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武士の育児 [全19件]
子供、それも女の子供は三歳にもなると、屁理屈を捏ね回し始める。 「それも知能の発達する重要な過程だから潰さないで」 等と云う意見も有るが、イカンものはイカンと釘を刺しておくに如くは無い。 次のA,Bの様なケースに就いて、どう諌めたら良いか考えてみよう。 A、母親の膝の上に子供がふんぞり返っているが、母親は脚が痛くなって来た。 「どいて」 「何で?」 「脚が痛くなったから」 「何で?」 「あんたが乗ってるからでしょ」 「だから?」 と云うパターン。 「何で?」と「だから?」を延々と繰り返すこのパターンは、女のみならず、十歳前後迄の多くの子供が多用する手である。この手法を用いたがるのは詰まる所、 「最後迄理由を言い続けられないのなら私の勝ちよ。この論戦(?)で私を負かさない限り、私は退く必要を認めない」 と、漠然と乍ら思っての事だろう。 この場合、どう言ったら納得させられるだろうか。 様々方法は有ろうが、私はこうする。 「どいて」 「何で?」 「脚が痛くなったから」 「何で?」 「あんたが乗ってるからでしょ」 「だから?」 「だからぁ?あんた何を聴いてるの?どいてって言ったのに対してあんたが『何で』って訊いたから『あんたが乗ってるから脚が痛くなった』って答えたんでしょ?つまり『だから?』の答えは『どいて』でしょ」 この様に議論する迄も無く「既に答えが出ている事を認識させる」と云う点と、「だから、どいてって言ってんの!」と結論を急がずに、結論に至る迄の「過程を説明する」点がポイントである。 議論の途中で答えが出ている訳だから、延々と堂々巡りさせようとする目論見は無駄だという事を知らしめる。 「そんなに詳しく言ったって、三歳児には理解出来ない」 と云う意見も有ろうかと思うが、三歳位なら、もうちょい平易な表現に直しても良いが、総体理解出来るものだ。 こう説明しても猶、「だから?」と訊いて来たら、今度はそう云う巫山戯た態度自体を叱るべきだ。 「いい加減にしなさい。理由は言ったのだから、それ以上理由は無い。理解しないあんたが悪い」 と。 こういうのを「叱るべき事では無い」等と言っていると、他人様の家に行って無礼な態度を平然とする様な子供に仕上がる。 次にBのケース、 「どいて」 「何で?」 「脚が痛くなったから」 「ここでテレビ観てるだけ~」 と云う場合。 一つの事をやめさせようとする場合、「何々してるだけ」と言う事によって、 「悪気は無い」 「この理由によって、私はやめる必要が無い」 「この理由があるのだから不可抗力だ」 「何々をしようとしている私の体に、偶然あなたが接触しているだけで、私に責は無い」 事をアピールしようとしている。 この場合、どう言ったら納得させられるだろうか。 様々方法は有ろうが、私はこうする。 「どいて」 「何で?」 「脚が痛くなったから」 「ここでテレビ観てるだけ~」 「何をしているのかを訊いている訳ではない。どけと言っとるんだ」 或いは、 「お前が何をしているだけかどうかは全く問題ではない。其処に居るのが問題だから(それをしているのが問題だから)どけ(やめろ)と言っとるんだ」 と表現を変えても良い。 AのケースにしろBのケースにしろ、頭ごなしに叱りつけるのではなく、「お前の言っとる事は論理的に意味が無いんだよ」と云う事を知らしめるのがポイントだ。 やってはいけない事は叱ってもまた忘れた頃にやるが、理論的に使えないと判っている方法は、子供の選択肢の中から除外されるだろうと云う狙いだ。 こうして三歳くらいで気付けばいいが、十歳くらいでやり始めると、子どもの方でも、 「どう?私は頭いいでしょ?」 くらいの気持ちで始めるだろうから、それを微塵に打ち砕いてやる効果は高かろう。 斯くして屁理屈を捏ねようと云う気は失せると云う寸法である。 言い方、考え方は様々有ろうから、色々と試して欲しい。 最終更新日時 2009年9月10日 23時47分32秒
今更「命名」・・・名付けに就いてであるが、某サイトで、「最近は子供にこんな名前を付ける親が居る」と、以下の如き名前を列挙してあった。 ラッキー星(らっきーすたー)、たかしくん(くんまで名前)、戦争(せんそう) 穴痕打(あなこんだ)、僕(しもべ)、ハム太郎(はむたろう) 奈々安寿恵里(ななあんじゅえり)、無(む)、煮物(にもの)、ポチ男(ぽちお) 光宙(ぴかちゅう)、振門体(ふるもんてぃ)、幻の銀侍(まぼろしのぎんじ) 「こんな名前は御免だ」と云った冗談なのか、事実なのか不明である。 「たかしくん」等は、自分(親)の発想の斬新さをアピールしたいだけの、自己顕示欲に端を発する命名である様に思われるが、何の事は無い、敬称迄名前に組み込む遣り方は能くネット上のハンドルネームで見掛ける手法であって、それを無意識に(意識的にか)真似しただけの事だとすると、使い古された謂わば「さむい」命名でしかなかろう。 「ぴかちゅう」に至っては、何十年も経って当該漫画が忘れ去られた頃には意味不明な名前に成り下がる可能性を考慮した上での事か、他人事乍ら心配になる。 一時期某所で「導夢くん」と云うパチンコ屋が在ったが、今となっては此の店名の意味を知る者も多くはあるまい。 中で双子の子供に「だいや」「もんど」と名付けた等と云う話も有ったが、「主水」は兎も角、「大也」であれば昨今は左程おかしくも聞こえないのが恐ろしい。 ところで、出産して「蘭蘭」ちゃんと名付けました等という話が会社の社内報に載ってたが、「りり」だとか「けんと」「ありさ」等もそうだが、中途半端に外国風なのを付けるなと言いたい。例えば「健斗」は飽く迄「kento」であって「Kent」ではない。 「譲二」等と云う名も、次男で人に譲れる男になって欲しい・・・等と云った健全な理由で名付けるならいいが、「George」っぽいから・・・等と云う理由で付けられた日には堪ったものではない。飽く迄「Jouji」でしかないのだ。 大人に成って親日家の外国人の友達が出来て、 「キミの名前はどういう意味?」 等と、名の持つ意味合いを興味津々で訊かれて、 「オヤジが『何と無く西洋風だから』って言ってた」 じゃあ、みっともない気もせんではない。 日本古来の名前も大切にしたい。 更に最近では、何に影響されたのか知らんが、子供に他人と同じ名前を付ける親が矢鱈に多い。 一時期「翔」と書いて「かける」と読む名を付けられた子供が多い等とTVでやってが、うちの子供のクラスには「ゆうと」と云う名前の子が三人も四人も居る。 何を見て真似しようと思ったものか。 「最近はこういう名前が流行っている」というんで付けるんだろうか? 私なら「流行っている」という時点でリストから外してしまうが。人と同じ名前を「流行っているから」という理由で付けてしまうのでは、個性も思想も有ったものではない。 「ミーハー」と云う言葉が有る。「語源はミーちゃんハーちゃんだ」等と云う説明が為されるが、この説明文自体に説明が必要だろう。 最近聞いたのだが、その昔、名前に「ミ○○」ちゃん「ハ○○」ちゃん等の様に、頭に「ミ」と「ハ」を付けるのが流行った時期が有り、其処から転じて何でもかんでも流行りに飛び付く様な人間を「ミーちゃんハーちゃん」と呼び慣わす様になったのだと云う。 これが何時頃の時代の話なのか知らないが、尠くとも何十年単位で昔の話だろうと思われる。 こう云う「右へ倣え」体質は人間の習性だろうか。してみると、矢張り人間の習性と云うものは何十年経ってもそうそう変わらないものとみえる。 若し「ミーハー」の語源又は意味が、一般に遍く知れ渡っていたとしたら、それでもこうした状況は起こり得たのだろうか。「ミーハー」を嘲笑する様にこの言葉が生まれた経緯を知っていて猶、それを教訓として活かさなかっただろうか。 子供を名付けるのに巫山戯た名前を付ける親。他人の付けた名前を失敬して猶羞じぬ親。 命名には幾分の遊び心が有っても良いだろうが、基本的に個性と意味合いと伝統のバランスを以て臨みたいものだ。 最終更新日時 2009年7月26日 0時21分51秒
「大田光の私が総理大臣になったら」と云う番組で、他人の子供へのゲンコツを認めるか否かと云う議論が交わされていた。番組出演者内では反対多数。視聴者アンケートでは過半数が賛成であった。 反対派の意見で、 「文化が発達して法律等も整備されて来た中で、暴力に訴えるのは退化(要旨)」 と云った様なのが有ったが、物事を微妙に表現出来る日本語の特性を活かさず、何故いきなり「暴力」と定義付けてしまうのか。冷静に考えれば「おしおきのゲンコ」が「暴れる力」等では無いのは解るのではないかと思うのだが。 酔っ払いが街中で誰彼構わず殴りかかっていくのと「おしおきのゲンコ」を同列に論じてしまってはいけない。これらは明白にその意味合いが異なる。 反対派は 「どう意味合いが異なると言うのか。いずれも暴力の域を出ないではないか」 とでも言うだろうか。反対派は全てを「暴力」と定義付けする処から始まっているのが議論が進まない原因だと思うので、「暴力」に至る迄の間に「暴れる力とは意味合いの違う数段階」が有る事を先ず認めて欲しいものだ。そうした違いすら認識出来ん訳ではあるまい。 日本が併合した事を恨みに思い、其の土地に日本が残したインフラも「不幸中の幸い」であるとすら認められない某国人の様に、全て「悪」のひとからげにしてしまってはいけない。 大体が、「文化が発達して法律等も整備されて来た中」だから言葉で教えようと云うのであれば、子供が言う事を聞かなくても「だめよ」位しか言わない親が増えた現在、常識の無い子供がどれだけ多くなっているかを見れば、其の結果がどうなるかは推して知るべしであろう。「だめよ」で解るならゲンコツ等必要無い。 「叩いて教えると、叩く人の前でだけ言う事をきく。子供も相手を選んで振舞いを変える様になってしまう(要旨)」 と云う様な意見も有ったが、相手を選ばずに誰の前でも傍若無人に振舞う子供になるよりマシだろう。 冗談は扨措き、例えばもしデパートの一角で人の迷惑に成る様な事をした子供が、通り掛かりのオヤジにげんこつを喰らったとすると、先ず「大人は怖い」と思う様になるとも考えられないか。「若しかしたらこのおっさんも俺にゲンコツかましてくるかも」と思えば、大人の居る所では尠くとも悪さをしなくなる。何の事はない、昔乍らの風景だろう。 夫れで何の意味があるのかと云えば、「是は人に迷惑のかかる行為で、本当はしちゃいけない事なんだ」と云う事を知らしめる効果が有ると云う事だ。 「口で言っても解るだろう」との意見も有ろうが、立ちションをしても人殺しをしても「だめだよ」の一言で片付けられては、子供の方だって罪の重さの認識の程度に差が出まい。何度も同じ事でゲンコツされれば、「よっぽど悪い事なんだ」と云う印象付けに大いに効果が有ろうと思われる。 賛成派も「叩くにも愛が有るのが前提だ」等と無理矢理正当化しようと妙な事を言っていたが、反対派に「他人の子供にどれだけの愛を以て叩けるか」と案の定突っ込まれていた。そりゃ自分の子供にゲンコツする時には「後で恥をかかない様に」との愛が有っての事だろうが、他人の子供にゲンコツ食らわすのに愛も糞も有るまい。「愛を以て」等という苦しい釈明等要らない。罰は罰でいいではないか。有るとすれば其の子に怪我をさせないのが愛だ。 「ゲンコツなど愛でも何でもなく、自分の怒りをぶつけてるだけじゃないか(要旨)」との声も有ったが、怒っているとすれば、そして愛があるとすれば社会への愛が有るからだ。例えば番組中でも例として挙がったが、売り物のベッドの上で飛び跳ねる子供にゲンコツするのに個人的な怒り等必要だろうか。昔の人がそうしたケースで他人の子供にゲンコツかますのが当たり前だったとしたら、夫れは多分「これは叱らなくちゃいけない」と云う社会的な義務感からだったんではないか。 他人の子供にゲンコツ喰らわせても問題にならない・・・というか、寧ろ奨励されでもしたら、ゲンコツを喰らわすのが当たり前に成る。まあゲンコツの前段階として注意するのが先だろうが、兎も角、悪さをする子供を前にして注意をしないのは後ろめたさもあり、大人の癖に注意も出来ないのかとの誹りを受ける事を惧れもし出すだろう。とすれば此の場合は怒りの捌け口としての暴力等では断じて無く、社会的義務感からの発露になろうという事である。 「それは恐怖支配しようという事か?」 との声も有った。恐怖支配という表現をわざわざ持ち出す辺りが姑息だが、まあそう云う表現で行っても別に問題は有るまい。恐怖支配大いに結構。 「『他人の子供にゲンコツ』を『大人にゲンコツ』に置き換えてみなさい。そんな事が赦されますか?」 と云う意見も。 大人にゲンコツしていいとは誰も云って居まい。「子供だから」するんだと何故解らん? 言って解る大人でも罪を犯す。罪を犯せば刑罰が俟っている。法律が、そして刑罰が有るから社会が保たれる。況して物事の重要性の認識に欠ける子供に口で言っても強制力等発揮しないからゲンコツするんだと言っている。 「三歳迄は叩いて叱れ」と云う言い伝え(?)が有る。子供を育ててみると此の意味が解る。つまり言葉が通じないから、例えば此処は危ないから行っちゃ駄目だとか、熱いから触っちゃ駄目だとか言っても通じない訳だ。併しそれをやろうとすると叩かれる。叩かれると意味は解らない乍ら、やっちゃいけないんだと云う事は尠くとも認識する。 やっていい事といけない事を、理屈は扨措き体で覚えられる訳である。 では小学生なら話すだけで通じるのか。 自分を漫画の主人公の様に思い、己を不死身だと思い、人を殺しても漫画の中の様に目立てるだけだと思い、空を飛べると思い込んでマンションの高層階から身を投じ、人は死んでも生き返ると思っている今の小学生も、大人の様に物事を認識する能力が充分備わっているとは思えない。 いや、今の小学生ばかりではなく、10歳前後の子供の意識の非現実性など、大昔から変わるまい。危険な事、人に迷惑がかかる事など、注意されようが自分がやりたければやるのである。 衝動が抑えられないから、何の強制力も無い「だめよ」位では、どういう危険が潜んでいるかを教えてもやってしまうのである。 子供には「自分だけは違う。特別だ」と思いたがる傾向が有る。危険だと教えても「自分だけは生き残る」等と思う。 「信じれば何でも実現する」等という無責任な漫画の台詞や宗教観に簡単に踊らされ、信じ込み、「信じれば空だって飛べる」等という判断を下す。 他人に迷惑をかけて、「相手の身になったら厭でしょう?」等と叱られても、経験値が低いから様々な立場から物事を考えられず、結局認識の薄い儘、同じ事を繰り返す。 見付からずにこれ等をやり遂げられず、失敗して露見した場合、お尻を引っ叩かれるとかゲンコツを喰らうのが恐ろしいからやめる。これでいいのではないか。 理屈では肝に銘じないから、ゲンコツの怖さでやめさせる。先ずやめさせなくては始まらないのだ。場合に依っては命にも関わる。「飛んで火にいる夏の虫」の譬えの様に、子供が無意味に死の淵に飛び込んでいってしまってからでは、暴力だも糞の議論もあるまい。 先にも書いたが、ゲンコツされた時とそうでなく注意だけの時とでは印象が違う。隠れて悪さするのは子供だからいいだろうが、心の何処かで「これは本当はやったらかなり怒られるレヴェルの行動だ」と思い乍らやれるかやれないか、其処迄の印象付けが出来るか出来ないかの問題で、夫れが出来ない時は、ゆくゆくは立ちションする様な感覚で人を殴る様な価値観の人間に育ってしまう可能性も有ると云う点を認識すべきだと云う事である。 最終更新日時 2009年2月19日 17時8分25秒
表のブログにも書いたが、かみさんが近所のママ仲間に、「子育ての勉強会が有るから」と誘われて、付き合いで其の会場に出向いたんだそうな。 其の会合の名称が「朝起き会」。 普段は朝五時頃から会合をやってるそうだ。 で、かみさんが行った会合の会場はナントカ保育園。 如何にも「子育て」関連の話をしそうな場所で開催したもんだが、実際は別段保育園側が企画した会合でも何でもなく、「実践倫理宏正会」なる団体が保育園を借りて開催しただけの事で、紛らわしい事甚だしい。 (後で調べて判ったが、此の団体は道端で人に声を掛け、 「駅前の子育て支援センターで、子育てに関する講演会を×月×日×時からやっています。ぜひいらしてください」 等と、恰も「子育て支援センター」から来たと勘違いさせる様な言い回しで勧誘活動をする様だ。) 会合の様子だが、かみさん曰く、言ってる事が支離滅裂で、訳が解らんかったらしい。 例えば、会員のおばちゃんが皆の前で「自分が会の教えに由って救われた」経験談を発表するらしいのだが、或るおばちゃんは元々旦那さんを顎でこき使う様な最悪のババアで、其の結果夫婦仲は悪くなり、旦那さんも神経が参ってたのか会社を辞めてしまって、夫れが亦夫婦仲の悪さに拍車をかけてしまったのだと云う。 其処で会の、 「家で愛されない人は会社でも愛されません。だから旦那さんの靴を磨き、玄関の掃除をして、朝夕事有る毎に挨拶をしなさい」 と、まるで靴磨きが「まじない」であるかの様な教えに随って、旦那さんの靴を磨き、玄関を掃除し、旦那さんが起きれば「御早う御座居ます」。旦那さんが出掛ける時には「行ってらっしゃいませ」。帰って来たら「御帰り為さいませ」と言うという決め事をして実践した結果、晴れて旦那の仕事も決まって夫婦円満に成った。と、涙乍らに語ったと云う。 なんじゃそりゃ。 何故「家で愛されない人は、会社でも愛されません」なのか? 家で愛されないので性格が歪み、会社でも変人扱いされてしまうから・・・・・と云ったケースが考えられる(夫れも個人の性格に依るところ大だが)が、そうした間の経緯がどうなるからだと云う説明も無しに、まさに「風が吹けば桶屋が儲かる」式の言い様だったらしい。 それに靴磨きをすると会社が決まるのか。 然も段々聞いたら、身内の経営する会社で働かせて貰える事に成っただけだそうだが、それは「靴磨きの御利益」ではなく「親戚の誼」と云うやつではないのか。 亦別のおばちゃんの話では、息子が暴走族に入って半年程連絡不能なのだが、どうしたら良いでしょうか?と、会の幹部に相談したら、 「息子さんを信じて俟ちなさい」 とアドヴァイスされたので、其の言葉を信じて俟った処、果たして息子から連絡が有り、暴走族も辞めて仕合せな日々を送って居るんだとか。 何といい加減なアドヴァイスだろう。半年も家族と連絡がつかなかったら、万が一の事を考えないのか。私なら良くて失踪、悪くて事件に巻き込まれた場合を想定して、先ず警察に相談する。 勿論おばちゃんも其の事に考えは至ったんだとは思うが、幹部の方は「ひとごと」だから、そんな可能性迄考慮しない。 おばちゃんもおばちゃんで、そんな親身に成って考えて呉れるとは思えない人物に先ず相談して居る事自体がおかしい。 幸い大事無かったものの、これが殺人事件の被害者にでもなって居たらどうする積りだったのか。 それに暴走族を辞めたのは「息子を信じた」からではなく、時期的なものだとは思わなかったのだろうか。 こういう話を臆面も無く涙乍らに人前で語ってしまう非常識さ。 まさに思考停止状態の所にブレイン・ウォッシュの状態か。 まるっきり会の教えを信じ込んでしまっている。 下に此の会に就いての参考URLを示したが、参考URLのサイトの記事で此の会の勧誘員に対して質問を浴びせた人の話が有る。 夫れに拠ると、勧誘員はしっちゃかめっちゃかな事しか言わず、しどろもどろになって回答に窮していたと云う。 つまり会員も、会の教えを一度咀嚼して納得して居るんではなく、唯々丸暗記して納得した積りに成って居るに過ぎないのではないか。 一度でも咀嚼して居れば、咀嚼した段階で理論的におかしいかどうか解りそうなものだが。 参考URLを見れば判るが、此の会の母体は元々宗教団体だ。 徳光教(或るサイトでは「人のみち教」とも)と云う新興宗教団体から分派したPL教団と(社)倫理研究所の、後者の方から更に分派した実践倫理宏正会と云う会で、親団体の倫理研究所の人間からみても首を傾げるカルト集団だと云う。 カルト集団だとすれば、会員のおばちゃん達の被洗脳ぶりも納得だ。 参考サイトでは他にも痴呆症の老人から大金をせしめた等との記述も有るから、結局は金目的の団体だと思われるので注意した方がいい。 <参考URL> http://moral.log.thebbs.jp/1084153812.html http://okwave.jp/qa1382398.html http://okwave.jp/qa2554875.html 最終更新日時 2008年11月12日 1時38分43秒
2008年6月、秋葉原の歩行者天国にトラックで突っ込んで数人を跳ね飛ばし、トラックを降車するや百m程を走りながら次々とナイフで通行人を殺傷していった犯人が居た。 犯人は、自分が人生の「負け組」で皆が憎い・・・だとか、犯行予告をしておいて、「止めて欲しかった」だとか、「彼女も友達もいなかった。誰も自分のことをわかってくれなかった」と云った様な事を述べて居た。 是に就いて、「犯人は主人公になりたかった」のだと分析した心理学者がTVに出ていたが、私もそう思う。 件の心理学者がどう分析してそういう推論に至ったのか知らないが、私は矢張り「漫画の読み過ぎアニメの観過ぎ」に原因があるのではないかと思う。 子供の頃、ちょっと空想染みた事を言うと、大人から「漫画の読み過ぎだ」とすぐに言われた。 「読み過ぎと言う程読んでねえよ」と不服面をしたものだが、この事件の場合は文字通り「読み過ぎ・観過ぎ」が原因じゃなかったのかと思う。 漫画と云うのは大概に於いて主人公が居り、また主人公がどんな境遇に在っても、どんなに恰好が悪くとも、夫れを読む全国の読者の共通の認識として、「それでも主人公は主人公」なのである。 言い換えれば「どんなに恰好悪くても主人公に成り得る」のだ。 更に、漫画を常に読んで居て、猶且つ周囲から所謂「おたく」と認識される程漫画が生活の大半を占める様になると、漫画の「常に主人公が存在する状況」に頭が慣れてしまい、遂には「物事には全て主人公が居て然るべき」と考える癖が付いてしまうのではないかと分析する。 『「おたく」と認識される程』になると、『「物事には全て主人公が居て然るべき」と考える癖が付く』 というと論理の飛躍の様であるが、何かの趣味に長時間興じた後、現実の生活に戻った時、つい趣味をしている時の感覚で物事にあたってしまっているといった経験は無いだろうか。 ううむ、説明し難い・・。 ま、無理にでも御納得戴いて、そういう前提で話をしよう。 そういう前提が有る処に以って来て、人間、殊に若者と云うのは、「自分だけは特別で、他の人間と違うんじゃないだろうか」と云う根拠の無いヒーロー願望が有るものだ。うちの子供(六歳)もそう云う願望を持って居る。 そうなると、物事全てに存在する筈の主人公の位置には「自分」を当て嵌めたくなる。 大人に成っても稀に(40近くなっても)そういうのが居るが、そういう奴は男であれ女であれ始末に負えないものだ。 兎角そういう連中は、自分を悲劇のヒーロー・ヒロインに仕立て上げる嫌いが有る。 「私は●●(←品物です)を愛して居たのに、其の気持ちを踏み躙られた!」 等と怒りを爆発させていた女を見た事があったが、品物を愛している等と声高に叫ぶ辺り、正に異常としか言い様が無い。それにこいつは何でもかんでも全て人のせいにしていた。 今回の犯人も同じだ。 「優等生だったものが親の所為で成績が落ちた」等と言っている。勉強しようとするのを物理的に邪魔されたのならいざ知らず、現実は別してそういう事ではあるまい。 「幸せな人間が憎い」等と云う主張も、周りの人間にとってみれば大きな御世話でしかない。 そう云う人間は、只で「(本人言う処の)不遇」に甘んじない。そういう所でもカッコつけようとして、ドラマティック(?)なストーリーを企画して目立とう、即ち無意識ながら主人公に成ろうとする。 「僕はこんなに辛い思いをしたんだと皆に知って欲しい」 と云った処だろうが、そんな話は聞いたところで部外者には何の感慨も沸かんし、そんなのは大して辛い経験でも何でもない。もっと本当に辛い思いをしている人間はワンサカ居るが、当人はそんな事など御構い無し。これが漫画なら、其の程度の「辛い経験」でも、ストーリーとして成立しているなら許されてしまう。自分も何らかの主人公を気取っているから同じく許されてしまうのだろう。 併し、本当に計画を実行に移すのは怕い。 其処でネットに犯行予告等して、止めて貰えれば等と考える。 其処で止められても、一応は世間が注目するし、自分の「辛い境遇」は皆の知る処と成り、世間は同情してくれる。自分は悲劇の主人公になれると考えるのだろう。 併し恐らく犯人は「主人公に成ろう」等と意識的に計画していた訳ではなく、飽く迄深層心理としての思いだけだったろう。 こういうタイプの人間は、直接「主人公に成ろうとしたのか」と訊いた処で、どうせ否定する。 子育て時、「向上心を育む援けになるから」と、子供を褒めに褒めた結果、子供が「自分は他人より優れている」等と思う様になっては危険だ。褒める時と場合を考えなくてはならない。 人間は主観の呪縛から出発するものだ。才能を伸ばしてやるのも親の義務だが、主観の呪縛から解き放って、社会に適合する「普通人」にしてやる責任も有るのだ。其の為には「君は主観の中の主人公であり続けていてはいけない。何の努力も無しに主人公でありたい等と願うのは愚かしい事だ。貴方は社会の中の歯車の一つでしかない。その中で人より一頭抜きん出るには相応の努力が必要なんだよ」と教えなくてはならない。でないと、自分は優秀だと思って居たのに現実にはそんな思い込みが通用しないと解った時の落胆が大きなものになる惧れが有る。 当たり前の話に聞こえるが、現在の過保護教育論信奉者には却々に難しい話だろう。 「でんぐり返しが出来た」と自慢話をする我が子に対して、時と場合に依っては「当たりめえだよ!」とケナすくらいの気持ちであってもいいのだ。 最終更新日時 2008年7月24日 0時24分43秒
子供は何か有ると直ぐ泣く。子供を持たない人間には解り難いだろうが、同じ泣くにしても、「泣く程の事か」と云うケースも有るのに気付く筈だ。 ぶつけたとて左程痛い訳でもない。又、眠いから泣く等、所謂「甘え泣き」と云うやつである。 こうした甘え泣きでも無条件で受け入れてやるべきだとの主張が有る様だ。 曰く、どんなに理不尽な要求をしても受け入れて呉れると云う安心感を子供に与える事が出来る。夫れが親への信頼に繋がるからだ・・・と云う。 誰が言い出したのか、どの程度の統計学的分析が有って言っているのか知らんが、「無条件に全て受け入れてやる」等と云ういい加減な考え方には、個人的に賛同出来ない。 夫れに由って得られるメリットとデメリットを計りにかけて猶「そうしろ」と云うのだろうが、此の場合のデメリットを看過するのは余りにも危険だと言えるだろう。 言語を理解しない年齢ならば泣くだけだが、長じるにつれて欲求の種類も増し、要求がどんどん大きくなっていく可能性が大いに有るのだ。 ウチの子供と同じクラスに、時として大声を発する莫迦者が居る。 或る時、学校側で説明会が有るとて、父兄一同が学校に呼ばれた。其の時父兄は子供達とは別の部屋に通されたのだが、其処は子供達の部屋とは中庭を挟んで隣り合った部屋であった。 教師の説明が淡々と続く裡、中庭の向こうの子供達の部屋の窓から身を乗り出して、「ちんこー!まんこー!」と大声でこちらに向かって叫び始めた奴がある。例の莫迦者である。 其の子供の親も勿論我々と偕に説明を聴いていた訳であるが、其の親がどうしたかと云えば、子供の方に顔を向けて、こっそり手を振って微笑んだのだ。 普通なら叱りつけるか、それが不可能なら尠くとも愧じるのが普通であろう。微笑んで手を振るとは、全くの常識知らずと言わざるを得ない。 不断(誤字ではない)から何でも要求を呑んで遣り、叱る事をしないからこういう莫迦者がのさばるのではないか。 こういう莫迦者を造ってしまうのを少しでも危惧するなら、これは矢張り幼児期に或る程度我儘を赦さない姿勢を示しておくべきなのだ。 幼稚園に入ったら先生が常識一般教えて呉れるだろう等と呑気に構えて居る親があるが、とんでもない。最近の幼稚園ときたら、先生に対してタメ口悪口雑言は当たり前。子供が何をやらかしても叱り付けたりしない。幼稚園の拘束時間中にちょっと転んだ、擦り剥いた等は、一々報告して来る上に謝罪迄して来る始末だ。クレーム魔の親(モンスター・ペアレンツ)を恐れての事だろう。私立で経営が懸かっていると来れば、昨今の社会状況からして已むを得ない部分も有ろうかとは思うが、斯様な為体となってしまった幼稚園に預けても、迚もでは無いが良識等備えられようとは思えない。矢張り飽く迄親が教えなくてはならないのだ。 其処で「甘え泣き」の時点からの教育を提唱するのであるが、私は至って簡単な方法を採っている。「甘え泣き」だなと思ったら、すかさず「何だよ!」と言って遣るのである。 無論初めは向こうも意味が解らないが、人間とは面白いもので段々解って来る。 「何故泣きたいのか」を自己分析しようと迄はしないが、自分の要求が正当性を持たない事には気付き始めるのだ。 是は夜泣きに対しても応用出来る。 夜泣きで「ぅぅううわあああ」とフェイド・インして来たら、「何だよ!」とやるのである。 子供は一瞬考えた様な貌をして、直ぐに眠ってしまう。 言う迄も無く、是は日頃から覚醒時に何度と無く「何だよ!」で泣き歇む癖を付けさせておいて初めて可能と成る訳だが。 無論、何をしても夜泣きの場合には通用しない子供も居るだろう。効果の程は飽く迄個体差が有るが、試してみる価値は有ろうかと思う。 最終更新日時 2008年6月4日 0時9分56秒
2007年6月の記事で情操教育に触れたが、情操教育とはウィキペディアに拠れば、 「情操教育(じょうそうきょういく)とは、暗記偏重の知識の教育、数学、理科、社会に対して、感情や情緒を育み、創造的で、個性的なこころの働きを豊かにするための教育、道徳的な意識や価値観を養うための教育で、小中学校の教科では、特に道徳、図工、音楽、保健体育などを指していわれるものである。また、国語教育も、文学作品の鑑賞などにおいては、情操教育の性格を持つ。」 (下線著者) んだそうだ。 NHKが教育とは無関係かとも思われるおばけ話の劇を放送するのもこれが目的なんだろうと好意的な見方をするなら、以下のおばけ漫画も同様の理由で一読の価値アリか。 「七次元のエリア」 という少女マンガだ。 朝日ソノラマの雑誌「本当にあった怖い話」に連載されていたのだが、この「本当にあった怖い話」という雑誌は、「実話である」というのがウリらしい。 随ってこの「七次元のエリア」も、実話の形式で以て描かれている。 余談だが、朝日ソノラマという会社は潰れたんだか何だかで、親会社の朝日新聞社が「本当にあった怖い話」の刊行を引き継いだんだそうだが、次第に反日・親中国的な内容に成って行きそうで、反日プロパガンダに染まってしまうであろう少女達が大人に成った時の事を考えると、別な意味で怖かったりする。 さて、「本当にあった・・」という雑誌に載っている他の漫画は大抵、 「読者からこんな相談がありました」 とか、 「読者からこんな投稿がありました」 という内容を元に漫画にするという体裁であるのだが、この「七次元のエリア」は、実在の声優・津久井教生氏(NHKの子供番組のキャラクター「ニャンチュウ」の声の人)の体験談を元に漫画化されている。 此の漫画は、かみさんが買って来たのをちょっと見ただけで、直ぐに処分されてしまったので余り内容を覚えていないのだが、津久井氏は霊能者ではないが、「霊感が強い程度」といった紹介のされ方をしていた。 先に申上げた様に、この漫画は津久井教生氏の体験を漫画化するという体裁なのだが、何しろ体験談を語る当人が「霊感が強い」というだけだからか、霊能者の語る同誌の他の漫画よりも一冊当たりのエピソードが尠い。 それゆえか、漫画の初めには最近の体験談を紹介していたものが、次第に「昔の体験」を無理矢理思い出して、今誌上で発表するという形式になってゆく。 パターンとしては、慥か津久井氏が体験談を語った後、決まって其の現象に対する津久井氏の分析がイチイチ付加されるといった流れだったと思ったが、挙句の果てには、エピソードが無くなったのか、自分が体験したわけでもない「霊現象一般」の分析にと移っていき、遂には「只の分析漫画」にと変貌を見せる。 イチイチ憶えてはいないが、その分析も某スピリチュアル・カウンセラーの様に、霊感を以て知った真実というわけではないらしい。 ならば既知の科学に当て嵌めての分析かというと、それも違う様で、結局のところ、「単なる推測」。 いやいや、「推測」と云うのは或る程度しっかりした判断材料を元に推し量る事で、其の意味からは「憶測」が適当か。 いやいや、分析を聞いているとどうも、失礼乍ら「憶測」と云うにも不充分と思える内容で、行き着く處「只の妄想」と言った方が早いか。 例えば本の題名でもある「七次元」というのは、そも如何なる意味かと申すに、 「霊現象はこんな高次元のレベルで初めて起こす事が可能なのではないか」 と云う事を説明するのに用いたキーワードなのであるが、「次元」とは云え別して数式上で表した物理学的概念でも何でもない。 では何かというと、一言一句彼の主張を憶えてはいないので、要旨として説明すればこんな感じか。 「地球を一次元とすると、太陽系が二次元。銀河系が三次元・・・といった様に段階を上がり、七次元あたりのエリア(レヴェル)で初めて起こせる現象なのではないか」 みたいな意味不明な説なのである。 物理を勉強して言っている訳ではなく、調べれば解るのに敢えて物理を勉強せずに勝手な「次元」の定義を新たに造った上での「七次元」。 此の時点で、そもそも話の根拠が恠しいのに皆気付くだろうと思われる。 多次元宇宙論等と云う言葉もあるが、無論そんなのとは無関係な理論である。 彼の考え方だと、四次元は銀河群。五次元は銀河団。六次元は超銀河団で、七次元はさしずめ宇宙の蜂の巣構造とでもなるのか。 宇宙空間を限界近く迄巨視的に見たからといって、其処に「枕元におっさんの幽霊が立つシステム」の原理を見出せるんじゃないかという発想自体が、根本的に間違っている様な気がするのは私だけだろうか。 NHKも、どうせ「妖怪学校の人形劇」みたいな嘘話を公共料金を使って放映するなら、寧ろこの位荒唐無稽な発想の話を番組にした方が、子供の情操教育に劇的な効果が現われるんじゃないのか。 最終更新日時 2008年4月19日 1時14分41秒 |一覧| |
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