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2007年07月09日
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カテゴリ:日記
 これまで、中国における目録発展の歴史と具体的内容についての講義を受けてきた。その中で特に気になったのは、目録学の権威主義的な姿勢と、それを裏付けしたであろう目録作成の一大国家事業としての側面である。中国の目録が文献の探索を容易にするリストという、西洋でのそれに与えられた役割を超えた、学問の源流を探り、研究の道の第一歩となるという高みに達した点は、そうしないことには書籍の同定すら難しかった竹簡本の時代であったという部分を除いても壮挙であろうとは思う。だが、それ自身高度に洗練された学問となってしまったことで、かえって目録学はエリートのための存在であるという地点から脱却できず、現代の図書館において求められるユニバーサルサービスからはかけ離れてしまっている。中国において、すぐれた学術的成果がありながら、それが大衆に流布せず、エリートと大衆の間の断絶が現在もなお生じている現実は目録学の伝統に因るところも大きいのではないか。眠れる獅子が目覚めることなく猟人の手にかかった背景のひとつに目録学をあげることもあながち間違いではなかろう。

 こうした、エリートのための学問としての目録学の先鋭化は、単純に目録学という学問が習得に膨大な学識を必要とするというその性格にのみ責任があるわけではない。これまでの講義を概観し、七略にしろ、漢書芸文誌にしろ、永楽大典や四庫全書にあっても、それらの編纂は全て国家事業としての目録編纂、類書作成であった。これら事業において重用されたのは古くは貴族、時代が下っては科挙官僚であり、彼らはことごとく儒学を修めた文人エリートである。文人エリートによる、文人エリートのための目録編纂が、エリートの存在を守る権威主義的な中国目録学を生み出すのは論理的帰結である。そういう意味では、中国目録学の集大成たる四庫全書編纂事業がその成果物の世界史的、あるいは図書館情報学上の優秀性を置けば、官公庁の満漢併用策、軍事での漢八旗、蒙古八旗の編成と並ぶ、清による漢民族融和政策に沿ってなされたものに過ぎない点はあまりに象徴的だ。

 中国以外の地域に目を向けてみる。世界最古の分類表とされるものがシリア、エブラ遺跡で紀元前2500年頃ともいわれる文書館跡から発見されているが、少し時代を進めると、アレクサンドリア図書館では、ピナケスと呼ばれる目録があり、大きく詩文と散文に分けそこから目的に応じて細分化していた。この編纂に主導的な立場で臨んだのが同図書館の司書であり文法学者・詩人のカリマコスであった。この目録は当然アレクサンドリア王国の国家事業として何らかの予算的助成ははかられただろうが、中国で行われたような皇室権威の向上というよりも、単純に利用者の便益にその視点が向いている。その後、共和制ローマではカエサルの案を受け継ぎポリオが自由神殿を建立、世界初の市民向け公開図書館となっている。

 中世ヨーロッパには「自由七科」と呼ばれる学問の区分が存在したが、これに基づいた図書の分類を行う行う事はなかった。ただし、図書館学自身は聖書研究の補助としての地位を得ていたという部分で教会と皇帝という庇護者の違いはあれど権威の下に存在しており、中国と同様に権威主義的なエリートの学問でしかなかった。しかしながら、欧州の目録、および図書館学はエリート主義の陥穽に陥ることなく、大衆に奉仕するものとして発展していくことになる。それは一体なぜか。

 第一に、教会権威の失墜がある。相次ぐ教会の失態と宗教改革、そして活版印刷による聖書の大衆化が教会を特殊な権威から引きずり下ろしてしまったことにより、大学の上位にあった神学もその地位を失った。この結果、重圧の外された学問は相対的に自由で大衆的なものとなり、学術を支える図書館学もその様相をエリート主義から転換させる必要性が生じた。第二に、王室権威の失墜である。教会の没落によって力を得た絶対主義国家であったが、教会によるくびきから脱した学術の広がりに足元をすくわれることとなる。フランス革命の要因には実に様々なものがあるだろうが、思想という面から見ればその第一は啓蒙主義であり、それが形となったのは百科全書である。百科全書は哲学的意味から見ても重要であったが、図書館学、目録法の成果物としても大きな意味がある。すなわち、これまで国家や宗教の権威、あるいはそこを基盤として立つエリートのためのものとして編纂されてきた百科事典といういわば世界の目録が、国家とその権威を攻撃し、非エリートであるブルジョワジーに知識を与えるためのものとして立ち現れたのである。そうした意味では、権威におもねってきた目録や図書館学が自らの意思で権威と決別したと取ることもできよう。

 翻って中国では、教会権威に相当する儒学も、目録学習得者が儒学に親和性の高い科挙エリートでしかなかった点、そして目録編纂が近代にはいるまで国家による事業が中心であるため逆らう理由など目録学の側には全くないという点という二つの要因があり、目録学が権威ある地位にとどまり続けた。建前とは言え儒学を統治の根本理念として置いていたこと、また、中国独自の考え方として、後の王朝が先代の帝国の業績を自らの権威と簒奪の正当性を主張するために記録する、というものがあり、それに伴って目録編纂もまた国家事業として存在し続けたことが、二つの要因を強固なものとしていたこともあるが、これらの要因が近代に入るまでついぞ打ち破られなかったのは他ならぬ目録学関係者の責任であろう。自らの権威を守るために学問の入り口たる目録学を難解なものとして大衆を受け入れることを拒み、極めて煩雑かつ無駄の多い編纂手法を改めることをせず、誰のための学問かという基本的な部分で間違っているという現実から目をそむけ続けてきた目録学者の罪は非常に大きい。

 学問にしろ、図書館、あるいは目録にしろ、それらは生活や社会を改善するための道具に過ぎない。道具の高度化は目的を達成するためにのみなされる機能化であるべきで、それ自体が目的となっては単なる装飾である。装飾の極まった道具は美術品として新たな価値を持つこともあろうが、それ以上でも以下でもなく社会を変革するうねりを生み出すことはあり得ない。それだけならまだいいが、儒教は労働を愚弄し、技術者を蔑視し、大衆を愚民と見なした。植民地帝国が世界を席捲したとき、中国において目録学廃絶の動きが一瞬とはいえ見えたのは単純な欧米への迎合ではなく、中国が学問について抱える問題を中国人自身が察知した部分も大いにあったのではないか。現在の中国で行われている目録学と図書館情報学を融合させようという試みが、果たして本当に目指すべき道なのか、それともナショナリズムの無意味な暴走の故なのか、再考が必要だろう。





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最終更新日  2007年07月09日 21時56分28秒
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