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May 8, 2011
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島田歌穂さんの「ミュージカル 蝶々さん」を観て以来、
蝶々さんはどんな女性だったのか、気になりました。

オペラの「蝶々夫人」のせいで
蝶々さんが実際とは違った形で
伝わってしまったと述懐(後悔)するコレル夫人。

(夫人が弟(新聞記者)に話したことが記事となり、
評判になったことでオペラ「蝶々夫人」が作られたのですが、
「男の人のお人形さん」のように描かれたことを悔いていました。

武士の娘として毅然としている蝶を好ましく思っていただけに、
夫人は、自分が弟に話さなけば良かった、蝶に申し訳ない、
と自分を責めていたのです。)

コレル夫人を演じる剣さんの熱演が印象にが強くて。

オペラの「蝶々夫人」とどう違うのかが、
蝶々さんについてアレコレ調べていたわけですが…
蝶々さんを調べていると必ず出てくる名前が「三浦環」

どんな人だったのかしら、と気になって
図書館で借りてきた本が
「日本人の足跡 二」

【中古】 日本人の足跡(2) 世紀を超えた「絆」求めて /産経新聞「日本人の足跡」取材班(著者)
海外に飛び出し、偉大なる足跡を残した日本人を集めた本

三浦環
1884年、30歳の時にロンドンでデビューし、
翌年「蝶々夫人」初出演後、世界の名だたるオペラハウスを
20年に渡って湧かせ、海外において2000回公演という
前人未到の記録を打ち立てている。

作曲者のプッチーニが
「私の夢を実現してくれた」
と称賛した環の蝶々夫人。

その所作は幼い頃習った日舞の賜物。

早くから才能を表していた彼女。

歌を教えてくれた先生は、
上野の音楽学校への入学を強く勧めるが、
「女に教育は不要」との時代ゆえ、父から猛反対される。

「養子を取るなら、進学してもよい」という
父とのかけひきにより
東京音楽学校への入学を果たす。

後に、その東京音楽学校で教鞭を取ることになるから
彼女の選択は間違っていなかったということになる。

市川森一さんの著書「蝶々さん」でも
蝶は進学を希望し、
そのために貸座敷の養女になるから、
二人の強い想いにはどこか通ずるものがある。

ただ、ちがうのは
蝶は義理の親までも亡くし
進学を断念せざるを得ないが、
環は一念を貫いた。

専業主婦を望む最初の夫と離婚してまでも、
歌うことを選ぶ。

当時珍しかった自転車通学をし、
たくさんの見物人が集まり
「自転車美人」という言葉さえ生まれたそう。

後輩の山田耕作などは、
(気になる女の子に意地悪するのは世の常(⌒∇⌒))
通せんぼをしたというエピソードもある。
華やかな存在の環。

オペラ歌手として稀有であり、
目立つことで噂が独り歩きした環。

離婚後は、プロポーズが殺到したという魅力的な彼女は、
彼女の才能を理解してくれた男性と再婚し、海外へ。

そして第一人者である指揮者サー・ヘンリー・ウッドに対面が叶った。

彼女の歌を聞いたウッドはこう言った。

「あなたは完全な美しい素質と音楽の技術を持っています。
私にはあなたのようなほとんど完成した声楽家に歌を教える力はありません」


「蝶々夫人」を演じる機会を得た彼女は
公演まで1ヶ月しかないにもかかわらず、
362ページにもわたる楽譜を覚え、
空襲のさなかのロンドンで熱演し、
真のアーティストとして称賛された。

彼女の活躍ぶりを読んでいて
同じ日本人として誇らしくなる。

たとえばシカゴでは
彼女のオペラを聴き終り、感極まった婦人から

「ピンカートンのような男は
アメリカの男性のうち例外です。
多くのアメリカ男性は
あんな悪いことはいたしませんから
誤解しないでください」
と涙を拭き拭き、謝られました。


などというエピソードも。

そして、
環は36歳の時に
プッチーニから生涯忘れられない言葉を聞く。

「イタリアはもちろん、世界のプリマドンナが大勢
毎晩のように日傘を持ってステージを歩き、歌いますが、
みんな私の理想とする蝶々夫人はやってくれませんでした。

プリマドンナは、みんな
自尊心を持って自分の歌だけ聴かせようとして
一向に私の蝶々さんの『
ほんとうの気持ち』を
理解してはくれませんでした。

だがマダム三浦、
あなたの蝶々さんは
一幕では15歳の子どもらしい蝶々さん
第二幕第一場では母の愛と夫の帰りを待つ若い妻の愛情を、

二場では子どもと別れて自殺する日本人夫人の貞淑の悲劇を
驚嘆するばかりにドラマティックに演りました。

私が心に描く幻のバタフライが舞台に現れたと思いました」


プッチーニが生み出した多くの作品のヒロインのうち、
ことのほか蝶々夫人をお気にいりだったそうだから、
環とプッチーニにとってこんな幸福なめぐり合わせは
なかっただろう。


それほど評判をとった「蝶々夫人」だが、
戦争が激しくなり帰国。

あれほど海外では受け入れられていたのに
当時の日本では、

「日本人女性が、外国人に弄ばれて自殺するとは国辱」
という理由で上演が許されなくなった。
  • 蝶々夫人.jpg


「歌うことが使命」と
晩年まで歌い続けた彼女には、
素敵なエピソードが多い。

2001回目の公演の場所が歌舞伎座。

戦争中、慰問に行った際、
軍歌を歌わないことを憲兵隊にとがめられても

「オペラ歌手ですから」

毅然としたした態度を変えなかったこと。

(淡谷のりこさんも、モンペを嫌がり、
 きちんと化粧して歌ったという逸話が
 残っていましたね。確か…)


5時起きして、必ず発声練習をしていた環。

病に伏した時、見まいに来たテノール歌手の藤原義江に

「天国で歌えるように、ドビュッシーを練習しているのよ」

と環が言ったこと(藤原は涙が止まらなかったそう)

そして、死後、病理解剖に立ち会った教授の所見

「光沢といい色彩、形態共に実によく整っていて
十分発達した若い人の咽喉像そのものである」


咽喉年齢は18歳。
自堕落な生活をしていたら、
決して保てない美しい咽喉だそうだ。

残された写真は小柄で可愛らしい人。

この人のどこに、これほどの強い意志があったのだろう。

天真爛漫で奔放な性格のため、
日本ではスキャンダラスな印象があり
ほんとうに気の毒だったけれど(らしいけれど)
真実の三浦環の偉大さを知らずにいたなんて、
もったいないことだ。

会いたい人!叶うことなら。

(この本にはクーデンホーフ光子さんのことも書いてあった。
 残念ながらゲランの香水「ミツコ」は
 彼女をイメージしたものではないらしい。

 ミツコの人生もまたドラマティックであり、
 周囲に日本人がいない中での彼女の苦労ははかりしれない)

環もミツコも壮絶な人生なのに、
試練を超えるたびに輝きが増している。
その姿は私達に希望を与えてくれる。

願わくば、遠い日の彼女の力になりたい。
友として、あるいは母や姉として、そばで支えたい。

もちろん、その気持ちを彼女達に届ける術(すべ)はないけれど。

だから、私達も次へバトンを渡さないといけないわけだ。
と、いつもながら取りとめもなく…

三浦環(みうら たまき
 1884年(明治17年)2月22日 - 1946年(昭和21年)5月26日
 癌のため、終戦の翌年没)





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最終更新日  June 3, 2020 09:51:21 PM
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