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カテゴリ:ネット論

 映画やミュージカルでもおなじみのフランスの作家ガストン・ルルーによると、パリのオペラ座の地下には 「怪人」 が棲んでいるそうだが、ネットという仮想空間にも、様々な 「怪人」 が棲んでいる。

 だいたいにおいて、この種の 「怪人」 というのは、自分ではブログを持っていないか、あるいは持っていてもたいしたことを書くわけでもなく、他人のところに押しかけては、頼まれてもいないのに批評したり説教したり、また議論を吹っかけたりするのが好きな人たちである。

 その特徴はといえば、一番はなんといっても自己評価が異常に高いことである。そのような自己評価の過大さと、そこから垣間見えるきわめて強い自信とがいったいなにに根ざしているのかは、本人ではないから分からない。

 その中には、いわゆる 「一流大学」 を出たり、高い 「学歴」 を持っているということがその根拠であるという人もいるかもしれないし、そうでない人もいるかもしれない。これはまあ分からないことだし、あまり本質的なことではない。

 いずれにしろ、そのような人たちは自己への評価がきわめて高いため、おそらくは無意識なのだろうが、他人の言動に対する基準と、自分自身の言動に対する基準とが完全に分裂しており、大きく乖離している。

 はたから見ると、それは 「自分には甘く他人には厳しい」 という、典型的な 「二重基準」 のように見えるのだが、たぶん本人にはその自覚がないのだろう。当人としてみれば、自分はこの世で一番偉いのだから、自分と他人とでは適用する基準など違っていて当然ということなのかもしれない。

 なので、この種の人が、たとえば 「自分をよく見つめることです」 とか 「もっと自分に厳しくしなさい」 などと、人に説教しているのを見かけると、思わず 「おいおい、それはあんたのことだろう」 などと突っ込みたくなるのだが、これもまた、本人にはそういう自覚が全然ないらしい。

 この種の人の特徴をもうひとつあげると、それまでは自分を受け入れてくれていた人とかから反論されたり批判を受けたりすると、とたんに 「あなたを見損なっていた」 とか、「せっかく、あなたを買っていたのに」 などと言い出して、態度がころっと変わることである。

 相手が自分の「味方」 や 「理解者」 であるか、そうでないかで態度が違うというのは、人間誰しものことではある。しかし、豹もびっくりするような、その変化の大きさにはいささか驚かされる。

 普通、ある人をそれまで 「高く評価していた」 というのなら、多少のことで意見が食い違っても、いきなり相手に対して居丈高な態度を取ったり、罵倒を始めたりはしないものだ。ある問題で意見が対立したからといって、掌を返したように相手を 「最低」 呼ばわりしたり、悪しざまな罵倒を始めるような人は、そもそもそれまで、その人のどこを評価していたのだろうか。これはまったく理解できない。

 察するところ、この種の人が求めているのは、たんに自分に対する他人の 「評価」 でしかないのだろう。だから、ひとたび相手から否定され、もはやそのような 「評価」 が得られないとなると、態度がころっと変わるということなのかもしれない。

 そもそも、そんなに他人に指図したり説教するほど自分に自信があるのであれば、人にあれやこれや説教する前に、自分が手本を示せばいいのだし、そうすれば 「他人の評価」 というのも自然に得られるはずなのだ。だが、その種の人というのは、なぜか自分で手間隙かけた仕事をやろうとはしない。これはとても不思議なことだ。

 また中には、あっちでは誰かのことを、こっちでは誰かのことを、というように、陰謀家めいた策動が好きな人というのもいる。あるところで、ネットに 「ゴキブリホイホイ」 を仕掛けたと自慢していた人がいたが、そんなもの仕掛けたところで、引っかかるのはせいぜいゴキブリなわけで、いったいなにがしたいのか理解できない。

 そういうおかしな言動を、誰もが見ているネットでやることは、たとえどこの誰だかばれないにしても、自分の信用を落とし、自分の首を絞めることにしかならないのだが、その種の人は、どうもそういうようには考えないらしい。福田前首相が辞職会見で言ったように、「自分を客観的に見る」 ということは、やはり大切なことのようだ。

 さて、三月も終わりに近づいて、こちらはすでに桜が満開だが、ここ数日は天気こそ悪くないが、全国的な寒の戻りでやや冷え込んでいる。俳句の季語でいうと、「花冷え」 というところだろう。

 昨年は、桜の季節ということで、坂口安吾の 『桜の森の満開の下』 を引用したが、また同じものでは芸がないので、今年は三島由紀夫の 『仮面の告白』 から。

 花は不思議と媚めかしく見えた。花にとっての衣装ともいうべき紅白の幕や茶店の賑わいや花見の群集や風船屋や風車売りがどこにもいないので、常盤木のあいだにほしいままに咲いている桜などは、花の裸体を見る思いをさせた。自然の無償の奉仕、自然の無益な贅沢、それがこの春ほど妖しいまでに美しく見えたためしはなかった。

 私は自然が地上を再び征服してゆくのではないかという不快な疑惑を持った。だってこの春の花の花やかさはただごとではないのであった。菜の花の黄も、若草のみどりも、桜の幹のみずみずしい黒さも、その梢にのしかかる鬱陶しい花の天蓋も、なにか私の目には悪意を帯びた色彩のあざやかさと映った。それはいわば色彩の火事だった。


 この作品は、三島が24歳のときに 「書き下ろし長編」 として発表した出世作であり、自決によって自ら終止符を打った、20年をわずかに超えるだけの、決して長いとはいえない作家としての生涯に発表された膨大な作品の中でも、珍しく自伝的性格の強い小説でもある。

 舞台は戦争末期、空襲下の東京。引用箇所の直前に 「大学のかえりに......S池のほとりをそぞろ歩いた」 と書いてあるので、たぶん東大の近くにある不忍池の桜がモデルなのだろう (上野の動物園や博物館には行ったことあるが、不忍池の記憶はない。小さい頃なので、訪れたのかもしれないが覚えてない)。

  描写の華麗さはさすがに早熟の才人、三島の面目躍如というところだが、ところどころに虚無感と、さらに 「自然」 に対する敵意のようなものが漂っているのは、やはりこの人の根本的な資質のなせる業だろう。三島の邸宅がキッチュな西洋様式であったのは有名な話だが、三島由紀夫という人は、「東洋思想」 だの 「日本精神」 だのというものとは、本来もっとも無縁な場所にいた人なのである。

 

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Last updated  2010.01.27 07:30:07
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