我が人生初の写真
1945年3月10日の東京大空襲に遭遇、借家の錦糸町(本所区錦糸町)を逃げ回り、母に防空頭巾を被され背負われて何とか命を繋いだ後、上野から汽車に乗って東北本線氏家駅で下車、栃木県塩谷郡喜連川町(現在はさくら市喜連川町)に疎開することになりました。其処は、蛇の巣窟とされる程多くのヤマカガシや青大将が生息、蛇が苦手な母は閉口していて3年居住したので、帰京しようとしたのですが東京は復興しておらず、母の郷里である静岡県富士郡吉原町(現在は富士市吉原町)に再疎開することになりました。1948年4月1日は学校の始まる日だったので、写真屋さんに来て貰い、親戚にも加わって記念写真を撮ることになりました。私は着る物、履く物、全て3才年上の兄のお古でしたので、下駄も歯が無くなってぺしゃんこの状態だったのでした。私の写真は当時6才、人生初写真となりました。小学校の入学式には間に合わず数日遅れて吉原小学校入学しましたが、モンペに下駄の装いでした。