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千葉県八千代市の塾「個別学習ヴァージャー」塾長のつぶやき、かなり大声?!(ブログ)

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週刊誌 文春 2024… New! キラーコイルさん

July 31, 2015
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仕事柄子供たちのお勉強を例に挙げると、試験で麗しい点数が取れない子たちの多くは、 「ある事柄を使える状態で記憶することが不得手である」と言えるだろう。

ではなぜそうなってしまっているのか。簡単に言い切ってしまうと表題に並べたコトバのようなものになるのだけれど、それを改善するにはどうしたらよいのか。これが実は僕がこの仕事をしていていつも悩むことでもある。

危機感が欠如していると思われる子には、もちろんそれを認識していただけるように話をするのだけれど、その子その子がいったいどのようなことを耳にしたときに、見てきたような、体験したような、リアリティを感じるのだろうかと、僕はそれだけをいつも気にしながら子供たちと向き合っている。

僕の技量のなさに起因するのだろうけれど、すべての子供たちが、僕が思っているのと同じくらいの危機感を抱いてくれることは、正直なところ滅多にない。ただそれでも多少なりとも自分の現状&近未来に対して、危機感を抱いてくれる子は少なくはない。(ありがたいことです)ここまでは第一段階といったところであろうか。(いわゆる脅迫的モチベーション想起法みたいなものかもしれない)


そんなこんなでとりあえず、「お勉強をしなきゃいけない。それも自分が思っている以上に」、こうなったところがお勉強のスタート地点になるのだけれど、それまで「こんなにも」お勉強をするということに慣れてはいない子たちは、
コントロールする側の人間が細心の注意を払っていなければ、シャープペンシルの出し過ぎた芯のように簡単にココロが折れてしまう。シャーペンの芯は折れたらまたノックして出せばいいだけだが、折れてしまったココロは引っ込んでしまったら簡単には出ない。


とはいえ、お勉強の目的にはもれなく締め切りがついてもいるので、子供の状況次第ではこちらの焦りも知らず知らずのうちにエスカレートし、いきおい「叩き過ぎ」となってしまいそうにもなってしまう。特に僕のところのような個別対応型の指導は、良くも悪くもお互いに「逃げ場がない」ことも多いので、傍から見ているよりも内実タイヘンだったりもする。 (まぁ、それを承知の上でこの仕事をしてはいるのだけれど・・・)


話がやや逸れたので元に戻そう。


学校や塾でのお勉強の先にある入学試験では、発明家や芸術家のように「無から有を生み出す」というような、クリエイティビティを要求されたりはしない。それどころか生半可なクリエイティビティ(独りよがりな屁理屈?)は、甘美な毒杯を進んで一気飲みしてバタン、キューである。いわば試験っていうのは、「お約束の質問に対してお約束の答を提示する」ものであるから、「見たいものを見る。聴きたいものを聴く。言いたいことを言う。」ではなくって、「(相手:試験問題作成者)の見せたいものを見て、訊いていることを聞いて、聞きたいことを言う(書く)」ってことが肝要であって、受験者の恣意的な行為は大抵の場合は寛容されることはない。(なにをいまさら、な話であるんですけどね)


こうして、なんとか「やらないといけない」のをわかってもらえたら、必要なことを必要なだけどうにかしていかなければいけないのだけれど、ある量の事柄を使える状態で頭の中に入れるために、かかる時間や手間ひまや、入れるための方策は、それこそ子供の数だけあると僕は思っている。「あるやり方でこれこれの時間をかけてやったからうまくいった」からといって、それが学力が同程度であるという理由だけで別の子にやったとしても、僕にとっては「うまくいくほうが珍しいんじゃないかな」と思うほどである。(これはガチ(真剣勝負)で個別対応をしている先生方にしかわからないかもしれない)



ところで、試験の形式の多くはペーパーテストである。それゆえに最終的なカタチとしては「文字情報の脳内ビジュアル化」が必須だとは思う。ただ、必要にして十分な情報を脳内にインプットするために、なにも文字情報だけに拘泥する必要もないとは思う。視覚型、聴覚型、活字型と、それぞれの子供にとっての得手不得手は間違いなくあるように僕は思っている。インプットの方法だけではない。インプットした情報を「使える」ように変換する手だても、いろいろとあるはずだと思っている。そう、いま僕がこの駄文を書いているPCの入力方式(変換方式)のように。


僕はいまのところ、ある物事を認知~理解するってことは結局は、なんとなくの既視感(デジャブ)を、自分なりのリアルとして捉えられるかってことじゃないかって結論づけている。だから僕は、今日も明日も明後日も、目の前にいる子供たちに対して、こう思いながら向き合っています。



「脳内にある断片的なデジャブを、有機的集合体としてのリアリティ(使える知識)に」
(もちろん手段や方法や多少の間違いは問わずに・・・・・汗)











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Last updated  August 1, 2015 02:40:21 AM
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