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それは「言葉」。 表現したいことは人それぞれある。 しかしながら、その表現したいことをカタチにするもの、 それは非常に限られている。 文字、映像、音声、モノ。 大別するとこんなものだろうか。 人それぞれに得手不得手があり、 同時に志向性もあるから、 いきおいそれぞれのやらんとする方法に頼って、 人は表現をしていくのだろう。 私の場合は、 自己の能力をも省みずといったところは、 重々承知してはいるのだが、 「三つ子の魂百まで」の言葉を地でいっている。 私は、簡単で乗り易く、しかしながら不完全である、 「言葉」に依存した表現を昔から続けている。 言葉の持つ不完全さ、 それは自らの言語活用能力の不完全さのみならず、 自らが表出したものに対しての、 他者の捉え方を完全に想定し得ないということにある、 そのように私は考えている。 言語は通常「指示する言葉」と「指示されるもの」とが、 規則的に対応してはじめて、1つの言葉として認識され、 一般的な使用に耐え得るものとなるのだが、 そこには共通認識というものがなければならない。 共通認識というのは目には見えないカタチであり、 言語による意思疎通のための不可欠な要素である。 ところが、言葉は余りにも日常的に存在し、 これ以上ないほどに容易に用いることが出来る故に、 なかなかその危険性には気がつきにくいものでもある。 昨今の携帯電話におけるメールという表現手段の普及、 あるいはブログという多数に向けての表現手段は、 それまで「表現をする」ということに無縁であった人々を、 受け手から送り手へと変貌させていった。 多種多様な価値観を目にすることによって、 気づきや学びを与えられるメリットと、 いたずらに争いに巻き込まれるというデメリットが、 同時に現れてくる。 当然と言えば至極当然なことだ。 だが、この当然に過ぎることを理解できる者だけが、 表現に携わっているわけでもない。 それゆえに無用な争いが耐えないのであろう。 個人的な見解だが、 私は「単に表現をするだけ」が好きで、 自分のブログを書いているわけではない。 だから、自分の表現した内容に対して、 耳心地の良い反応だけを求めたりはしない。 もちろん、意見の同意を得られることは嬉しいが、 もしも耳心地の良いことのみを求めるのであれば、 私は公開されているような場ですることはない。 ある事象について言葉を尽くして議論することは、 決して悪いことではないはずだと、私は思っている。 けれども、そのように思っていない人もいるだろう。 どちらが正しいというわけでもない。 ただ共通認識がなされていないだけだ。 私にとって「価値あるブログ」とは、 それを書いている「人となり」を感じられるものである。 そんなブログをこれからも読んでいきたい。 閑の手遊びでまた駄文を・・・・・・。 さて遅めの昼餉にしよう。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
February 23, 2007 02:35:22 PM
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