大地震体験から得た教訓・・・りりパパ
早いもので「リリ姫」も(とても見えないけど)2歳。
あと1年で卒園とは信じがたいのですが、果たして髪が増えるのだろうかー
と何より大変不安です。
さて、この1年を振り返り、子どもの家に全く関係ないネタですが、
昨年私が遭遇した「新潟中越地震」の体験とそこで得た教訓について、
この場をお借りして書いてみたいと思います。
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昨年の10月23日午後6時、出張帰りの長岡~浦佐間の新幹線車中で、
あの大地震に遭遇しました。
脱線して問題になった例の下り列車と直前にすれ違った上りの列車に
私はひとりで乗っていました。
突然車中の照明が落ち、「アレッ?」と思った瞬間ドンと大きな障害物に
ぶつかるような衝撃で緊急停止。
「地震が発生したので停止しました」と車内アナウンスがあり、
「なぁ-んだ」と思っていたその時、2度目の猛烈な揺れに襲われ、
車内はパニックになりました。その揺れは、しっかり踏ん張っていないと
座席から振り落とされるような強烈なモノで、
網棚の荷物は全てぶちまけられました。
悪いことに停車した場所が地上20メートルの高架の上で、
しかもカーブで少し傾いた状態だったので、震度6と言われていますが
体感では7以上、とにかく想像を絶する揺れで、生まれて初めて
「死ぬかも」と真剣に思いました。
それから6時間の間車内に閉じ込められ(車内放送はその間全然ダメ)、
大きな余震の中このまま高架から転げ落ちるか、高架が崩れるか・・・
と恐れおののいていましたが、深夜12時頃になって
「この列車は危険なので避難所に移動して下さい」
と車内アナウンスがあり、避難所に向けて脱出することとなりました。
乗客約300名が、線路を歩いて脱出し、地元のタクシーや
マイクロバスでピストン輸送されてたどり着いたのは、新潟県浦佐町の
中学校体育館でした。そこは停電で非常用照明設備がわずか2灯ついているだけで、
広く薄暗い寒々しい空間に大量のパイプ椅子が無造作に出されているだけで、
暖房も毛布もありません。
ところで、携帯は地震発生直後からほとんど通じず、メールもネットも
忘れた頃につながる程度で全く使えません。
JRからの情報もお粗末で、とにかく状況がわからず、
知らない人同士で断片的な情報を交換し合いますが、大変な事が起こった事という以外、
詳細な状況(特に自分が置かれている状況)がわからないというのは、
日頃情報の洪水の中にいる現代人にはとても不安にさせるものです。
やがてJRの社員から「長岡方面の被害状況は絶望的で、
高崎に救援を求めているが、高速も国道も不通。
旧街道も大変危険なので明るくなるまで救援隊は到着できません」と説明があり、
さらに不安な空気が300人を包んでいました。
季節はまだ晩秋でしたが、新潟の高地の深夜ともなると体感温度は5℃ぐらいで、 持っている着替えを重ね着し、冷たいパイプ椅子に腰掛けながら身体を丸めて
ジッとしていました。やがて駅舎から調達しただるまストーブ3つと
ホッカイロが届きました。そしてだるまストーブを囲む3つの大きな輪
(1つにつき30人くらい)と、体育マットを敷いて暖をとるグループに分かれ、
暗く寒い夜を明かすことになりました。
私はたまたま近くにいた人に勧められて1つのストーブの輪に
入れてもらいました。あまり暖かくなかったけれど、輪の中にいて炎を見ている
だけでも気持ちはずいぶん暖まりました。
果たしてこのまま地震は収まるのか、救援隊はホントに来るのか、
誰もが不安に苛まれていた中、ひとりのおばさんがおもむろに自分のカバンを開けて、
「皆さん、食べませんか?」とお土産に買ったらしい温泉まんじゅうの
入った箱をまわし始めました。すると、別のおばさんやおじさんが
次々とお土産の柿の種やら日本酒や焼酎やらを、若い女性がチョコレートや
お菓子を出してくれて、みんなで感謝しながら食べました。
そこで食べた「柿の種」は言葉で表せないほど美味しくて空腹感
を満たすものでした。これがきっかけとなって見知らぬもの同士雑談をし始めて、
雰囲気はとても暖かい「仲間同士の空間」になっていました。
白髪の目立つご夫婦に対して20歳そこそこの茶髪の二人組兄ちゃんが
自分のジャケットを「どうぞ、羽織って下さい。俺ら若いんで大丈夫ッスから」
と掛けてあげている光景がありました。
教員らしき若者はおもしろおかしく自分の体験を話しはじめ、
場に笑いが生まれました。皆が周りに対して自分のできる事を率先して
行おうとしていました。それは「被災者」としての共通の境遇が生んだ
連帯感と助け合いの精神だったのでしょう。
おかげで寒さと疲労と眠気でボロボロになりながらも何とか全員
朝を向かえる事ができました(この時の朝日はまさに希望の光に見えました)。
朝の6時にようやく毛布と食料(コンビニのおにぎりとパン)が届き、
ホッと一安心。そして9時には大型バスが到着し、無事避難所を脱出して
湯沢まで辿り着き、東京に戻ったのは地震発生から20時間後の午後2時。
東京はいつもと変わらぬ時間が流れていて、何だが自分が今まで別世界にいた
ような強烈な違和感を覚えました。
・・・・と、そんなことを経験して、皆さんにお伝えしたい教訓は、
●教訓その1:いつ死ぬか、本当に人生わかりません。
いつ死んでも良いように悔いのない一瞬一瞬をおくって行こう!
●教訓その2:今の若いモンには愛想を尽かしていましたが、
いやいや捨てたモノじゃないと認識を改めました。
もう少し大きな目で日本の将来を見ていくようにしよう!
●教訓その3:「もしもの時」の備えを常にしておきましょう。
防災グッズはもちろん、緊急時の集合場所、連絡方法を確認しておきましょう
(携帯は絶対信用できません!
使えたとしてもスグにバッテリが切れます!!)。
そして生命保険もちゃんと入っておこう!
場違いの文章になってしまったようですみませんでした。
では、子供たちに、卒園生たちに、輝く未来あれ!
おわり
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