|
|
|
|
![]() |
![]() |
![]() |
![]() |
![]() |
![]() |
![]() |
|
チャーリー6112の日記 [全3件]「私は大きな不幸や悲しみにおそわれたことはありませんし、神経衰弱にかかったこともありません。それに産みの苦しみ---私にとって絵画ははけ口だったわけではないのですから---とか、自分を表現したいというやむにやまれぬ欲求を感じたこともありません。朝に晩に、一日中でもデッサンしたいとか、スケッチしたいなどというような欲求は、まったく持っていなかったのです。お話できることはそれだけです。後悔はしていません。」---『デュシャンは語る』より。--- 芸術にかかわる意味。どうして表現しているのか? デュシャンの言葉は、もう一度ボクたちに、なんのための 芸術か?というものを投げかけているような気がします。 ホームへ/このサイトのトップへ
続・岡本太郎さんの『今日の芸術』には 「 うまかったり、まずかったり、きれいだったり、きたなかったりする、ということに対して、絶対にうぬぼれたり、また恥じたりすることはありません。 あるものが、ありのままに出るということ、まして、それを自分の力で積極的に押しだして表現しているならば、それはけっして恥ずかしいことではないはずです。見栄や世間体で自分をそのままに出すということをはばかり、自分にない、べつな面ばかりを外に見せているという偽善的な習慣こそ、非本質的です。自分をじっさいそうである以上に見たがったり、また見せようとしたり、あるいは逆に、実力以下に感じて卑屈になってみたり、また自己防衛本能から安全なカラの中にはいって身をまもるために、わざと自分を低く見せようとすること、そこから自他ともに堕落する不明朗な雰囲気ができてくるのです。 自分が自分自身で思いこんでいる自分の価値というものを捨てさって、自分の真の姿をはっきりさせ、ますます自分自身になりきるということ、それがまた、じつは、おのれの限界をのり超えて、より高く、より大きく自分を生かし、前進させてゆくことなのです。 自分の姿をありのままに直視することは強さです。だれでもが絵を描き、おのれをすなおに表現するということは、不必要な価値観念を捨て、自分を正しくつかむ、きわめて直接的で純粋な手段であり、それによってまた、もっとも人間的な、精神の自由を獲得することができるのです。」 これは絵画にとどまらず音楽にも当てはまることだと思います。しかし、これを実現している人は僕は知りません。音楽の未来まだ残っているかもしれません。 ホームへ/このサイトのトップへ
岡本太郎さんの『今日の芸術』には 「当時はエコール・ド・パリの華やかな時代で、日本から留学に来ている絵かきたちも多かった。彼らはなんの疑いもなく、パリの街角を描いたり、ブロンドのモデルを雇ってきて裸にして、最新流行のスタイルでお尻をふくらまして描いてみたり、ひとのまねをすること、型をとり入れることだけにうき身をやつしています。それをもって日本に帰り、滞欧作品だといって披露すれば、当時では画壇的な地位も定まり、万事おめでたかったのです。 私にはそれができなかった。そんな絵を描こうとすれば、耐えがたい空虚感で、どうにもならなかった。ひどく悩みました。生活を通しての必然性もないのに、形式的な、あるいはたんに感覚的なデフォルマシオン(変形)をやってみても、何になるんだろう。絵にはなるかもしれないが、自分の血肉にうったえてくる感動がない。描けば描くほど、ひとタッチごとに不自然で、なにか、みじめです。」 上のような状態は、まじめに日本でアカデミズムの影響を受けた人とかは誰にでも考えることだと思います。過去の人たちは未来を見ていた、だけど私たちはなぜか過去を見ている。結局思うようにやったらいいんじゃん。と思うのですが、過去のように国から支援とかいう体制が消えた現在の日本では、それをすることは、非常に勇気のいる作業ですね。難しい問題です。 ホームへ/このサイトのトップへ |一覧| |