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Mayuとあなたと。

あなたの街のホームドクター(16.9掲載)

原稿は、私によるものです。
(ノーカット版です。長い・・・です。)


 ◎九割の確率

 着替え途中に偶然みつけた胸のしこりが、存在に気が付いた途端だんだん大きくなってきている気がして、しかも何だか痛くなって来ている気がして怖かった。しこり発見から二週間の時間を空けて、母に連れられ乳腺外科を受診しました。病院の待合室を見渡す限り、私と同世代くらいの人は一人もいなくて、自分の存在が浮いているようにさえ感じました。みんな、検査を受けるのが隣の母ではなく私だとわかると、「えっ?」という顔でこちらを見ているのです。それにしても、患者さんの数がとても多いなぁ。

 私の受けた乳がん検診は、先生による視触診を始めとして乳房のX線写真を撮影するマンモグラフィー、超音波検査、細胞診のフルコース。

 診察室に呼ばれ、まずは視触診。私のしこりを触って先生は「若いし、乳腺症か何かだと思うなぁ。」と言いつつ、同時にサッとかけたエコーの画像を見て表情が変わりました。「これは、そういう(乳腺症だとかの)簡単な類のものではなさそうだ・・・。」そう言われて、すぐにマンモグラフィーと細胞診を受けることに。

 次はマンモグラフィー。“乳がん検診にマンモグラフィーを!”ってフレーズをよく耳にしてはいたけれど、最近流行のこのマンモグラフィーというものが実際どんなものか、実はよく知らずにノコノコとレントゲン室に入っていったのです。軽く何枚かレントゲンでも撮るんだろう、程度の気持ちでいたのが大間違いでした。

技師さんに促されるまま、胸をプラスティックの板の上に乗せると、技師さんの手がムギュゥ~と私の胸を引っ張って、さらにビヨ~ンと伸ばしている。私はされるがままにただただ動揺。すると今度は上からもう一枚の板が動き出して、技師さんの伸ばした胸を挟んでる!最初は痛くなかったけれど、だんだん挟む力が強くなってくる。「イタタタタタタ・・・」と小声で遠慮がちに言っていたうちは我慢もできたものの、最後の最後には胸だけ囚われた状態で身体だけが検査代から遠ざかってしまいました。でも、胸を挟んでいる板が半透明なものだから、挟まれながらビヨ~ンと薄っぺらく伸びた自分の胸を見て、痛みも忘れて笑っちゃった。

 暗い部屋へと連れて行かれ、次は超音波検査。マンモグラフィーの直後で半ば呆然としていたので、どんな様子だったか覚えていないけれど、しこりの上で何度も行ったり来たりする技師さんの腕を眺めながら、私のテンションは一気に下がってだんだん不安になっていました。
その後の細胞診では胸のしこりにブスッと長い針を刺され、痛みというよりも、胸に長い針が突き刺さっているその光景に、ショック!先生の操るその針は、ギュイ~ンという歯医者さんでよく聞くような音を上げながら私の胸の細胞を吸っていました。一通りの検査を終了した時には、もうクタクタ。でも、これだけの検査をすれば、結果的に何もなければ、しばらくは安心だなぁなんて思いながら、再び診察室に呼ばれるのを待っていました。

 先生のお話を聞くため、診察室に。最後にやった細胞診以外の結果が出ているとのことで、ホワイトボードにはマンモグラフィーの写真がありました。母と一緒に先生のお話を待っていると、優しげな先生の口から信じがたい言葉が飛び出しました。

 「このマンモグラフィーの写真を、十人の医者に見せると、九人は悪性だと言うでしょう。残りの一人がなぜこの画像だけで悪性だと判断しないかというと、あなたの二十一歳という若すぎる年齢を最大限に考慮するからです。」

 九割・・・ほぼ、間違いなく悪性だろうということくらい、医学に関して全くの素人な私でもわかることでした。これで明日細胞診の結果が出れば、残りの一人も“これで間違いなく悪性だね”と診断することになるのでしょう。きっと先生も、万が一の“だいどんでん返し”の可能性を考えて、細胞診の結果が出るまでははっきりとしたことは言わなかったんだろうな、なんて思っていました。

 翌日の晩、両親と一緒に診療時間外の診察室へ通され、私が先生から下された診断は、やはり“乳がん”でした。一晩の間に、ある程度の覚悟を決めて告知に臨んだので、大逆転には全く期待していなかった分、それほどショックを受けずに受け止めることができたのではないかな・・・。
 
 私の場合、小学生の頃から母が婦人科系がんと闘っていたのを見てきていたので、がんという病気は決して自分と無関係なものではないはずだし、この先生きていればいずれ私も向き合わなければいけないものなんだろうな、まぁ、仕方ないよね、なんて漠然と思っていましたが、仮にもしそうだとしても、まさかこんな歳で発病するとは!

 母は、自分の主治医から「娘さんは、お母さんよりも十年くらい若い年齢で(病気が)出て来ることがあるかもしれない。」といわれていたらしく、私の身体をすごく心配していたし、私も、何でもこまめにチェックしておいたほうが安心だという考えだったので、十九歳から婦人科のがん検診を半年に一度受診するようにしていました。

 婦人科の女性の先生からは、「あなたの場合、二十五歳くらいから乳房の検査もしておくといいかもしれないわね。」と、早めの乳がん検診も薦められてはいたけれど、まだ何年も先のことだし、くらいにしか思っていなかったのです。

 婦人科検診では特に異常は見つからずここまで来たけれど、まさか乳がんが出て来るなんて思いもしなかった。自分の身体にちゃんと関心を持って、できることはしてきたつもりだったし、若さに任せて自分の身体を粗末にするようなことだってしなかったのに、それでもこうしてあっけなくがんになるんだな、というより、気づかない間に“がんになっていた”んだなぁ。思わぬ敵の出現に、無念、というか、何と言うか・・・。

 よく、がんの告知を受けた瞬間目の前が真っ白(真っ黒?)になって、先生が何を言っているのかほとんど聞こえなかったという話を聞くけれど、私の場合は告知されたショックというよりも、この歳で乳がんになって、こんなんで将来子供は産めるのかということがとても気になって気になって仕方ありませんでした。

真剣な表情で「抗がん剤の治療も、辛いけれどやっておいたほうがいいよ。」と話す先生に、「あのー。私、抗がん剤が辛いのよくわかってるし、はまぁ仕方ないと思っているんで多分大丈夫なんですけど、ところで子供は産めるんでしょうかねぇ?」なんて、その時点ではちょっとズレたことを聞いて、隣で聞いていた父は「はっ?」という顔で私を見ていたのを覚えています。

 驚いた様子の先生の口からは、「若くして乳がんになった患者さんでも、治療が終わって時間をあけて、出産されている方はたくさんいますよ。あなたもまだ若いのだから、出産を望まれるのであればちゃんとその可能性を残すような治療をして行けばいいね。」との力強い言葉。「なんだ、乳がんになっても子供を産むのは問題ないんだ!」と、私はそこで初めて一安心し、それなら、希望はまだまだ残されてるんだし、この先も何とか頑張れそうだと思えました。

 とにかく、今はまだ自分が乳がんとわかっただけで、手術も治療も何も終わっていない。乳がんの“に”の字も知らない。これから先、現実を知って何度打ちのめされるかわからないというのに、こんな時から希望をなくしていては『絶対負ける』という気持ちは既に私の中にありました。だから何か希望を見つけて、気持ちを前に前にシフトして行かなきゃ。まぁ、良く言えば諦めがいいというか、気持ちの切り替えが早いというか・・・。でも、こういうあっけらかんとして見せるところが、自分の持ち味でもあると思っています。

 病気というものは姿、形のないもので、“病は気から”といくら頑張ったからといって良い結果が出てくれるわけでもなければ、完治してくれるものでもないのです。そうそう簡単に奇跡は起こらない。でも、きっと一番の近道は“現実から逃げないで真っ向勝負”だと思うのです。何よりもまずは気持ちの勝負。そして先生との二人三脚。難しい手術や治療のことは先生にお任せすることにして、最後に勝つのは私なんだって信じることが、私にしかできない仕事なんですよね。


◎知識不足

 告知されてからは、入院するまでの間とにかく乳がんに関する情報を集めることに終始しました。闘いに備えて、まずは敵を知ることから始めないと。まだ気持ちに余裕があるうちに、自分の病気のことを知れるだけ知っておいたほうがいいとも思ったのです。自分の中で、ある程度見通しをつけておくことも大切だと考えました。

 インターネットで“乳がん”と打って検索をするととてつもなく膨大な情報が飛び込んで来ます。情報が多いのは大変結構なことなんだけれど、その中から、今の時点での自分に必要なものと、不要なものを選別する作業がまた難しい!

ページを辿っていくと所々に“生存率○%”だとか“再発”“転移”の文字がまるで罠のようにちりばめられていて、それを見てはひどく落ち込んだり、自分が想像していたよりも難しい状況にいるんだと思い知らされることが度々あって、私はその度に告知された時よりも遥かに大きなショックを受けました。

乳がんに対して、「癌は癌でも、乳がんならラッキー」「治療さえちゃんとすれば、きっと治る」くらいに思っていた数日前には揺ぎ無いものだったはずの自信でさえ、ちょっとばかりグラついてしまった・・・。どうやら、調べれば調べるほど、乳がんという病気は思った以上に厄介らしいのです。

 それまでの“乳がんは簡単な病気”という根拠のないイメージが、いかにいい加減なものだったかということに、病気になってやっと気づきました。そもそも、乳がんについて詳しいことなんて何も知らない私の中に、どうしてそんな“軽い”イメージが定着しているのか、心底不思議に思うくらい。

 “乳がんは、取ってしまえば簡単に治る病気”・・・このイメージはとんだ大間違い。“乳がんは、癌の中でも軽い癌だ。”・・・これも、決してそうとは思えない。色々なところで情報を得れば得るほど、“乳がんは、全身病”だということを思い知らされたのです。


◎手術法

 『乳房温存術』、幸いにも癌の拡がる方向が良く、私はしこりのあった右胸を残せることになりました。
NTT札幌病院で撮った胸部専用のMRI写真を見るまでは、先生の中では恐らく乳房を残さず全て摘出することになるだろうと思っていたそうで、私にも、「恐らく、全摘だろう。」と説明がありました。既に私の中では、胸を残せるか残せないかということよりも、将来の出産の可能性を残せるかどうかということのほうが重要な位置を占めていたため、少しでも予後が良くなるのであれば、全摘でも構わない気持ちでいました。構わない、というより、仕方ない、と言った方が適切かな。それから、ちょっとしたことでも気になり始めると止まらない自分の性格からして、乳房温存にこだわったことで、後々ちょっとした異変があるたびにビクビクするのは嫌だった、ということもあるんです。不安の種は、摘み取れるうちに摘み取っておいたほうがいいと思ったから・・・。

先生の口から「温存で行こう!」と聞いた時は、私はしつこく食い下がって「もし、私が先生の娘さんだったとしても、先生はそう言いますか?」なんて聞いてみたりして、予想外の“温存”という言葉にバンザイして喜べる心境ではありませんでした。

それでも、先生には思いついただけ目一杯の質問をして、温存の場合と全摘の場合の生存率の差が数パーセントであることや、先生の「もしあなたが私の娘でも、同じように温存を勧めますよ。」という力強い言葉を聞いてもなお、土俵際のギリギリのところで踏ん張っていました。

そんな頑なに全摘の方向で考えていた私の心を一気に動かしたのは、「手術をして胸を残すか残さないかということよりももっと肝心なのは、これから長い目で見た時に、いかにして転移・再発を防ぐかどうかということだよ。」「腋の下のリンパに転移してしまっている癌細胞は、もしかしたらもうあなたの身体中に流れてしまっているかもしれないのだから、まずは手術で取れる所はちゃんと取って、その後の辛い治療で頑張ることのほうが大切なことだと思うよ。」という先生の言葉でした。そう説明されていなければ、私は今でも乳房を温存したことに一抹の不安を残していたかもしれません。

 その帰りの車の中で、私は“右胸を全て失わなくても良い”ことが、実はどれだけ大きなことだったのかを初めて痛感して、張り詰めていた緊張感がほんの少しだけ緩んだのでした。


◎孤独な夜

 入院してからの四日間はあっという間に過ぎ、手術は無事終了。摘出された私の“癌”を見てしまった弟は、「もう焼肉はしばらく食べたくない・・・。」と思ったそうです。

 術側の右腕はびくりとも動かず、腋の下のあばら骨のところからは、ドレーンと呼ばれる排液を通す管が出ていて、その中を流れて溜まった赤い液体を見るだけでテンションが急下降。手術翌日からスタスタと歩き始め、普通食を食べ始めるくらい、身体そのものはそれほど辛くなかったため、夜はもちろん眠れませんでした。

痛み止めの点滴はあまり効かず、ちょっとでも身動きすると傷がズキン!と痛む。毎週楽しみにしているバラエティ番組を見ても、いつもなら大笑いするような絶妙なボケにも苦笑いしかできない。私があの番組を無表情のまま見通したのはおそらくあれが初めてだと思います。右手に力は入らないし、左手には点滴が刺さっているからメールもろくに打てない。やっと眠りかけた瞬間、ズキン!と走る痛みに何度も起こされ、私のイライラは最高潮に達していました。

そうして毎日イライラしながらも、日に日に痛みは軽減して腕も少しずつ動かせるようになると、それから退院日まではよく近くのジャスコに出かけてバーガーを食べたり、本屋で立ち読みしたりと楽しく過ごしました。そして術後二週間で、めでたく退院。

めでたいめでたいと家族と親戚一同で集まって“焼肉”パーティーをして喜んだのも束の間、もう入院生活はご免だと思っていた矢先、頑張って毎日通おうと思っていた札幌医科大学附属病院での放射線治療を入院で受けることになり、山頂から谷底まで突き落とされたくらいのショックを受けました。

乳腺クリニックでは個室だった上に消灯後も自由に過ごせていたものの、今度入院する病院では、当然個室に入れるわけでもなければマイペースで過ごせるはずもないのです。

入院した部屋では、同室の六人中私を含む四人が同じ乳腺クリニックで同時期に手術した顔見知りの患者さんだったことが救いとなり、昼間は楽しいお話に花を咲かせているうちにあっという間に夜になります。消灯時間の九時になると、途端にテレビが消えてしまい、相変わらず眠れない私にとって、夜のこの時間が一番辛いものでした。

ベッドで横になっていても、いろいろと余計な不安が押し寄せてきて一向に眠れない。まだ手術をして一ヶ月もたっていないうちから、私はもう再発や転移の心配ばかりしていました。そもそも悪いところはちゃんと取れたのか、だとか、腋の下のリンパに飛んだ癌細胞が、今ごろ血液に乗って私の全身を巡って私の身体を蝕んでいるのではないか、なんてことを実によく考えていました。

悪い可能性を挙げだすと本当にキリがなくて、悪いほうへ悪いほうへ考え始めるとどこまでも止まらない。毎晩病院の外来ロビーで本を読んだりメールしたりして時間を潰していたけれど、九時の消灯以降の何時間が、当時の私には家でじっと丸一日過ごすのと同じくらい長く感じられました。
一ヶ月半ほどの入院生活を終えた頃には、私の体重は手術前よりも五キロ落ちていました。脚の筋肉が落ちて、手で触るとプルプル揺れるのです。


◎抗がん剤体験 

 まず始めに感想を言うと、あれは辛かった。こんなことを言うと、何十回という回数をこなしている母に怒られそうですが、あれほどの具合の悪さは初めてのことでした。わかりやすく言うと、激しく空腹な状態に物凄い車酔いが重なって、何も入っていないはずの胃から急激に何かがこみ上げてきそう・・・そんな感じです。

 抗がん剤治療というものに対しては、賛否両論いろいろあるみたいですが、私は“少しでも長く生きるためには必要な過程”だと信じて、十二分に納得した上で治療を受けました。先生や看護師さんからの事前の説明も、十分ありました。

私が抗がん剤治療に積極的だったのは、「これだけの治療を乗り越えたんだから、まだまだイケる!」と自信を掴むためでもありますし、また、運悪く再発・転移してしまった時には「あれだけの治療をやっても(再発・転移が)出て来たのならしょうがない。」と思いたいという気持ちも大きいです。

 悪い細胞にも有効であるとはいえ、元気にピンピンしている貴重な細胞まで破壊されてしまうというのだから、抗がん剤使用にはメリットも、デメリットもあります。

ただ「あなたの癌の場合には、抗がん剤使用は不可欠です。」というだけでなく、こちらにも心構えをするだけの時間を用意してもらい、納得のいく十分な説明がなされるべきですよね。中途半端な気持ちで流れに任せて治療を受けていくのでは、髪の毛が抜けたり、何度も吐いたりするたびに「どうしてこんなに辛い治療を受けなければいけないの!」と、逃げ出したくなってしまって当然ではないかと思います。


◎若さのメリット

 患者さんや看護師さんとお話をすると、必ずと言っていいほど出て来るのが“若い”というフレーズ。「まゆちゃんは、若いんだし大丈夫だよ~!」「まだまだ若いもの、これからだよ~!」という具合に。
どこへ行っても、まず私の若さに「若いのに。」と驚かれ、最後には「若いんだから。」という話になってる。気持ちにまだ余裕のあるうちは何てことなく流していたそんな何気ない言葉も、手術を終えて長い放射線治療や抗がん剤治療に入り、「頑張らなきゃ。」と一番ナーバスになってからは、思わず耳を塞ぎたくなるほどの言葉になっていた。

ただ、うだうだ悩むことが嫌いな私の精神力が何か一つの山を超えてからは、妙に開き直って気にならなくなった。私の母親やおばあちゃんほどの年齢の患者さんが、子供さんやお孫さんと同じくらいの年頃の私を見て驚くのも、慰めたくなるのも、確かに仕方のないことで、悪意は全くないんだ。それは、周りの患者さんが皆さん私のことを本当の娘のように気にかけてくださり、可愛がって下さったことで、辛いことばかりだと思っていた入院生活を楽しいものに変えてくれたことに対する感謝の気持ちが何よりも大きなものだと思う。

ただ一つわかってほしいことは、私が若いということで、辛い治療を免除されるだとか、特別扱いをされるということは一切なくて、六十代の患者さんも二十代の患者さんも皆同じ乳がんという病気と向き合わなければならないことには変わりないっていうことなんです。

私がこれから先の十年を、たとえ病気が再発したとしても、転移があったとしても何とかクリアーできたとして、それでもまだ三十一歳。たくさんの友達が、好きな人と結婚して子供を産んだり、好きな仕事に打ち込んだりしている中でも、その一方で私は、表面的にはどんなに充実した生活を送っていようと、常に病気のことが頭から離れないままなのではないかという不安があります。正直な話、もしかしたら十年後の今、もう生きていないかもしれない、とも思います。今はこうして元気にしていても、これから先は依然として厳しい闘いがずっと続いて行くことは、自分でもわかっているからです。

自分たち若い患者だけが辛いとか苦しいとか言いたいのではありません。大変な思いをされている患者さんは私だけじゃなくて沢山いますよね。
私は、実際に“若い患者”になった者として、「若いから大丈夫」ということよりも「若いから大変」なことのほうが多いということを、少しでもわかってほしいなと思っています。


◎「患者様」

 最近では、病院で患者さんの名前を「○○様~」と呼ぶことが多いですよね。私は病気になる前も、病気になってからも色々な病院を受診したりお見舞いに訪れたりしていますが、患者さんをそう呼ぶ光景に違和感を覚える病院もあれば、かえってこっちが「“様”なんて、やめてくださいよ~!」と恐縮してしまう病院とがあります。両者の間で何が違うのかと考えると、その病院から果たして“患者様”と呼ばれるような対応をしてもらっているかどうかという点で大きな差があると感じました。

 患者様と言って持ち上げておきながら、平気で何時間でも待たせるだとか、たった五分、検査結果を伝えるためだけに何回も病院へ足を運ばせる。病院の都合で急にベッドを空けさせる。急を要する場合でも、ベッドが空くまで何週間も待たせる。そして、患者さんの出したお金で検査したものを、まるで病院の所有物であるかのように放さない。セカンドオピニオンなんて言葉を口に出そうものなら、フテくされた顔をして見せる。聞いたことに答えず、「素人が口を挟むな。」と顔に出す。

 この中には、言っても仕方のないことも確かにあるのですが、せめて現状を改善しようとする姿勢くらい見せてほしいなと思わずにはいられません。
 それに比べて、患者さんへの対応の良い病院では、どんなに待たされても「まぁ、仕方ないよえ。」とやけに寛容であったり、患者様と呼ばれることが恥ずかしく思えてしまうのだから、不思議ですよね。

 要するに、患者さんと先生や看護師さんなど医療者の間にも、その根底に人と人同士の信頼関係が生まれることで、お互いにとってより良い医療環境が作られていくのではないかと考えています。

患者さんも、「こっちは金を払ってんだから、それくらい当たり前だろう!」と威張るのではなく、「偉大なる先生さま~どうかお願いします~。」と媚を売るのでもなく、いい人間関係を築くためにも「いつもありがとう。」の気持ちをちゃんと心に持つことが大切ですよね。そして、全てをお医者さんの判断に任せるのではなく、自分でできることは自分でやること。自分の病気について、できるだけ情報を入手して、スムーズな話し合いができるように、より良い選択が出来るように勉強することも必要だと思います。そうすることで、先生は「この患者さんは、積極的なんだな。」と緊張感を持って対応してくれますし、説明もしやすいのではないかと思います。

こちらが自分の身体をまるごと委ねる相手として、十分に納得して治療を受けることができ、一緒に頑張っていく相手として安心感を持てるような、揺ぎ無い繋がりがあることで、医療ミスや医療過誤という悲しいニュースは減っていくのではないでしょうか。


◎クォリティ・オブ・ライフ

 最近よく“QOL(クォリティ・オブ・ライフ)”という言葉を耳にします。病気治療においては、患者さんの“生活の質”をどうやって向上させていくかということが、テーマになりつつあるようです。
しかし、病院など患者さんに直接医療行為を施す場では、お医者さんは沢山の患者さんを抱えており、病院を出てからの患者さんの生活にまで目を向けるなんて、どうやったって物理的に無理なように思えるし、看護師さんは皆さんいつも忙しそうです。

 ただ、私たち患者にとっては、ある意味本当の勝負は病院を出て家へ、元の生活へ戻ってからの毎日なわけで、病院を出た途端、気遣ってくれる看護師さんも、支えてくれる患者さんはいない中、失った片胸と、身体についた傷のことを気にしながら厳しい再スタートを切ることになるわけです。抗がん剤治療によって髪の毛が全部なくなろうが、ホルモン治療でブクブク太ろうが、リンパ節切除によって手や脚が太く浮腫んでしまおうが、それを抱えて生きていかなければいけないのは、ほかでもない自分自身なんです。ただでさえ、手術によって体力を奪われ、慣れない環境での入院生活の後なのに、です。

 確かに今より良い治療法や、絶対的に効果の出る新薬がどんどん出てきてくれれば、患者の病気そのものに対する不安や恐怖は軽減されると思います。痛み止めや吐き気止めがどんどん良くなれば、治療による身体的な苦しみも緩和されるでしょう。でも、やっと治療が終わって、再始動しようという時、帽子やカツラ無しで外に出られない頭だったら?睫毛や眉毛がなくて、お化粧したくなくなったら?別人のように、ブクブクと太っていたら?左右の腕や脚の太さが、全然違っていたら?

 誰でもみんな、病気を治したいから、少しでも長く生きていたいから、辛い治療を頑張って受けています。そうして出来る限り自分を奮い立たせ、前向きな気持ちでいようと思っている中、これらのような“見た目の変化”というものは、本当に精神的ダメージの大きいものです。

「髪の毛なんて、すぐ生えてくるって!」なんて、そんなことはわかっていても、今、自分の頭に前みたいなきれいな髪の毛が生えてないことに変わりはない。私の場合は、髪の毛は絶対に抜けるといわれていたものの、十二回の治療を終えても髪の毛の量はなんとか元の四割程度残った状態でした。それでも、一年前までの“超”ストレートで、茶色にしていた長い髪の毛とはまるで別物で、帽子無しで歩くのはかなりの抵抗があります。周りの人に何と言われようと未だ、帽子なしで出歩いたことはありません。贅沢だ!と思われるかもしれませんが、私にとっては髪の毛というものはとても重要なもので、今の髪の毛の状態にはどうしたって納得がいかないのです。

 抗がん剤での治療中、お風呂場で手足にまとわりついて流れていく髪の毛を見て、カツラを用意し泣ければと思いさっそく情報収集しました。今はインターネットでもウィッグやカツラを入手することはできますが、やはり対面販売のように自分の頭の大きさにフィッティングしてから購入することは難しく、また、実物を見て思っていた物と違う、なんていうこともあるようです。それでも、「お店に行って恥ずかしい思いをして選ぶよりいいから。」と半分諦めて購入される方も多いそうです。一方で、実物を直接目で見て確認できて、試着もできる対面販売のウィッグ売り場では、周りのお店の店員さんの視線が気になるとか、通路を通る他のお客さんから丸見え、なんていうお店も多いです。おしゃれでウィッグを見に行くお客さんとは違うということを、もう少し配慮していただきたいなと思います。

 今では、さまざまな病気治療のため、医療品としてカツラを購入するお客さんも多いと聞きます。もう少し、そういうお客さんにとって入って行き易い、憂鬱な気持ちも吹っ飛ばしてしまえるような場所であって欲しいなと思います。病院など多くの患者さんの集まる場所で、周りの目を気にせず心行くまで試着したり、鏡を見たりできるような機会が作られてもいいのではないでしょうか。

 また、これほど悩んでいる患者さんが多い中で、いま一つ注目されていない“リンパ浮腫”というものについても疑問に思うことがあります。リンパ浮腫とは、婦人科系癌や乳がんの手術によりリンパ節を切除すると起こる腕や脚のむくみのことで、「一度腫れてしまうと一生治らない」くらいの言われ方をしています。命に関わる病気ではないからという理由で、リンパ浮腫治療に対する意識は未だ低いのだそうです。

 ところが、やっているところではちゃんとした治療をやっているのです。しかも、よほどのことがない限り、九割の場合は治療によるむくみの改善が望めるのです。

 私は札幌市内でリンパ浮腫治療をしている病院を見つけ、ある日わずかに太くなっていた術側の指先の症状に気がついて初めて受診して以来、指導されたリンパドレナージング(マッサージのようなもの)を施したり、腕が太くなって来てからは弾性ストッキング(浮腫んだ腕や脚につけるサポーターのようなもの)を購入し、現在ではむくみがちゃんと改善されています。

 このストッキングは、要はエコノミークラス症候群などで起こる血栓症治療に保険適用で使用されるストッキングと同じ役割をしているものであるにも関わらず、リンパ浮腫治療という目的の場合には保険適用外になるため、決して安価なものではありません。一生使えるならまだしも、何度も洗濯したり着用しているうちにストッキングの圧力が弱くなってしまい、効果を成さなくなってしまうのです。大体四ヶ月から半年に一度買い換えることになります。私の購入したストッキングは、手用と腕用の二点で二万円程度でした。これがもし、保険適用になっていれば、もっとリンパ浮腫という立派な“病気”に対する意識が変わってくれるのではないかと思うのです。“知っている人だけが得をする”というものであっていいはずがありませんよね。

 患者のQOL向上を本当に考えていただけるのであれば、病院を出た後の生活が少しでも気持ち良いものになるよう、是非協力していただきたいなと思います。


◎仲間

 入院生活の間だけではなく、それぞれの生活に戻った後にも、一緒に頑張った“仲間”の存在には本当に救われることが多いです。同じ病気と向き合っている人からの言葉は、先生や友達、親や恋人の言葉にもない力強さや思いがこもっています。

 私は同じ時期に手術をし、放射線科での入院生活を共にしたメンバーを中心に発足された「ポジティブ・アクション・クラブ」という患者会に入り、現在は広報担当として月一回の手書き会報誌を発行しています。やはり患者同士の横の繋がりは非常に大事なものだと思うし、たまに会って近況を報告し合ったり情報交換をすることで、とても良い気分転換になります。

 また、インターネットも貴重な情報源として、いつも私を助けてくれます。ネット上で知り合った若い患者さんの存在には、いつも励まされ、支えられています。厳しい現実も、わずかな希望も、いっぺんに飛び込んでくるという意味では非常に怖い面も持ち合わせていますが、“目の前の情報に流されない強い気持ち”をもって、その時の自分に合った情報を自分で選んで役立てたならば、インターネットは最大の武器にもなり得る、“頼れる奴”なわけです。

 私が、乳がんという病気になって一番心がけていることは、“自分の病気に関心を持って、常にあちこちにアンテナを立てておく”ことです。

 もちろん、同じ病気の仲間とだけ付き合っていく必要はありません。今までの私をずっと見て来てくれた友達のことも、やはり大切に思う気持ちは変わりません。それどころか、友達の存在の大切さは、以前よりもずっと増したように感じています。

 病気になってから、色々と考え、以前の私と比べると明らかに変わった一面や、少し成長した部分もあると思いますが、病気になるまでの私の“自分らしさ”というものも、ずっと大切にしていきたいと思っています。

 病気が私にもたらしたものは、決して悪いことばかりではありませんでした。確かに身体の一部を失ったことは事実です。二十代という、楽しくあるはずの時間が、病気と向き合っているうちにどんどん無くなっていきます。でも、今までの自分ならば絶対考えなかったことをじっくり考える機会が毎日の中で沢山あり、病気にならなければ一生出会うことのなかった素敵な人たちとの出逢いにも恵まれました。

 これからの人生において、この乳がん体験は私の糧になってくれると思います。


 最後に、乳がんは幸いにも早期に発見、治療をすることができれば、ほとんどの場合身体への負担が少なく治癒させることが可能な病気です。私と同じ世代の女性や、私くらいの娘さんを持つお母さんたちに、もう少し乳がんを始めとする女性特有の病気というものに対する関心と正しい知識を持って、がん検診が積極的に活用されること、そして、私たち患者が少しずつでも声を上げることで、乳ガンを始めとする様々な病気によって大切な命を落とす人がだんだんといなくなってくれることを願っています。


~この記事を書くにあたり、「堅くない、話し言葉で書いてください」とのお話を受けました。
これはこれで、難しかったです。


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