで賑やかに過ごすことができた。その最中、私の携帯電話が鳴って、ベッドールームに入って電話を取ると聞き慣れた、でも時間の隔たりの中で私は誰だかなかなか気付かないでいた。「分からないの?」その言葉でようやく私は気付いたが、声の主はそれでも私に自分を認識させようと電話の向こうで突然歌を歌い始めた。学生時代、大学の行き帰り一緒に歌った歌だった。ところがその声は、当時飽きる程聴いていた本人のものよりももっとずっと何だか素敵に聞こえてしまって思わず胸がうずき、戸惑ってしまった。「分かった分かった、トレイトン」そう言ってつい歌を止めさせた電話の相手は学生時代の親友で、そう、友達なんだか恋人なんだかどっちつかずの実に心地良い関係のまま時を経てきた相手、時折こうして突然電話を掛けて来ては何てことない話をしばらくして、じゃまたね、と去っていく。もう20年以上の付き合いだ。が、この日私がドキリとしてしまったのは誤算だった。いや今となればやはり笑い話なのだが、電話が来た深夜、思わず仕事場のシェルフからそのCDを取り出してきて、1時間でも2時間でも流して様々な思い出に浸っている自分にまたどうも彼に調子を狂わされた気がしていた。まさかだけど、本当に似て聞こえてしまったのだった。実はほんの一瞬、これもだいぶ昔の話だが、もしかしたら今ここにいるのがセバスチャンではなくトレイトンだったのかも、という事件もあったりしたのだが、一体どちらが運命のいたずらだったのだろう、私は彼を選ばなかった。彼もまた私を選ばなかった。と、その時背後で、人が良い気持ちで聴いているのを邪魔すべく轟音のように熱唱する、いやジャイアンのようにガナるセバスチャン。ああもう、と頭を抱えながらも何故だか微妙に楽しい気分が戻ってきたことに、すっかりありふれた日常のささやかな幸せを実感したような気になったのだった。いやあるいはただ単にこの男の無邪気さの為せる業?未だ解せずにいる次第。だったら別に話したって問題はないんじゃ?いえいえ、こういうことは言わないでおくのがマナーってもので。不覚にも、こんな風に聞こえてしまった、そんなはずないのに。 (Click and enjoy the music videos!)
July 12, 2010
更新がうまくできないまま、今日はドクターのチェックアップへ行くと どうやら過労が原因の貧血。と言っても私は日ごろから「血が透き通ってる」 と言われるほどなので大して気にもならないのだけれど、でも疲れているのは 確かで、今日・明日はオフを取らされた。 そしてこんな時に気持ちが傾くのが南の島。そう言えば、学生時代にも 勉強(あるいはクラブ通い)に疲れた翌朝には必ずビーチへ行き、砂に からだをこすりつけるようにして寝そべると、それだけでデトックスが できてしまうような気がしていた。特に、まだ観光客の少なかった裏オアフ は、何時間居ても本当に波の音しか聞こえないくらいの静寂が心地良かった。 やはり人は、自然に生かされているのですよね。心身が、青い空や海や 緑の香りが新鮮な山を欲しがっている時を感じることはありませんか。 明日は更新致します。 Sweet Dreams.
June 9, 2010
ウェディング・ソングス、今夜はお休みにして、と言うのも 今日のように、ちょっと湿度が高くなると「そろそろ作りますか」 となるこれ、リモンチェッロの準備に取り掛かった為。 リモンチェッロ。本来はレモン・ピールのみを大量に入れて作る とても甘いリキュールだけれど、やっぱりレモンなんだから、 サワーに飲みたい!という身勝手から、我が家ではピールした後 白くなったレモンを絞ってジュースも入れてしまう。邪道?かも。 とろりとした甘いリモンチェッロも美味しいけれど、サワーにした こちらも、キンキンに冷えたクラブソーダで割ったりすると絶品。 実はビアに混ぜてもけっこうイケます:) このまま寝かせて2週間・・・も待てずに開けてしまいそうだ。
June 7, 2010
良い日ですね。思わずOFFを取ってしまった。 No Phone, No TV, Off The Desk. So Gooood!! ワシントン郊外、アレクサンドリアの散歩道
June 3, 2010
明日はアップデイトさせて頂きます。少々忙しくしております。 ご訪問くださいましたみなさん、ありがとうございます。 I need SUGAR!!! Well, until I see you tomorrow night, sweet dreams.
June 2, 2010
もうそろそろ梅雨ですね。みなさんお元気にお過ごしですか? Debbieの襲来からしばらくご無沙汰致しました。その間、何と PCが壊れるという事態に見舞われまして、初めての日本製PCと 格闘の日々、ようやく今日Dataの移行が済み環境が整いました。 留守中お運びくださったみなさん、どうもありがとうございました。 少々多忙にもなってきており引き続きSlow Downさせて頂くことと なりますが、またどうぞお変わりなくお付き合いください。 それにしてもこのHumidity...日本もAsia、ですね。 Stay dry, friends. Love, DJ Kennedy
May 25, 2010
昨日突然現れたDebbieがまだ今夜もおりまして、おかげでずっと昔に 葬り去ったはずの苦い過去?まで掘り起こされてタジタジです。 その辺りのお話は明日させて頂き、今夜はまた、ホノルルから来た 彼女のSelectionで、オアフの風景を貼っていきます。 また明日、お目にかかります。 Night Night, DJK North Shore Matsumoto Shave Iceはあまりにも・・・なので今夜はAoki Shave Iceでも如何でしょうか?
May 16, 2010
昨夜はバッチリSoul Saturdayをさせて頂くつもりでしたのに、急な電話。 めくるめく80sを共に過ごし、私のMusic Lifeをこの人なしでは語れない という親友Debbieが予告もなしに現れて、東京に数日滞在するという話。 旧友が突然訪ねてくれる。今日はのんびり都内散策の予定が突然ボリューム のある週末に早変わりです。 そんなわけで。 再びOahuのきれいな海を置いていきます。Debbieと私が夢中になった 80sの懐かしいヒット曲と一緒にいっときハワイの午後を楽しんでらしてください。 裏オアフのドライブも宜しければ。 私は、今日もDebbieと青春談義です。 Woooo, nostalgic. (Click and enjoy the music videos!) By the way..... 昨日をもって、ランキング参加を止めました。 多くの方々にご支持頂き幸せでしたが、もともと短期間のつもりでした。 これまで応援してくださり、本当にありがとうございました。 仕上げなければならない原稿も溜まってきており、少々スロウペースに はなると思いますが、勿論、life is damn groovyは続けてまいります。 これからもどうぞ、お変わりなくお付き合いください。 Much love, DJ Kennedy Kailua Beach, Oahu
Welcome to my place!ご訪問ありがとうございます。楽しんで頂けましたら、ワン・クリックお願いします。「まずはお酒が美味しくなりますよ、グリルドチキン・ハニー・ボルサミック・ソース」そう言うは地獄のシェフこと我父である。ついに、出たか。母の為だ、今日はノリノリで行くしかない。「パパ、今夜はどちらのお料理?」「おお、よく聞いてくれました、今夜はイタリアンね、ママがトメイトを好きだから。 まぁ、温かいうちにおあがんなさいな」とは言うものの。目の前には、グリルしたチキンにこげ茶色のソースが絡めてあり、サイドにはそれはそれは、茹でてマヨで食べたらどんなに美味しかろうと思われる新鮮なアスパラガス(が同じソースで絡まっちゃってる)、トメイト、ポテイト、スクウォッシュのガーリック・ソテー。別のプレイトには魚介とルッコラのカルパッチオ。それから、昨日作っておいたというチーズのパイもあった。これは父があるレストラントのシェフから教えて頂いた(から当然美味しい)母の大好物。写真を撮ればよかった。父は、ドレッシングだけはとても上手で、殊にカルパッチオのソースはいつもとても美味しい。この夜は、母の希望で3種類のシトラスを使った甘酸っぱいソースで、爽やかな酸味が初夏らしかった。見た目もとても華やかで、ここでも父は「どう、見てごらん。きれいじゃないの。パパはアーティストだなぁ」と。なかなかのカルパッチオの先には、ついに。母、セバスチャン、私はよし!と悪人どもとの対決に挑むが如く、目の前のプレイトに取り掛かる。ふむふむ、お野菜は、良い。父にしては上出来だ。が。やはりDaddy Chefは私達を裏切らないのである。チキンのソースの、甘いこと。ダイニングルームに響き渡る父の鼻歌。デイヴィッド・ラフィンか何かを歌って上機嫌だ。方や、どう考えても、チキンともアスパラガスとも合わないこの過剰に甘いダークなソースに食が進まないのである。 ご大層な名前のそのチキンのお味を説明するなら、まず「甘い」そして「ただ甘い」母、夫、私の共通する見解は「ハニーの入れ過ぎ」そして良い具合に利けばなかなか美味しかったであろう、ボルサミック・ヴィネガーの酸味がすっかり飛んでしまって、かえって甘さばかりが引き立っていた。そしてワインの火の通し方もイマイチで、アルコールがチキンに浸透してしまっているようだった。いや、私達は皆父を尊敬しているし、彼は話をしてもかなり楽しい人物であるので一緒に食事をするのは大好きだし、決して父を小バカにしようなどとは思っていない。大事な大事な父である。が、どうしても、本当にどうしても父の料理に着いていくのがツライのだ。すると追い討ちを掛けるように父が出て来てこう言うのだ、「さて今夜のお料理はどうかな」この場合、父の中では答えが決まっている。「パパ、最高!」可哀相な私達には、自由な発言権などないのである。なのに続けてこれも必ず言ってしまう、「あのね、正直に言ってね。パパは味見もしてないの。プロ並みとは言え素人だから」そう。父はプロ(だって味見はするしレセピも絵を入れてしっかり書く)気取りで味見もしなければ、ナント残酷なことに、自分は絶対に自分の料理を口にしない。よーし、ここは唯一、父の弱点である私が皆の代表として、この苦悩を訴えてみようではないの。ママ、セバスチャン、私が今、あなた方を自由な味覚の世界へ誘うわ!「そうねぇパパ、イタリアンのディッシュにしては、甘さが強いかも知れないよ」しかし。Daddy Chefは絶対だから、娘の一言も一蹴する。「そりゃそうでしょ。ハニーを使ってるんだから。ハニー(=母)の為にハニーで味付けしてるんでしょ、分かる?」分かる?って、パパ。もう何も言うまい。父の気の済むようにさせるしかない。いや、それはいつもなのだが今夜は母のお祝いだと言うのにこの料理を「美味しいわ、パパ」なんてお世辞と一緒に飲み込まなければならない母が不憫でならなかった。が、とにかくこの場は私達夫婦が何とか乗り越えて、いや盛り上げていくことが何より母の為。可哀相なセバスチャン、「美味しいよ、パパ」と言ったが最後、「そうかね?さすがセバスチャン分かってるなぁ。じゃあYouには特別におかわりね」ええ?それはいくらなんでも酷過ぎるよ。可哀相に、彼の大食を計算に入れて大量に作っておいた「地獄のグリルドチキンなんちゃらソース」をセバスチャンは、私達の倍量平らげなければならなかった。(深夜彼は、大正漢方胃腸薬を飲んでいた。)母と私はこっそり彼に「ごめんね」と手を合わせると、ふにゃけた笑いで「いいのいいの」父の罰ゲーム、いやディナーがようやく終わり、私達が持っていったイチゴのシャーロットとパステルカラーのマカルーンでお楽しみのコーヒー・タイムがやって来た。ケーキの上に載った、ピンクのチョコレイト(甘酸っぱいレモンの風味)でできたカーネイションがそこここに散りばめられ、それをひとつひとつ丁寧にピックすると、父はいちいち「はい、プレゼント」「はい、お嬢さん(みのもんたみたい)」と声を掛けながら母のお皿に移していた。実家に行くと恒例なのだが、ディザートが終わると、ダイニングルームから、普通はリビングルームへ移るのだろうが、我が家では父の書斎へ行く。ここには古いレコードがまるでレコードで壁が作られているくらいに並べてあって、どんなカフェより良い音楽に出会うことができ、良い音楽はコーヒーの味も引き立ててくれる。 そして、この部屋でコーヒーを飲む時のメイン・イベントとなっているのが、老夫婦による彼等の青春物語である。半ば無理やり聞かされるのだがこれ、けっこう楽しい。昨夜は二人のなんと「麻雀談義」だった。今の今まで知らなかったのだが、父に麻雀を教えたのは母なのだと言う。一瞬驚く。何でも母は、子供の頃に中国人の友人家族から伝授されたのだそう。彼女は港区、当時はまだ麻布区と言ったらしいが、麻布で生まれ育っており、実家界隈には各国大使館や外交官の家が立ち並んでいた(今もそう)。そんな環境での少女時代なので話を聞けば納得したわけだが、それにしても少女の雀士?ファンキィである。夫などは「ママのファミリーはマフィアの出身か」と徐に尋ねて爆笑を誘っていた。そして、麻雀の話になると、もう私達夫婦の参加できるパートはない。聞き慣れない中国語?が飛び交う。キャンニャンリャン・シャンピャンリー(こんな風に聞こえた)。何の話をしているのか私達にはひとつも理解ができず、仕方が無いので地獄のディナーのお口直しにお菓子を食べたりしていたが、彼等は一向にお構いなし。セバスチャンが父のコレクションからリトル・ミルトンを選んで二人で踊り狂っていようがいつまでも二人で盛り上がり、時折私に「コーヒーおかわり」娘をウェイトレス代わりにこき使いしまいには「いいねぇ、二人が居てくれると動かなくて助かるわ。毎日母の日だと嬉しいなぁ」といい気になっていた。けれど、私はそんな母ののんきは言葉に、楽しそうに会話する両親の様子に、そして一生懸命彼等の会話に入ろうとするセバスチャンの素直さにも、感謝が溢れ出た。私の幸せの根元はここ、家族にあるのだと再認識できてとても幸せだった。家族は居て当たり前。私は、正直に言うと、母や父がこの世から、私より先にいなくなることなど考えもつかなければ、そんなことは有り得ないと思っている。おそらくそういった現実に対する恐怖からの発想なのだろうが、こんな日でないと家族の有り難味やいつまでも両親と共に笑い合える幸福感など、改めて実感することはできない。しかも成人して、家族という、人が初めてその身を置く小さな社会の外に出れば、新しい社会の中で生き人間関係を築いていくわけだから、そうそう家族を中心に考えることなどできなくなって、家族、殊に親への感謝を伝える機会など激減してしまう。ましてやこの年齢になっても子供の頃と何ら変わらず両親に甘ったれている私だから、普段の分まで思いの強さが押し寄せる。そうか、母の日、父の日は、勿論感謝の日であるわけだけど、家族の絆をもう一度確認する為に設けられた日でもあるのかも知れない。何にせよ、これが今年の母の日で、これが私の、愛すべき母と父である。 Daddy Chefの鼻歌はこれ。 もう踊るほかない私達はこれ。 (Click and enjoy the music videos!) Thank you so much for all your support!
May 10, 2010
気に入って頂けましたらワン・クリックお願いします。「地獄のDaddy Chef登場」昨夕、実家へ母の日のお祝いに行った。私の両親は、70を過ぎているが未だバリバリと仕事をこなしており、この日も父は出張、母は自宅で書きものをしていた。今年は4段のギフト・タワーを作った。うち下3段は食器で、NYから注文していたもの。一番上の小さいボックスは母の好きなマーカサイトのチョーカーを入れた。積み重ねると1メートルにもなったタワーを抱えていく夫は大変だったが母はとても喜んで、「私、ママになれて良かったわ」と言っていた。娘がこんなイイトシ(とは言いたくないが)になってもあんなふうに笑う無邪気(でも実はかなり豪快)な母をとても可愛らしく、またこんな母の娘に生まれてこられて良かったと心から思ったのだった。やがて父が帰って来ると、以前父の会社の人に紹介して頂いたというとても美味しいパン屋さんのパンを両手に一袋ずつ持っていた。一つは両親のもの、もう一つを、セバスチャンと私の好みに合わせて見繕ってくれていた。なかなか行く機会のないお店(でも確か、数年前の全国パン屋さんランキングで1位になった名店)のドイツパンは良い香りで、食事の前に父が一緒に買ってきた冷えたシャンパンを開けてもぐもぐと食べてしまった。ここで私の一言。「ああ残念。何だかおなかがいっぱいになっちゃって、パパのお料理が 入るかな~」これでも私、母と夫に助け舟を出したつもりだったのだ。にも関わらず。「あ、そうだったそうだった、支度しなくちゃ」かえって父のやる気を助長してしまったようで、無駄な努力に終わったどころか母に睨まれた。 そして今夜も恐怖のDaddy Chef、登場である。父は料理が大好きで、世界中の美味しいものを楽しんでいるけれども、何故だろう、いい気になって自分で料理するとこれが、世にも珍しいへなちょこな味に大変身してしまうのだ。なのに必ず、「本格ナニナニ」と言いたがる。母や私は良い。が、文句の言えないセバスチャンは大変だ。しかも、父は大食漢のセバスチャンが大のお気に入りで、二言目には「今度、これを作ったらセバスチャンに食べさせよう」と自慢気に言う。そのたび私は胸が痛むのだ、ああ、夫はまた父の餌食にならねばならぬ。「今夜は、大切な奥様のお祝いですからね、いつも以上に腕を振るいましょ」うわぁ、こりゃエライことになるぞ。母と私は困ったチャン顔でうなだれ、横に座るセバスチャンを見ると、もじもじしながら何かのタイミングを見計らい、"Way to go, daddy!!"(やったぜ、パパ!)無駄な応援などしてみるも、5秒後には意気消沈、俯いて苦笑いしていた。なら言わなきゃいいのに。父が料理をする間、私達はリビングルームで母の描いた絵の品評会をしたり、この日の為に作ったCDを聴いておしゃべりに興じていた。しばらくすると、ダイニングルームからリビングルームへ閃光でも走るような鼻をつく香り、と言うより匂い。どうやらヴィネガーを使っているらしかった。母はセバスチャンに、「セバスチャンごめんね、今日は私文句を言えないわ」大丈夫大丈夫、パパの料理はいつも美味しいよと、絶対に本人の目の前で言ってはならない(けれど必ず全員が言わされる)大賛辞。そうして、とうとうこの時間が来てしまった。父が呼びに来て、私達はすごすごとテーブルに着いた。テーブルには既に見たこともないこげ茶色のディッシュ。これ一体、何? (今夜につづく)母はIndia.Arieで踊る Thank you so much for all your support!
Happy Mother's Day, everyone!! 私もこれから実家でパーティです。9歳の孫より長生きすると 誰もが信じて疑わない、我が家のすご~い母の為に、出張先から 父も大急ぎで戻ってきて、今夜はDaddy Chefが腕を振るう、が この人の料理には当たりはずれがかなりあり、ちょっと心配。 Well, have a warm, wonderful, lovely evening!!! Love, DJ Kennedy
May 9, 2010
こんばんは。 今夜、少々疲れがたまっており、お休みさせていただきます。 オアフ、マナナ・アイランド(通称ラビット・アイランド)の 美しい海に免じて、お許しを。土曜日にお目にかかります。 Sweet dreams, and I'll see you on Saturday. Thank you. Friday,洋楽ランキング9位に入ることができました。 いつもお立ち寄りくださるみなさんのおかげです。 どうもありがとうございます。 また、お気に召したエピソードがございましたら 1票入れてやってください。宜しくお願い致します。 Thank you so much for all your support!
May 7, 2010
大人の恋愛考察 その2Cougar(クーガー)が年下男性と恋をする女性なら、年齢の離れた女性に恋する男性を何と呼ぶか。ANSWER: MantherManther(マンサー)と呼ぶのだそう。クーガーに対してパンサー、人だから、Manサー。少々安直な気がしないでもない。昨年知って驚いた話だが、俳優のMorgan Freeman(73)が2007年に離婚したが、その理由は彼の不倫にあり、その相手というのが45歳年下の何と、義理の孫娘だったと言う。しかも関係は彼女が17歳の時から続いており、今年結婚の予定もあるとか、ないとか。因みにこのニュースは、発表された当時は大変な話題になったが、その後彼のイメージダウンになったからか、今は欧米の検索エンジンに掛けても一向に出てこない。けれどやはり、愛に決まったかたちなどありはしないのである。この世の中にCougarがいるならMantherがいるのは至って自然。二人の間に愛があって、共に人生を謳歌できるなら、こんな幸せなことはない。 友人のオフィーリアは絶世の美女な上に外科医である。一見冷たい印象があるが、内面はなかなか可愛らしい女性で、けれども芯の強い、しっかりしたどうみてもCougarタイプのキャリア・ウーマンだ。勿論、彼女に言い寄る男性は私が数えてみても限りない。私を含む周囲は「私なら結婚するな」と思わず言ってしまうようなイケメンも少なくなかった。けれど昔から、彼女が恋する男性は年上に限られている。それも3歳や5歳ではない。20も30も上の年配者ばかりだ。何を隠そう、現在も80近い、既に現役を退いている元実業家と大恋愛中である。 オフィーリアによれば、二人の仲はとても理に適っているのだそう。まず彼女は、年齢差は全く気にならないと言う。恋をしていれば誰でも二人の障害になるようなことは目に入らない、あるいは考えまいとするところだが、そうではなくて、自分より長く生きてきた、社会性を備え常識的である彼に対してまず、自分にかかる負荷が少ないと思うのだそうだ。何をするにも彼には考えがあるのだろう、と思えると。また、二人でいると、とても穏やかな時を過ごせる。それが時折「ひなたぼっこ」の老夫婦的安定感に感じられることもあることはあるらしいが、彼女にしてみれば、それを「刺激が足りない」などという未熟な発想よりも「良識的な彼らしい時間の過ごし方」と解釈できるのだそうだ。そんな彼女も、さすがに彼の娘達が自分よりも10以上も年上であることには多少の違和感を抱くらしいが、彼女の倍以上も人生の時間を積み重ねてきた彼に尊敬を持てることこそが、今の彼女には誇れる恋心であり、また刺激でもあるという話。彼、ギルにとっても、娘以上に年下の彼女を、当然ではあるけれど、娘などとは考えられないと言う。若くてもしっかりと自分の道を歩いて、また美しさや可愛らしさの見せ方を心得ている彼女に「理想の女性像」を見ていた。そして、年老いていく彼は、そんな彼女と日々を過ごしていく自分に「自信を持たせる努力」を強いることで、甦る若さと生きる喜びを得られている。確かに彼は、彼女と知り合った頃よりずっと、本当に20歳は若く見えるようになった。一緒にいて釣り合うように、なんて安っぽい考え方ではなく、生きているうちは年齢に関係なく、互いを高め合い、喜びを分かち合うことに彼女も自分と同じだけ心を傾けてくれているという自信と、彼女への信頼感が彼の細胞を活性化させているのだ。 勿論、お互いの向上心を育て合う関係は年齢の近いカップルにだって出来得ることで、要は愛を以って互い上昇気流に乗せていくことに「老い」など障害にならないということ。それどころか、Cougar LoveにしてもManther Loveにしても、一方が社会常識を備えている限り、相手を教育的指導することも可能であり、また相手が若いことで得られる鮮度の良い愛もあり、同世代同士の恋愛にはない、濃密な関係を築けそうである。人生が80年として、人は何度、どのような恋をするのだろう。以前、初歩医学の講義で「人の免疫力は恋愛をするとしないとでは格段に差が出る」という話を聞いたことがある。恋をしている時、特に恋をし立ての頃は、予想もつかないほどのエナジーが生まれる。誰かを愛するようになると、美しいものをより愛でることができるようになるし、物事に対する活力も絶え間ない。痩せることだっていとも簡単にできてしまう。大学での話のように、恋が健康に生きていく為のサプリメントになるならば尚更、老いも若きもすべきもの。オフィーリアを羨ましく思う辺り、私にはどうやら強力なコラーゲン系恋愛が必要な気がするが、さて私には、そんなチャンスが巡ってくるのだろうか。 Harmony of Love (Click and enjoy the music videos!) Thank you so much for all your support!
May 2, 2010
Good evening. いつも足を運んでくださって、ありがとうございます。昨夜9時前に急な来客があり、それから連れ出されて帰って来ると午前3時。アップデイトができませんでした。どんよりと今日の空のように過ごしていてもと思い立ち、ジムでリフレッシュしてきましたら、もうこんな時間。ということで、ディナーの前にちょっとおしゃべりでも。香りが思い出させてくれることってとても多い。そういう理由で、私は毎朝Perfumeを選ぶのが楽しいし、アロマエッセンスは勿論、ディフューザーも、そして日本でも人気のYankee Candleも常備している。 男性のPerfumeも嫌いではない。街角ですれ違う男性の香りにふと昔の恋人を思い出したりもする。学生時代に他大学への編入が決まって別れた恋人が恋しくて、彼の身につけていたGucciを部屋に置いていたこともあった。香りは、出会うたびに思い出を連れてくる。ややもすると若い頃の父を思い出したりもして楽しいものだ。昨日、書店でMy Birthday Bookという可愛い本を見つけた。1月1日から、2月29日を含んだ12月31日までの日が1冊の本になっている。小さくてスクウェアで、シンプルな色使いは外国の絵本のようだ。プレゼントしても喜んでもらえそう。内容は、基本的な性格や家庭運、恋愛運。血液型別性格分析、同じ日に生まれた人。私と誕生日が同じ人、現在のイギリス女王以外には誰も知っている人はいなかった。占いに関心がないと言いながらなかなか気に入ってしまっているのは、思い当たるふしがあるからなのかも知れない。その中に、「ラッキー・アロマ」を紹介しているページがあった。私のラッキー・アロマは、ペパーミント、レモンとカンファー。カンファー?それにしても、私の為のラッキー・アロマの説明にやたら出て来る「スッと」「ピリッと」「ハッキリと」「フレッシュ」「すがすがしい」これがどうも気に掛かる。私に必要なのはキリッとスッとピリッとフレッシュなものなのか。どうも解せない。勿論レモンもミントも大好きな香りだけれど、私はローズとかガーディニアとか、フローラルな香りも大好きなのに。そこでセバスチャンに尋ねてみたところ、メガネの真ん中をすっと指で上げて分かりきったことを、と笑うのだ。「そうその通り。Youに必要なのはキリッとスッとピリッとフレッシュなレモンハーヴね」私がポワンとぼんやりふにゃけていると言いたいのか。セバスチャンの発言同様、急にこの本に異議を申し立てたくなる。因みに、この本は他のページもまだまだワンダーランドだった。例えば、ラッキー・カラー 水菜の緑 ホントは何色?ラッキー・フード ライスバーガー 食べたことない。ラッキー・プレイス 川の上流 行けと言うの?住めと言うの?ここでもう「なんかめちゃくちゃ」 ところが最後の「ラッキー・イニシャル」=G YES!!!「あ、Gだ、Al GreenのGだ!」初恋の人、Alとの出会いはやはり運命なのだった。それはそうよ、子供の頃から嬉しい時も悲しい時も、いつも一緒だった音楽なのだから。生まれ月も同じだし。私って超ラッキー。すっかり上機嫌でライスバーガーでも探すかと思うあたり、やはりセバスチャンの言うように、私には少しキリッとピリッとしたレモン・ハーヴが必要なようだ、と思えば、さっき「カンファー」を調べたところこれ、タンスにゴン、の樟脳?の成分なのだそうだ。そんな匂いはイヤ。でもテンション上がったり下がったり、さぞセバスチャンも迷惑だろう。タンスにゴンでモビールでも作ったら、少しはキリッとピリッとするだろうか。やはり運命の人(と永遠に思い込む)、My Al. (Click and enjoy Al's music!)にほんブログ村Thank you so much for all your support!
April 20, 2010
学生時代の友人Eveは香港からの留学生で、強風にも靡かないのではないかってくらいにキッチリとキマッたカールがシンボルの絶世の美女だ。お父上が外交官で、子供の頃には東京に住んでいたこともあると言い、普段は英語で話をするが、日本人の居るパーティなどに行くと見事な日本語を披露している。私はアメリカとヨーロッパしか知らないし、日本以外のアジアの国々へは行ったことがない。香港の印象はEveからのインフォメイションが95%、残りの5%はあの、Bruce Leeの映画によるものと、実に乏しいものだった。私は本当に、香港では街のそこここで「ワチャー」と声を上げて団体Kung Fooをしているのだと思っていた。Bruce Leeの最後の映画の1シーンだったと思う。あまりに貧弱な私の情報。 こうした建物に衝撃を受けたSebastian 何故かこの種類の写真ばかり30枚も撮ってあるEveが、友人を救った「名誉」と称してよく(無理やり)見せてくれた右腕の傷と、そのファンキーな武勇伝が「ちょっと危険な街、香港」という私に要らぬ恐怖感を与えていたのだ。スプラッター・ホラーや過剰なヴァイオレンスが私は苦手なのであまり突っ込んだ話を私にしないでくれと頼み、横目で「子供ね」と笑われながら、その瞳がまた、香港=Underground Madnessなどという強引な先入観を持たせることになってしまった。Bruce Leeよりも、Jackie Chengを観ておくんだった。 そうして随分と時間が経ち、日本に来て程なくここ(ブログ)で、私の香港感を払拭してくれる女性に出会う。彼女は、香港在住のJunpeiさん。Cafe Bleu @ Hong Kongという楽しいブログを運営されている。彼女は毎日の生活もブログ更新も実に精力的にこなしておられ、素晴らしい「遊び人っぷり」を世界中に発信されている。彼女の香港情報は、香港を知らない私のような者にはとても新鮮で刺激的に、またお住まいの方達には重要なブリテンボードとしての存在であって、香港情報ランキング上位に君臨しておられるのも頷ける。私も毎日楽しみにお伺いしているのだ。最近彼女に伺ったお話によると、香港はChina Borderから離れていれば、治安のとても良いところなのだそうだ。そのことを知って私はだいぶ安心し今朝、目下ご主人の海外赴任でドバイに住んでいるEveに電話をしてみた。そして当時の話をしたところ、あの頃とは全く違う明るく済んだ声で、「いやねぇ、何年経ったと思ってるのよ、腕の傷だって消えたわよ」そう高らかと笑っていた。ご主人は、あの頃話していたギャングチックな男の子とは似ても似つかぬタイプの、温厚な銀行家なのだそうだ。「今頃はあなたの方がファンキーよ」 そうも付け加えられた。一頻り話して電話を切ると、あの頃抱いていた香港のイメージが消えて行き、今のEveとJunpeiさんの仰る現在の香港が重なった。私にとっての、新生香港の誕生。 我が家では、彼女に敬意を表してMadame Hong Kongと呼ばせて頂いている。彼女はよく、ライヴハウスで夜を過ごしていらっしゃるが、先日のブログで取り上げてらしたHugh PoolというミュージシャンがNew Yorkを拠点に活動していると知ることができたのも喜びになった。Hugh Poolは1964年生まれのギタリストで、音楽スタイルがとてもユニークなのだそうだ。様々なアーティストとの関わり合いが今の彼の音楽に息づいているように感じられる。ベースにあるのはFolk Rockかな、と思うのだが、熱くて重ためのライヴと、後で見せる優しい笑顔のギャップが彼の魅力の深さを物語っていると思った。こうして彼女との出会いのおかげで、怖い香港が楽しい香港になり、危ないEveがハッピーなEveになり、そしてHughの話によって香港とNYも繋がった。人の縁というのは、とても不思議で素敵なものだ。 日本に来てから、セバスチャンが1度香港へ出張したが、街の活気に驚いたと帰って来て話していた。そう言えばNYも、チャイナタウンはいつも元気で忙しい。また、香港は中国各地とは全く違い、とても開放的な気風を持っていると言う。香港には、近頃私達が失いかけている、元来私達のシグニチャアでもある「遊び人魂」が溢れているのだと。この彼の言葉も、ようやく今、信じられる。(それではまるで、普段私が夫の言葉を全く信用していないように聞こえるが まぁ、そんなことはない、あまり)彼曰く、「自分達の遊び方は身についてても、ここでの遊び方を覚えていない」のだそうだ。こことは勿論、東京である。確かにそうかも知れない。深夜の香港、ライヴハウスで飛び入り参加のシャウトを楽しむJunpeiさんの姿に私は久々、遊びに夢中になれる大人を見た。 これを食べてNYに帰りたくなったSebastian あと数年で私はNYへ戻る。それまでにもっともっと、日本を楽しみたいもの。せっかくここで暮らすチャンスを得ているのだから、日本らしい遊びを覚えたい。差し当たって、明日はまた、散ってしまう前のお花見にでも繰り出すとするか。尤もセバスチャンと私の花見では、「上野事件」がまた起きぬとも限らない。どうやら私の東京生活、珍道中のまま終わるような予感、あり。今夜はMadame Hong Kong、普段とは違う嗜好の夜を過ごされるのだそう。何でも、ラーメンとブルースのコラボレイションなんですって。香港はどうやら、音楽と食、しかもアメリカ生まれのDeepな音楽と中華料理を一体化させてしまうものすごいパワーを持ったワンダーランドのようだ。彼女のリポートを楽しみに待ちたい。Sending A Little Love to Hugh Pool & Madame Hong Kong (Click and enjoy the music videos!)にほんブログ村Thank you so much for all your support!
April 10, 2010
少女時代の私は、自転車で丘の上からバス通りに向かって滑降したり、その丘のてっぺんの大木に友人全員のジャンピング・ロープを繋げて結わきつけ崖の上から垂らし、ご丁寧にもその丘を階段を使って降りるとロープが垂れている丘の麓まで歩いて行き、ロープを伝ってクライミングする探検家タイプ、と思いきやそんな遊びをしながらも自転車のバスケットにはいつも百科事典を入れておくような不可解な面もあり、母は将来を憂いていたと今も話す(今現在も憂いているのだと強調する)。私が宇宙に興味を持ったのは8歳。クリスマスに父がテレスコープを買ってくれたのが始まりだ。8歳の、しかも娘に?という父のすることに父娘のDNAを感じずにはいられない。父方に、宇宙飛行士になりたくて天文学を勉強しながら惜しくもその夢を断たれて仕方なく医師になったという変り種の従兄がいる。当時大学への通学の為に彼は我が家に下宿しており、そんな理由もあって父はテレスコープをプレゼントしてくれたのだと思うのだが、とにかく8歳の小娘にハンドルできるはずもない大きな筒を無限に広がる夢の入り口に変えてくれたのが、彼だった。 ある夜、彼が大学から帰るといつものように夜空散歩をねだり、食事を済ませると、彼が天体望遠鏡を抱えて見晴らしの良い近くの公園まで歩いていった。その道中に話してくれるギリシャ神話も、私は大好きだった。公園に着くとテレスコープを設置して、いつも最初に見せてもらう月を彼は探す。私の中でしっかりと、月が一番近い星であることを彼との観察で認識できたのだから父に買ってもらったテレスコープはそれだけでも役割を果たしたと思われる。最初に彼が「月を見せてあげようね」と言ってくれた時、月にクレイターがあることだけは知っていてもそこは子供、私はレモンイエローでツルツルした表面の三日月を想像した。どんなにきれいだろう。思わず子供のくせにMoon Riverを口ずさむ。私はなかなか枯れた少女なのだった。「のぞいてごらん」 さぁ、月とのご対面。当然のことながら、想像と現実の格差に夢打ち砕かれる。「なんだか少し、ドライだね」が最初の言葉と記憶している。ひどく乾燥して見えたのだ。それでも地球と月の距離感は、詳細まで見える月の表面で察しがつき、いつか遊びに行かれるものと信じていた。 そこからは彼があれこれと操作して、その時に見えたものを説明を交えて観察させてもらっていた。小さく渦巻くギャラクシィが点在しているのも見えた。1時間程経った時、彼が「おおー!」と声を上げた。「ほら、ほら、見てごらん!」その声だけで私は相当に興奮し、かえって筒の中を覗き込むのが躊躇われたくらいだったが、おっかなびっくり近付き右目を当てるとそこには、ぽっかり浮かんだようなドーナツ型の星が見える。生まれて初めて見るサターン。 私の天体望遠鏡は色がなくB/Wだったので色までは勿論確認することが適わず、そのうちにTVで色のついた土星を映し出した時には心が躍った。土星は球というより少し歪んで見え、それを覆う輪は百科事典で見るものと全く同じだった。彼も相当に喜んでおり、調子よく「よーし、僕がそのうち宇宙飛行士になって、土星をお土産に持って帰って来よう」そんなことまで言っていた。当時私は本気にしていた。8歳の子供には刺激が強過ぎたらしい。私はその晩眠れず鼻血を出した。絶対に辿り着くことのできない場所にあるものが、あんなに近くに見えること、まるであの筒の中に入っているような錯覚がたまらなかった。そして頭に血が上ったのに乗じて、幼いながらに新たな野望に燃えたのだ。「太陽系を制覇する」 宇宙のことをたくさん知って「太陽系を制覇する」人になりたいと、強烈な経験により鼻栓を強いられたこの夜がきっかけになって強く思うようになる。勿論、夢は儚くもシャボン玉の如く、かなり早い段階でこわれて消えるのだが。私はこの従兄が大好きで、将来は彼かAl Greenと結婚すると思っていた。実際に隣にいるのが「コロナと熱燗ぶちまけ屋」セバスチャンになろうとは、あの頃の私は思いもしない。山崎さんは今頃、どの辺りを飛んでいるのだろう。明日は、スペースシャトルのお話を。おやすみなさい。For your sweet dreams. (Click and enjoy the music videos!)Moon River by Audrey Hepburnにほんブログ村Thank you so much for all your support!
April 5, 2010
昨日、「Jakeが亡くなったんだ」と父から電話があった。父の親友だ。彼は私にもたくさんの思い出をくれた人だった。この人を、私は子供の頃から父と"Mr. Mellow-Hello"と呼んでいた。彼の「こんにちは」の声はまるで歌うようにスムースで甘かったのだ。3つの私もなんだか少し恥らってしまうくらい、本当に素敵な声だった。 素敵なのは勿論「こんにちは」だけではなかった。歌声がこの、Perry Comoにとてもよく似て美しかった。Jakeは時折、父と一緒に帰って来ては眠っている4歳の私をゆり起こし、父とブランディを飲みながら、目をこすりこすりの私にピアノの伴奏をさせて歌うのが好きだった。こちらにしてみれば迷惑な話だったけれど、でも一度その声を聴くなり子供ながらにどこか光の暖かいラウンジにでもいるような気持ちになったものだ。ムーディな歌声に、キッチンから母も出て来て「今日も絶好調ね」とJakeの小さなディナー・ショーに酔いしれる。やがて彼と父が肩を組んで一緒に歌い始めるのだが、これがひどいものなのだ。Perry ComoのステージにJames Brownが無理やり上がり妨害しているような感覚だ。いやJ.B.は私だって大好きだし、父をJ.B.に例えれば父も嫌な気はしまい。けれど、どうにも聴いていられない、ハーモニィもへったくれもあったものではない。母と一緒になって「パパ、やめて!」"Boooo! Booooo!" Jakeはこの時実はすっかり、Perry Comoになりきっている。乗り移ったと言っても良いくらいに、何だか振る舞いや視線すら変わってくる。母が料理を取り分けて彼に手渡せば、"Thank you, madam"と言って母の手にキスをしたり、とうとう睡魔に負けそうな私を抱いてベッドまで連れていくと、ベッドサイドに座ってPerry Comoの(本当は違うけど)"Ave Maria"を子守唄に、得意のイタリア語で歌ってくれた。そんな幸せな思い出が、記憶を手繰り寄せればまだまだたくさんある。3つでピアノを始めてから、ひたすらクラッシックを耳に馴染ませてきた私に様々な音楽の世界を教えてくれたのも、ピアノを離れればAl Greenばかり聴いていた私にスタンダードの美しさを教えてくれたのも、私が出会った音楽の専門家達ではなく、他ならぬJakeだった。父の電話の向こうで、70年代にJakeと父が一緒に買ったレコードがかかっていた。「パパ、あの頃のアルバムだね」 父は「もう一度ここで歌わせたいなぁ」そしてPerry Comoの歌声に向かってこう言った。「君の曲だぞ、Jake.いてもたってもおられずに戻ってきてるんだろう。さぁ歌え」Tribute to my "Mr. Mellow-Hello" 私の子守唄にほんブログ村Thank you so much for all your support!
March 28, 2010
3月8日はInternational Women's Day(国際女性デイ)。1904年3月8日ニューヨークで女性労働者による婦人参政権要求のデモンストレイションが起きたことによりドイツの「女性解放の母」と謳われた社会主義運動家クララ・ツェトキンが1910年、デンマークで行われた社会主義の国際会議で、女性の地位向上などを掲げる記念日にしようと勧め、その後世界各地で女性解放運動やそれに纏わる事件などが起きたことを受けて1975年、国連がInternational Women's Dayと定めたと言う。もともと政治色の強い記念日として続いてきたのが、近年では柔らかく「女性に感謝する日」として、この日、女性に春の花束を贈るなどしてお祝いされることが多くなったという話。イタリィでは、ミモザのブーケを贈る習慣があると言う。今や女性には嬉しいこのホリデイに、オスカー始まって以来初の女性監督の監督賞受賞が実現した。プレゼンターに現れたBarbra Streisandも「ついにこの時が来た」といった言葉を彼女の名前を読み上げる前に告げていた。今日はお昼過ぎから仕事の手を休めて、というよりむしろほったらかしでアカデミー賞の授賞式を、Twitterを同時に追いながらオンラインのストリーミングで観ていて、改めて美しい女性達の輝かしい活躍ぶりに感激だった。Bigelow監督の受賞の他に感動したのは、主演女優賞候補者の推薦人?として出て来た5人のうち、久し振りにその顔をみたOprah Winfreyだった。彼女は、Preciousに主演したGabourey Sidibeを彼女らしい素敵な言葉で見事に讃えていた。彼女の説得力のある言葉といつもながらの逞しさは、横に並ぶセレブリティを圧倒していた。彼女のオーラは、人に訴えかける強い心が発するものだとはっきり見える。短いスピーチでも、改めて彼女への憧れが強くなった。そして今日はまた、彼女は良いシェイプだった。Twitterでは、其々の賞が発表になるたびにアップされる著名人の感想がなかなか面白くて、日本にはまだノミネイトされていた映画の殆どが来ていないことから、次に観る映画を選ぶ良い参考になった。どの映画もまだ観てはいないが、Best PictureのHurt Lockerは今、全世界の人々が一度は観るべき作品なのだろうと、様々な評論を読んで思った。TVのニュースショーなどではやたらと「元夫婦の賞取りバトル」「元夫婦のどちらに軍配が」と下卑た取り上げ方で盛り上げておりいささか閉口したけれども、式前のインタビューでJames Cameronが、「同じ仕事をして来た者同士、彼女のことは良くわかっている。だから彼女が受賞したなら、それはとても素晴らしい」と話していた。どうせなら、こちらを取り上げた方が報道としてもずっとかっこいいのに、そう思ったのは私だけだろうか。 その年によって、観たいなと思える映画が全くない場合もある。仲間うちでは、Titanicが空前の大ヒットとなった1997年が最近の中では一番映画が良かったと話している。いや、Titanic自体は話題には上らないのだが。因みにその年に上映された映画の中で私が最も好きだったのはL.A. Confidentialだ。他にはGood Will Hunting, As Good As It Gets。オスカーの作品賞には関わらなくてもFace/Off、Jim CarreyのLiar Liarも好きな映画のひとつ。娯楽映画としての優秀作品。そして、当時仕事場で一番の話題だったのはあのThe Full Montyだった。ここ数年実は、あまり授賞式の後で興味をそそられた映画がなかったのだが、今年は久々に、ちゃんと映画館へ行ってじっくり観たいと思った。まず最初にやはり、Best Pictureを獲ったHurt Lockerを、そして次にはJeff BridgesがBest Actorを獲ったCrazy Heartを観に行こう。今年のNominated Filmsは、なるべく多く観よう。国際女性デイが実にタイミングの良いアカデミー賞授与式だった。日付が変わって、今日はアメリカがInternational Women's Day。うちのセバスチャンに限っては、今朝食事をしながら、「イタリィではミモザを、ロシアではチューリップを女性に贈るらしい」と話していたのに、本人は私に気遣ってくれたつもりなのであろうが、実際持ち帰ったのは桜の枝であった。しかも、「これ、何の花?」1997年には、彼女達が大活躍。 (Click and enjoy the music videos!)にほんブログ村Thank you so much for all your support!
March 8, 2010
今日は随分と春めいて、お昼頃スウェターのまま公園を歩くと、まだまだ冬の香りの冷たい風もかえって額に心地良かった。先週、夫が帰るなりコートのポケットから「こんなもの見つけたからあげる」この何だか見た目不確かなもの、ミュージックバルーンという名前。既に人気商品となっているのだそうだが、私は全く知らなかった。 丸いボールの部分がスピーカーになっていて、ポータブル・ミュージック・ディバイスや携帯電話に繋いで音楽を聴くのだと言う。おもちゃっぽい。いや本当におもちゃかも。「お外に音楽を解放しましょ」という謳い文句に、夫もどこで聞いてきたのか「最近は、イアフォンで聴くよりこっちがおしゃれらしいよ」と鼻を膨らませていい気になっていたので最初のうちは話半分に聞いていたがこの、どこから流れてくるのか定かでない、ふわっと聞こえてくる感覚はなかなか悪くない。音質の良さを求めるならいくらでも良いスピーカーはあるしやはりイアフォンの密室状態には敵うはずもなかろうが、周囲の迷惑にならない程度にそよ風に吹かれて音楽を楽しむ、これは今年の「春の過ごし方」定番になりそうな気配。さて、春の足音が微かに聞こえるこんな陽気の日が来ると、桜が散る頃までSoft Rockの良いのが聴きたくなる、という話を音楽&旧ラジオ仲間とした。そこで今夜から桜満開の4月に向かって、DJ Kennedyと愉快なロック野郎達の選ぶ、春に聴きたいNYスタイルSoft Rock集をお届けします。第1回の今夜は、こちら。 そうそう、今日の午後、港区内の公園で音の出る赤いボールを首から提げ鼻を膨らませたグレイのスウェターを見かけられた方はそれ、私です。にほんブログ村Thank you so much for all your support!
February 23, 2010
先週、インフルエンザでもないのに高熱を出して1週間まるまる棒に振った。その折音楽仲間Randyからのメイルの返事に「熱があるから長いメイルはムリ」そう伝えるとすぐにIMに入って、「何か僕にできることはない?」と尋ねてくれた。私はふと「Al Greenが聴きたいなぁ」すると彼は、「かわいそうに。分かった、2時間待って、用意するから」約束通り2時間後、彼はAl Greenの中でも私の好きな曲をファイルして送ってくれた。彼の作ってくれたコレクションのおかげで、昼寝のきらいな私も1日良い気分で横になっていられた。翌日、そのことを彼に告げると、「音楽は、どんな風にでも人に影響を与えることができる。愛を注ぎ込むこともできれば、少しの幸せを感じさせることもできる。弱っている人の心や体を癒すことだってできるんだから、ほんとにすごいと思わない?」音楽に人生を捧げている彼の、濁りのない心が見えるような素敵な言葉だと思った。一昨日、「病気と私とAl Green」という作文(ただのメイル)を彼に送った。Al Greenを知ったのは、本当にまだ小さい頃のこと。父の書斎の横に私の部屋があり、私が高い熱を出して寝ていると、壁の向こうから微かに聞こえて来たのが彼の歌だった。勿論その時は誰が歌っているのかなど知らなかった。熱にうなされると悪い夢を見ることがあったが、この時はあのシームレスな甘い声と美しいメロディが心地良くて、怖い思いもせずに済んだのを後日父に話すとそれ以来、私が病気をするたびに父は彼のアルバムを流してくれるようになった。ある年のクリスマス、はしかにかかった時も、プレゼントは彼のアルバムだった。こうなるとプレゼントじゃない。お守りだ。彼のライヴに行ったのはだいぶ後になってからだが、その時はもう本気で厄払い、ではなく一生病気はしないだろうと思ったものだ。Al Greenは言わずと知れた、70年代を飾ったソウルミュージックの大スターだが、人気絶頂の1974年、以前の恋人が彼の家に侵入し、入浴中の彼に熱湯を浴びせて大やけどを負わせた。彼女はその後彼の拳銃で自殺を図った。それからAlは、これを神の導きと信じて一線を退き、牧師としての道を歩み始める。その後復帰したが曲は売れず、更にはコンサートでステージから転倒する事故に遭い、またも牧師へ復職した。それからゴスペルを中心に歌いながら、1988年に"Put A Little Love In Your Heart"でR&B界への復帰を果たし、現在は若いアーティストとのデュエットなども歌っている。彼の人生は波乱に満ちて、時折その才能や名声が大海原を颯爽と走って行く彼のじゃまをする。けれどその都度自分を見つめ直しては帆を直し、また海へと戻って来た。どんな海を渡っても、歌うことを忘れないでいてくれたことに私は本当に感謝している。Randyの言うように、心も体も癒してくれる音楽に出会える幸運を与えてくれた人だもの。Randyから今朝メイルの返事が届いて、「僕はパパ代わりか」と言い捨てられた。男性は、相手が例え友達でも「パパ代わり」はイヤなのだろうか。今夜は、Randyの作ってくれたコレクションから一部、初期のヒット曲を。 (Click and enjoy the music videos!)にほんブログ村Thank you so much for all your support!
February 22, 2010
Close The Door / Teddy PendergrassIf You Don't Know Me By Now / Harold Melvin & The Blue Notes彼の歌は、父の書斎からアルバムを引っ張り出してよく聴いた。まだ少女だった私には大人の恋などひとつまみも分からなかったが、レコードが回り始めるとどことなく、開けてはならない扉の前に立ったような、今でこそ理解のできる、官能という名の感覚を少し、眠りを誘われるような気分で感じていた。Philly Soulを代表するHarold Melvin & The Blue Notes時代の"If You Don't Know MeBy Now"には虚ろう心を、Soloになってからの"Close The Door""Turn Off The Lights"には寝室の恋を教えられた。I Love Youの言葉がいくつもの意味を持つことも。Sexyで、でも決して品格を損なうことのない、イイ女を知る大人の男性。言葉は悪いが、「子宮で聴くSoul」と私の母は言った。彼を愛する多くの女性も頷くに違いない。Lyrics自体ではなくて、MoodyなTunesや彼から漂う男性的な優しさ、包容力が世界中の女性の心を燃やし、溶かした。彼は今永遠になって、この世の女性にひとつ幸運を残してくれた。彼の声を聴く限り、見続けられる夢。彼の指が背中を撫でてくれる、甘い夢を。R.I.P. to you, Handsome.
January 14, 2010