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![]() ![]() マークをクリックするとブルーリボン運動のページへリンクします。 こんにちは、京都にあるやきもの工房生畑皿山窯の陶工 前野直史です。 やきもの暮らしの様々を綴っています。 ![]() つちをみる 開扉 うつくしいものさがします やきものをつくろう Broken English Here 生畑皿山へメールを送る 迷惑メール対策のためご面倒ですが◎を@に直して送信して下さい。 生畑通信 [全1230件]
かつては地方固有の多種多様なやきものの技術体系が存在していたことは今に残された当時の品物を見ればはっきりしたことですが、今では地域間の交流が進みまた大学や専門校で学び、あるいは雑誌やネットなどから学んで独学でやきものに取り組む人も増えてくるなかでだんだんとそれは公約数的なものへと収斂していっているように感じます。つまりはこういうある意味自由な時代に個人個人が自由な立場でやきものに取り組んでいるようでいて、現実には一見色やかたちは違うもののその陶磁器としての骨格のところに目をやればそれを支えている技術の基盤はあんがい劃一的で似たようなものであり、かえって無個性なものになりつつあるようにも思うのです。 問題は作り手の側だけではないのでしょう。あるいは別の視点から言うならば、特にこういう事情の中でものが作られている現代では作り手というのもただ普通の意味での作家だけではなく使い手やそれを扱うお店や情報を紹介する雑誌などのメディアも含めてそういう全体で作っているのだと言ってもよいでしょう。使い手にとってもまた情報の共有は国さえ越えていますし、長距離輸送があたりまえである現代にあっては地域差よりもむしろ時々の流行に左右されて同じようなものを求めるきらいがあるようにも思われます。 画一的な工業製品の中でそのアンチテーゼとして出て来たのでしょうあの嫌みなくらいに手作り感を強調した桃山風のでこぼこ趣味の穴窯焼き締めのものがようやく流行らなくなったと思えば、次には白磁が流行ってうつわのお店は白磁だらけ、白デルフトが脚光を浴びればああいう白無地の作家が増えて、スリップウェアが流行れば今度はそんなものばかりが脚光を浴びるというようなことです。そんなふうに流行が消費されているのはうつわの世界も他の多くの商品と変わりはないのです。 土地に固有の陶脈を受けていない立場の作陶家は外とのつながりが遮断されていない限りはそういう流行の中に在らざるを得ないのです。流行に乗らないで自分の好きなものを求めるという姿勢もまた非常に現代的で、そういう在り方自体がひとつの大きな潮流であることは言うまでもありません。流行というのはそこに時代の必然性はあっても根っこが無い。 ぼく自身はそういう中でさえ何百人にひとりの窯からでもいつか良いものが生まれてくることを信じていますし、自分自身も少しでも良いものをとは願っています。 しかし一方だからこそ土地固有の古い技術を受け継ぎえる立場にある人たちはぜひそれを大切に守って次代へと受け継いでいって欲しいのです。自分の仕事が一万年も前からの縄文以来の伝統を未来へと繋ぐ大切な過程なのだという歓びを自覚してほしいのです。やきものの作り手も現代にこれを痩せ細らせてしまってはいけないという責任を感じてほしいのです。 もっとはっきりと具体的に言うならば最初から簡単に京都の学校に行って轆轤を学んではいけないと、そういうふうなことです。自分が知る限りはあれは洗練されたひとつのやり方ではあってもその洗練の過程で抜け落ちあるいは切り捨てたことの中にはうつくしいものの誕生にとっては代えがたい必然性のある技術体系が多々含まれており、また将来の日本の陶磁器をより豊かで多彩なものにするはずの無限の可能性があるのです。それなのにそこを出発点にするということは、すなはち先祖伝来の財産を最初っから捨てさるということなのです。 他から新しいことを学ぶことも、より合理的なほうへと進むのももちろんただ批判すべきことではないとは思うのですが、他からの知識や技術を受け入れる前に身につけた確たる自我を持ち得ないならばそれらを相対化して理解し受容することは出来ません。 今までの非常に豊かなやきもの文化を支えていた多種多様な技術体系が洗練されてはいても痩せっぽっちなものへと一本化されてゆくことに大いに疑問があるのです。新庄、楢岡、小久慈、信楽、丹波、母里、小鹿田、多々良、小代、薩摩、壺屋、などなどほかにもまだまだいくらでも日本各地にはそれぞれほんとうに素晴らしいやきものをこしらえてきた土地があります。こういうところのやきものを支えた技術は現代の学校で教わるような陶芸課程からは既に失われたものなのです。それはしばしば時代遅れなものになりつつあるでしょうが、同時にまだまだ将来に受け継いで活かすべき内容があると思うのです。情報の中核であるマスコミの方も、優れたものを選び出し使い手へと紹介するうつわ屋さんの方も、うつくしいものに出会いたいと願う使い手の方も、もちろん作り手の方も、どうか今にも失われようとしているそういうものにもっともっと目を向けて下さい。そして気が付けば何か行動を起こしてほしいのです。こんなことは一介の作り手である自分のような立場のものが言うようなことでもないという批判もあるでしょうが、こういう危機的な状況である以上は言っておかねばならない責任があります。 また同時に、これはぼく自身もそうですが伝統工芸の受け継ぎ手ではない立場で何かうつくしいものに魅かれて仕事をする人はぜひそのものが生れてきた背景にも注目して失われようとする技術を再評価し、またすでに失われた技術を掘り起こして新しい時代に甦らせて欲しいのです。民族の歴史や土地の暮らしとそれぞれの製陶技法や固有の原料を両親としてやきものは産まれてきました。そういうことを抜きにしていったん失われたものをそのまま取り返すのはなかなか困難なことですが、個人個人が陶芸というようなものに打ち込める現代であればこそ、それも同じかたちではないにせよ決して不可能なことではありません。作陶家というのは過去の作品をなぞることによってその生産過程を追体験することが出来ます。そしてそこから歴史や暮らしぶりや技法の陶脈や原料の種類まで想いを馳せることは出来るはずです。それは必ずしも完全なものではないにしても、さらにそれを修正しながらより確実なものへと仕上げてゆくことが出来るのです。 過去の技術は価値の無いものではないし、またそれを守り伝えることはやりがいのある仕事です。工芸は偶然の所産ではなく長い歴史を積み重ねた技術の上にこそ成り立っています。 例えば日本には朝鮮時代のやきものを愛する人は少なくないのですが、明治政府の朝鮮総督府による朝鮮半島統治に端を発していまなおひとつの民族がふたつの国に分断されているという不幸な現実や、日本との間にある政治的あるいは人道的な様々な問題についてまるでこころを痛めることも無く無関心でいる愛陶家や作陶家を自分は信頼しません。朝鮮のやきものがうつくしいと感じたならば、それがどのようにして産まれて来たのかということは考えられなければならない問題です。それを産みだした土地や民族に対する敬念が無いならばそれは想像力の欠如と言わざるを得ないでしょう。 またぼく自身がそうであるようにスリップウェアを学ぼうとするならば、美術館や個人の所蔵するスリップウェア自体はいうまでもなく、陶片や出版物などの資料、何人かの情報を交換しあえる研究者や作陶家や愛陶家の先達や友人たち、それにまた未だ出会ってはいない未知の友人たちもきっと少なくないことと思います。スリップウェアの縁で繋がる人たちはあの美の世界を知っている以上はそれを将来に繋げたくないわけは無いのです。どこでどういう人たちによってどのように産みだされそれがどのように使われていたのかということに想いを巡らせることは出来ないわけが無いのです。 そういうことの積み重ねはきっとやきものの成立をより立体的に実感させてくれることでしょう。そこで見えてきたことをただそのまま再現するかどうかというのはまた別の話しです。当たり前のように言われることですが、伝統というのは絶えず新しく作り続けられるものなのです。いったん受け取ったものは捨てようとしても捨て切れない、忘れようとしても忘れることは出来ない、そういう身体にしっかりと入り込むものなのです。 朝鮮の盌と同じものを焼く、英国のスリップウェアと見分けがつかないものを作る、それは確かにうつくしいでしょうし技術者である作陶家にとってはなんとも魅力的なことには違いないのですが、それが成立するだけの必然性も存在意義もすでに当時の彼の地とは全く違うものなのです。そこでやきものの色つやかたちだけが同じものを作ると、仮にもしそういうことができるとしてもそんなことに果たしてどれだけ意味があるのでしょうか。現代の状況の中でただ精一杯誤摩化しの無い仕事をすることが大切なことではないかとただそのように想うのです。 別にこれはやきもの作りに限ったことではないのですがどのような言動や行為であれ自分自身をよりよく成長させないならば価値はありません。さらには他者を認め尊敬し多様な価値を受容したら他我の境を越えてすべてを清浄なものにして返さないのならば生きている意味が無い。真面目に一生懸命取り組むということそれ自体が個人の人生で、個人の生涯が民族の歴史の欠かせないひと駒で、民族の歴史が人類の宝物であるというようなことを自分は信じています。日々両手で抱きくちづけしているその御飯茶盌がうつくしいものであるということにはただそれだけにとどまらない意味があるはずだと想っています。だからこそこの釉薬が美しい、というようなほんのちょっとしたことが大切なのだとも想うのです。 ・・・・・ 先日別のところに書いた文章を受けて現代の個人と土地固有の伝統の関わりについて作陶家の立場でもう少し考えてみました。それは簡単な問題ではないようにも思うしまた逆にわかりきった答えであるようにも思えるのです。 Last updated 2009.08.01 02:21:21
「門松は冥土の旅の一里塚 めでたくもありめでたくもなし」 一休のこの有名な和歌について子供の頃には「めでたくもありめでたくもなし」というのが正月の世間のなんとはなしに浮かれた気分と、そして冥土に行くことすなはち死とを対比して詠んだものだと思っていた。これだって普通の人は日常であまり気付かない刻一刻と確実に死に近付いて歩んでいるという人生の有り様を鋭く見ている一休の凄さを感じるが、死というそのこと自体をめでたいことだとみなし煩悩の多い現世を歩む姿のほうをめでたくもなしと表したのではないかと思えばまた少し違った歌のように思えてきます。 ほんとうは門松は冥土の旅の一里塚というのが現世の有り様そのままもので、そのこと自体をめでたくもありめでたくもなしと詠んだというのが本意ではないかという気がするのです。ひとの生涯はめでたいとかめでたくないとかそういうものではない不可分の性であると、このように読み解くのがいちばんこの禅僧の和歌としては自然な気がします。 「木喰も冥土の旅に連れもなし 戻りて見れば塔婆一本」 もうひとつ、江戸時代の作佛聖である木喰上人の和歌に似たものがあります。こちらもやはり連れもいない一人の寂しさを詠んだものではなく、ひとの生涯の実相を詠んだものだと思います。日本全国を廻国しながら一千体を越える彫刻を残して入滅した木喰の生涯が卒塔婆一本というのは自らの死が近付いた時に「一代の聖教皆つきて南無阿弥陀佛になりはてぬ」と全ての書籍を焼き捨てた一遍上人の姿に重なります。 「木喰もいづくのはての行きだおれ いぬかからすのゑじきなりけり」 木喰はまたこういう歌も残しています。いつかどこかで死んだ時にはその亡き骸は犬か烏の餌食であるというのは現代の日本の暮しからすれば何か凄い感じはしますが、野宿もしながら全国を歩き廻っていた老僧の生涯にとってはあたり前の実感を伴ったことであったでしょう。 どこかで行き倒れたら後は犬か烏に喰われてお終いというのはなかなかその心情としては自分にもしっくりと来るものがあるといつも感じます。日本ではすでにほとんど土葬も無くなっているのではないかと思いますが、自分の小さい頃に亡くなった母方の田舎の祖母は土葬でした。これは大きくなってから聞き知ったことですが棺を村から外れの墓地まで引くための白い綱と死に装束は自らきちんと準備していたというのは立派なことだと思いました。貧しい漁村の無学な漁師の妻として丹後の海辺で生涯を過ごしたその人の亡き骸は棺に納められてやはり海に向きあった墓石の前に大きな穴を掘ってそっと埋めました。去年の春に益子に行って早朝道に迷っているときに見た墓はやはりその人が生前守り続けたであろう田んぼに向かって在りました。こういう墓に入るというのはなんとも幸せなことのように想われてなりません。 丹後の祖母とはどちらが先だったでしょうか、それほどかわらないころに亡くなった父方の祖父は京都のとある老舗のお茶菓子屋でしたので街中であったため荼毘にふした後のお骨を小さな白磁の壺に入れて墓に収めました。子供心にはたとえ死んでも高熱の火で焼かれてしまうのは恐ろしいことのように思われました。命は尽きてもそこに在った亡き骸が数時間の後には白い骨になるというのはなんとはなしにたまらないという気持ちがしたのです。火葬にされるよりは土葬にしてもらって土の中に埋められて朽ちてゆきたいと思うようになりました。 十八歳の頃に出版された当初に買った藤原新也さんの『メメント・モリ』という写真集を見ればガンジス川のほとりでいくらかの薪とともに火葬にされるインドの人たちの姿が写されていました。この正月に藤原新也さんが丹後の村を訪ねて写真を撮っているテレビ番組を見て、久しぶりにこの本を開きました。日本の焼き場のように窯に入れて重油で焼くのではないのでこんなやり方ではもちろん白骨になるまで焼き切れる訳はありません。それなりに焼けば後は聖なる河に流すのだといいますが、生焼けの亡き骸にまったく木喰の和歌のとおりに犬と烏が集まっている場面がありました。 去年の年末頃に自家のすぐ近くで鹿が死んでしまいました。前日にはなにもなかった場所に鹿は死んでいたのですが、昼前に自分が見付けた時にはすでにお腹には穴が開いてその内蔵はなにかの動物に食べられてしまっていました。自然の中で生れて死んで、その肉体がまた次の命を養ってゆくということはあまりにもあたり前の事なのだということを改めて思いました。言うまでも無く人間はたくさんの動植物のいのちに養われて生きている訳です。 生れてきて何を残すのか。べつに何も残さなくてもよいといえばよいのでしょうが、陶工はやきものを焼くことによってしか陶工としての生命はありません。昨年末に小さな窯を新たに作りその月のうちに続けざまに三度の窯を焚きました。一生懸命仕事をしたいと願ったのです。それは土の中に埋め込まれた窯でちょうど寝そべって入れば土葬にされた棺の中にいるような気持ちになります。その窯を初めて焚き終えてその数日後にまた潜り込んで出来た品物を出したまだ素肌が触れれば熱いくらいの窯の中で、小一時間ほどでしょうかお腹の上に手を組んで静かに仰向けになって寝そべっていました。窯の奥ほどすぼまっているので両肩が側面の壁に挟まるまで潜ればちょうど鼻の頭の触れそうなほどに天井があるほんとうにぎりぎりの大きさです。ひびだらけのこの天井ががさりと崩れればきっと生き埋めになって死んでしまうとは思いましたが、その暖かい土の中にいることはなにか大きなものに抱きいだかれているようでなんとも心地の良い不思議な気持ちになりました。このままここで死んでしまうのはいかにも幸福なことのようにも想われたのです。 土の中に寝そべりながら祖母のお葬式の時のことを想いました。その墓は掘り出した土を棺の上から被せれば棺の入った分だけこんもりと土が盛り上がっていたのを覚えています。この土の中に祖母は居るのだという気がしました。やがていくらかの歳月が経ち、木棺が朽ちて崩れた時にその小さな盛り上がりはまわりに並んだたくさんのお墓のようにまた何も無かったように平たく沈んだのでしょう。祖母の亡き骸はきっと虫達や植物を養い彼らの身体の内にいのちは受け継がれたに違いないのです。 また朝鮮のお墓のことも想いました。朝鮮半島に行ったことはありませんが、彼の地のお墓はやはりこんもりと盛り上がったまるいおっぱいのような姿の土まんじゅうです。犬か烏に喰われてなくなってしまうのもよいが、日本人の自分には願っても叶う訳もないことですがこういう朝鮮のお墓に入りたいという気がします。沖縄のあの亀甲墓のうつくしさもほんとうに立派なもので以前はあんなお墓に入りたいものだと思ったこともありますが、あれは一族がしっかり守り続けなければどうにもならないもののような気がします。それに比べれば朝鮮のお墓はいつか人に忘れ去られればやがてそのまま静かに自然に還ってゆきそうなのが好ましいと想うのです。 窯に埋もれて死んでしまうということは充分に仕事をしたならばほんとうは陶工冥利に尽きることなのでしょうが、自分にはまだまだやっておきたいことがありすぎるのです。出来ることならもう一度会っておきたいひとがあります。見たいもの、行きたいところもいくらでもあるのです。その時が来てもう駄目だと分かればあんがいあっさりと諦める気はしますが、生きている自分には現世への執着は強く、生きる間は精一杯生きたいという気がするのです。 いざ死ぬならば犬か烏に食べられて他のいのちの中に生きるというのは当人にして見ればそれほど悪いものではないとは思うものの、現代社会の中では動物に喰い散らかされた身よりのない死体を行政か業者が処理しなければならないというのもいかにも気の毒で申し訳ない話でそう思うとちょっとへたな死に方はしないように気を付けなければという気にもなるしなかなか簡単ではありません。 いつまでも生きている訳は無いことは分かり切っているのに、ただ何となく過ぎた今日のような明日がまたあるとついつい思ってしまいがちですが実際は分からない。今日のうちに出来ることは今日のうちにすませておきたいと思います。怠け者の自分はそんなふうに心がけなければどうにもならないものになる。もう一度、もう一度と執着を忘れず最後にはもう死ぬのは嫌だとわからず屋なことを言い出しかねない強欲な自分は、するだけのことをしたらその時をあっさり受け入れることが出来るように日々全力を出し切ってそれなりの覚悟を決めて生きたいと願います。 ・・・・・ この文章は後半の初窯のあとの暖かい土の中で思ったことなどを去年のうちに仕事用のブログに書いたものの、いかにも違和感がある気がしたので載せずにいたものに加えて正月の挨拶にと前半を書き足したものです。ここの更新はしばらく止めていましたがこんなものを置く場所はここしかない。 と、書いたままでまた月日は過ぎた。 そして5月2日 忌野清志郎さんが亡くなった。 南無阿弥陀佛 Last updated 2009.05.04 08:26:53
思うところあって2002年8月7日から長い間書き続けてきたこの「生畑皿山通信」ですがいったんここで更新を打ち切ります。現地点で108135のアクセスカウンターが示すように思い掛けないくらいの多くの方に読んでいただき、ここを通じてたくさんの思い出や交友を持つことが出来たことについても感謝しています。 こちらでは日々の個人生活とそのなかで見たこと出会ったこと感じたことや考えたことなどについての感想などを主に書きつづってきましたが、自分の生き方の中心にあるうつくしいものを見てうつくしいものを少しでもこしらえてということについては「生畑皿山窯」のホームページを通じて引き続き書き綴ってゆきたいと思っています。 少々気負ったことを言いますが最後だと思ってご笑覧下さい。 「うつくしいものさがします」は日々の日常の身の回りのものを少しもおろそかにしないという誓いに他ならず、それは言うまでもなく工芸だけのことではなくて自然環境や様々な人間の営みや、もちろん近しい人たち、家族や友人や恋人とのこころの繋がりについても誠実に丁寧に見つめて生きてゆきたいということです。うつくしいものとは真実が姿したもの以外ではありえないからです。 また「やきものをつくろう」はもちろんただやきもの入門というふうなことではなくうつくしいもの、つまり真実の具現がどういう背景から生れて来るのか、何によって裏打ちされているのかということについて自分の生涯を掛けて見つめてゆきたいというのが本願です。ものを作るとは言いますが、自分とはほんとうのところは未だこの世に生れてこない生れたがっているなにものかがようやく見付けたこの世にポッカリと開いたまあるい穴のようなものではないかと、そういうことがごくあたりまえのほんとうのように実感されるのです。 このサイトは自分にとってはこの6年間の生きた証の記録でもあり何か確かめたいことなどがあって過ぎた過去を時折振り返って見返せばすでに他人事のようで面白かったり、今よりも少し若くて生意気な自分やこう言うのも変ですががんばっている様や気負った物言いもすでに失われた古い交友も全ては懐かしく愛おしいような気がするのもまた正直なほんとうです。また他の誰かここをご覧の方にとっては何か役立ったり楽しめたりするかも知れないということもあり、このまま削除はしないで残しておくつもりではおりますがBBSと各記事へのコメントの書き込みおよびトラックバックは管理上の理由で停止します。何かご意見お問い合わせなどがある方はこのトップページの中央辺りにメールへのリンクが付けてありますのでこちらからお気軽にご連絡下さい。 右側メニューの中にある「やきものができるまで」はこれから陶器を作ろうという方にとっては少しは有意義なものに出来るのではないかと願ってはいたのですが残念ながら「薪」、「土」、「釉薬」についての下準備を簡単に書いただけで長年その先を書き進めないままにしてしまったことが唯一の心残りです。 いつか何かを切っ掛けとして更新の再開をするかも知れませんがまたその日まで。それは近い日のことか永遠にないことかはわかりません。もちろんなにか書きたいこと、書く必要のあることがあるときには明日にも再開することに躊躇いはありません。 長い間ありがとうございました。 ではひとまずこれでひとくぎりです。 2008.8.29 生畑皿山窯 陶工 前野直史 Last updated 2008.08.29 22:28:55
![]() 野点といってもお抹茶に毛氈ではなく例のフレンチブルーの紅茶を楽しむためでもっとお気軽なものである。車に陶器まつりでも使っていた和紙張りの台や椅子などとともに携帯用の小さなガスコンロや茶器などを積み込んで途中でケーキを買って市内からは数十分のドライブ。 花背では二十歳前後の頃に先輩達と何度も小さな野外コンサートのイベントを企画して自分たちも演奏した。今回何年ぶりだろうというくらい久々の花背だったが懐かしいカフェもそのままにあってここで簡単なお昼をすませた。雨上がりの曇りがちの日だったとはいえ道路の温度計表示は17度とあってやはり街と比べれば相当涼しい。 湧水の所まで引き返してお茶を楽しんだ。それほど車は通らないが道路沿いなので自家の畑で採れた玉蜀黍を茹でたり花背の農家直売のトマトを食べたりしているとバスの窓からのんきな人がいるもんだというふうに笑顔で人が見ている。 夏の終わりの心地良い時間を過ごすことが出来た。仕事の区切りにリフレッシュする必要があったのだ。 マリアージュフレールのアールグレイフレンチブルー、下鴨パウンドハウスのバナナタルトとフルーツタルト、生畑のトウモロコシ、花背のトマト、和紙張りの台、イギリスの子供椅子、アメリカのスリップウェア、柳宗理とインドのカトラリー、櫻井智子さんの型染手ぬぐい、自作の黄釉ティーポットと藁灰釉と白釉のカップ&ソーサー、ビタクラフト鍋、EPIガスコンロ Last updated 2008.08.27 07:18:30
五条坂の陶器まつりも終わりました。炎天下と排気ガスに人込み、そして今年はほぼ毎日のように夕方か夜に一時間ほどでしょうか雨が降りましてなかなか大変でした。 しかしあれだけたくさんの作陶家のやきものがあるなかで、それほど多くはないとは言うもののぼくのものの前で立ち止まって手に取って下さる方があるのはありがたくも不思議なことのような気がします。去年やはり同じ場所に出していたので何かお求めいただいた方で今年も何か、とお立ち寄り下さった方も何人かはあってこれは一年間家庭で使ったうえで一応の及第点をいただいたようで安心しました。陶器というのはぼくの実感では轆轤して窯から出て来て完成ということではなく、どこかの食卓で用いられていつか釉薬は擦れて艶を失い、土が染みになったりあるいは縁が少し欠けたりしてこそのものだと思うので、そういう方とは制作の後半の仕上げをおまかせしているある意味では器を作る共作者という気もして、暑く落ち着かない場所なのであまりゆっくりとは行かないもののそれでも一年ぶりにお話出来たのもうれしいことでした。 またこのブログを見て旧知の友人なども訪ねてくれたり、また他の誰かにお話しして下さってその方が声を掛けて下さったりそういうこともうれしいことだし、まわりに出している作陶家仲間も何かと不慣れでひとりで困っているぼくに親切な気遣いをしてくれたのも感激した。また最終日の片付けに遅くまで付き合ってくれたMさんにもいつもながらお世話をお掛けした。 なかなかご縁の結ばれることのない窯の中で色やかたちが上手く行かなかったものや窯傷のものなどの働き場所が見つかるのも陶器まつりのような場ならではのことでありがたいです。 多くの人が手に取り使いたいと思う器というのはそのこと自体がその器の社会性があるということを表しているわけで非常に立派なことですがぼくの器は残念ながらそうではないのです。が、しかしだから社会性が無いのかといえばそういうことではなく様々な点で現状に受け入れられにくいものではあるとしても、かくあって欲しい、あらねばならないという理念を呈示する仕事というのはやはりまた必要だとは思っているのです。つまりは現状の社会を動かす政治家だけではなく、別のところでは坊さんも行者もいらないとは思っていないというふうな意味です。滝に打たれたり山道を歩き廻っている行者には少しも生産的な点はないとしても、それでも誰かが彼を支えている。そういうことは確かに必要とされているのです。 手仕事の残した品物の命脈は長くてもその仕事それ自体は人と共にしか存在しません。例えば土を掘るところからかたちして釉を掛けて窯で焼くところまでの方法や技術というのは数千年の連綿と続いた伝統が裏打ちするものではありますがいったん途絶えてしまえば儚いものです。未来永劫意味の無いものならばそれでもかまわないのだろうとは思うのですが、ぼくが見るかぎりうつくしい陶器はどういうところから生れてきたのかということを考えればなんとか誰かが守らなければならない仕事というのがあるような気がします。趣味的な美術工芸ではなく、もっと切羽つまった実用工芸の仕事がうつくしいものになって欲しいというのがやきものを愛する自分の願いです。 Last updated 2008.08.15 23:31:31 |一覧| |
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