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カテゴリ:思想・理論
ヘーゲルというと難解な哲学者の代表格のように言われていて、とくに昔の岩波の翻訳などでは、「対自」 だの 「即自」 だの 「定有」 だのと、意味不明な術語が乱舞していて、なにを言っているのかさっぱり分からない。 ところで、人間、人様から意見されると、ついつい 「お前なんかに、オレのことが分かるもんか」 とか、 「人のことに、余計な口出しをするな」 などと言ってしまいがちである。むろん、それはなにも他人の話ではなく、自分が一番そうだったりするわけではあるが。 確かに、肉体的な傷の痛みだとか、頭痛、歯痛、腹痛などというものは、まさにそういうものであるし、心の中に抱えた苦しみなどというものも、他人にはなかなか分かりづらいものではある。であるから、そのような言い方もまんざら間違っているわけでもない。 だが、その一方で、人間はなんといっても主観性の虜であるから、自分を客観的に見るということはなかなか難しいものでもある。世の中には、明らかにその人の自己評価と他人による評価とが、あまりにずれすぎていると思わざるを得ない人がいくらでもいる。 そもそも、人間に限らず、目というものは外を見るためにできているのであって、自分の中を覗き込むようにはできていない。これは、確かにずいぶんと難儀なことである。意識というものは自分の意識ではあるが、必ずしも自分についての意識ではない。 これが、自分の顔かたちや姿格好であるとか、動作だとかであれば、よく磨いた鏡で確かめることもできるのだが (もっとも左右反対ではあるが)、では、自分の心とか内面みたいなものは、どうやったら確かめられるのだろうか。 『資本論』には、「人間は鏡を持って生まれてくるものでも、フィヒテ流の哲学者として、我は我であると言って生まれてくるのでもないのであるから、まず他の人間の中に自分を照らし出すのである」 という、明らかにヘーゲルを意識した一節がある。 そして、そのような他人の反応は、ときには本人自身がまったく気付いていない、自己の本質というものを教えてくれることもある。「自己意識」 というものは、本来そういう他人という存在を媒介にすることで、はじめて成立するものなのである。 ヘーゲルが指摘しているように、「本質」 というものは現象するものであり、現象しない 「本質」 などというものは単なる無にすぎない。ちょうど、なんの作品もいまだ作り出していない作家や芸術家の自称卵が、自分には芸術家としての素晴らしい才能が埋もれていると考えるのが、しばしばただの妄想であり、たんなる慰めにすぎないように。
ただ、他人というものは自分を映し出す鏡であるということぐらいは、とりあえず心得ておいた方がいいのではないかと思う。むろん、他人の振舞いのなかには、ときにはまったく理不尽なものもあるのではあるが。 それにしても、たまに 「ほどほどに自分を見つめなおされることをお勧めいたします」 というようなことを、偉そうに他人に説教している人間を見かけるのだが、そのたびに 「お前がいうなー!」 と思ってしまうのは、いったいなぜなのだろうか。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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