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2018.09.29
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ネット資料より、


境内入口に正岡子規の句碑「霜月の空也は骨に生きにける」が立つ。

浄土寺は空也上人(903〜72)の姿がいまに残る寺である。

腰のまがったやせた身に、鹿の皮をまとい、ツエをつき鉦をたたきながら行脚し、「南無阿弥陀仏」を唱えるひと言ひと言が小さな仏となって口からでる姿が浮かぶ。

道路を補修し、橋を架け、井戸を掘っては民衆を救い、また広野に棄てられた死体を火葬にし、阿弥陀仏を唱えて供養した遊行僧、念仏聖である。









この空也上人像を本堂の厨子に安置する浄土寺は、縁起によると天平勝宝年間に女帝・孝謙天皇(在位749〜58)の勅願寺として、恵明上人により行基菩薩(668〜749)が彫造した釈迦如来像を本尊として祀り、開創された。法相宗の寺院だったという。

のち弘法大師がこの寺を訪ねて、荒廃していた伽藍を再興し、真言宗に改宗した。

そのころから寺運は栄え、寺域は八丁四方におよび、66坊の末寺をもつほどであった。








空也上人が四国を巡歴し、浄土寺に滞留したのは平安時代中期で、天徳年間(957〜61)の3年間、村人たちへの教化に努め、布教をして親しまれた。

鎌倉時代の建久3年(1192)、源頼朝が一門の繁栄を祈願して堂塔を修復した。
だが、応永23年(1416)の兵火で焼失、文明年間(1469〜87)に領主、河野道宣公によって再建された。

本堂と内陣の厨子は当時の建造で、昭和36年に解体修理をされているが、和様と唐様が折衷した簡素で荘重な建物は、国の重要文化財に指定されている。






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最終更新日  2018.09.29 12:42:39


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