726467 ランダム
 HOME | DIARY | PROFILE 【フォローする】 【ログイン】

千葉県八千代市の塾「個別学習ヴァージャー」塾長のつぶやき、かなり大声?!(ブログ)

千葉県八千代市の塾「個別学習ヴァージャー」塾長のつぶやき、かなり大声?!(ブログ)

【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! --/--
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x

PR

Profile

ヴァージャー・"うかる〜る"・岡本

ヴァージャー・"うかる〜る"・岡本

Keyword Search

▼キーワード検索

Recent Posts

Freepage List

Favorite Blog

ピンク、黄、ホワイ… New! キラーコイルさん

February 23, 2007
XML
カテゴリ:カテゴリ未分類

それは「言葉」。

表現したいことは人それぞれある。
しかしながら、その表現したいことをカタチにするもの、
それは非常に限られている。
文字、映像、音声、モノ。
大別するとこんなものだろうか。

人それぞれに得手不得手があり、
同時に志向性もあるから、
いきおいそれぞれのやらんとする方法に頼って、
人は表現をしていくのだろう。

私の場合は、
自己の能力をも省みずといったところは、
重々承知してはいるのだが、
「三つ子の魂百まで」の言葉を地でいっている。
私は、簡単で乗り易く、しかしながら不完全である、
「言葉」に依存した表現を昔から続けている。


言葉の持つ不完全さ、
それは自らの言語活用能力の不完全さのみならず、
自らが表出したものに対しての、
他者の捉え方を完全に想定し得ないということにある、
そのように私は考えている。

言語は通常「指示する言葉」と「指示されるもの」とが、
規則的に対応してはじめて、1つの言葉として認識され、
一般的な使用に耐え得るものとなるのだが、
そこには共通認識というものがなければならない。
共通認識というのは目には見えないカタチであり、
言語による意思疎通のための不可欠な要素である。

ところが、言葉は余りにも日常的に存在し、
これ以上ないほどに容易に用いることが出来る故に、
なかなかその危険性には気がつきにくいものでもある。
昨今の携帯電話におけるメールという表現手段の普及、
あるいはブログという多数に向けての表現手段は、
それまで「表現をする」ということに無縁であった人々を、
受け手から送り手へと変貌させていった。


多種多様な価値観を目にすることによって、
気づきや学びを与えられるメリットと、
いたずらに争いに巻き込まれるというデメリットが、
同時に現れてくる。
当然と言えば至極当然なことだ。
だが、この当然に過ぎることを理解できる者だけが、
表現に携わっているわけでもない。
それゆえに無用な争いが耐えないのであろう。


個人的な見解だが、
私は「単に表現をするだけ」が好きで、
自分のブログを書いているわけではない。
だから、自分の表現した内容に対して、
耳心地の良い反応だけを求めたりはしない。
もちろん、意見の同意を得られることは嬉しいが、
もしも耳心地の良いことのみを求めるのであれば、
私は公開されているような場ですることはない。


ある事象について言葉を尽くして議論することは、
決して悪いことではないはずだと、私は思っている。
けれども、そのように思っていない人もいるだろう。
どちらが正しいというわけでもない。
ただ共通認識がなされていないだけだ。


私にとって「価値あるブログ」とは、
それを書いている「人となり」を感じられるものである。
そんなブログをこれからも読んでいきたい。



閑の手遊びでまた駄文を・・・・・・。


さて遅めの昼餉にしよう。














お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

Last updated  February 23, 2007 02:35:22 PM
コメント(0) | コメントを書く



© Rakuten Group, Inc.