テーマ:旧い旧い洋画(393)
カテゴリ:映画
冒頭から映画の話でなく恐縮だが、鳥飼玖美子『歴史をかえた誤訳』新潮文庫 2004年を読んでいる。著者は、国際会議やテレビなどの同時通訳者として活躍し、テレビの英会話講師も務めた方、とのこと。たまに私が訪問する、アメブロのenglishtherapyさんのブログとも少し重なる分野かもしれない。
この本では、誤訳にまつわる豊富なエピソードが連ねられる。ポツダム宣言に対し、日本は「黙殺」回答したが、その英訳は「ignore」。二つの言葉のニュアンスに生じる違いから、広島・長崎に原爆が投下される・・・というシビアなものから、芭蕉の「古池や~」の蛙は複数(ラフカディオ・ハーン訳)か、単数(ドナルド・キーン訳)か?などの問題まで。日本語と英語の間に生じる軋轢を、プロフェッショナルらしい観点からとらえた、好著であると感じる。 そこで、表題のゴダールの映画である。 この日本語のタイトル、響きが非常に好きだ。もちろん、同タイトルの沢田研二の曲も、名曲だと思う。私が初めて「これが欲しい」と母に言って買ってもらったレコードがこれで、小学1年生だったと記憶している。テレビでは、深くかぶったソフトを取り上げ客席へ投げるジュリーの姿に、幼いながらもシビれたものだ。 話を本題に戻そう。ご存知の方も多いと思うが、この作品の原題は『A bout de souffle』である。恐らく英語圏で使われたポスターであろう、『Breathless』というものを見かけたことがあるが、これは原題に忠実な英訳と言える。 映画のラストで、ミシェル(J.P.ベルモンド)がパトリシア(J.セバーグ)の密告により警察に追い詰められ、撃たれてしまう。ミシェルはパトリシアに「君は本当に最低だ」と言い残し、絶える。「最低って、何のこと?」とパトリシアは放って、振り返る。まさに、原題にふさわしい『息切れ』である。 一方の、日本語の『勝手にしやがれ』である。 盗んだ車を運転しながらミシェルがカメラ(観客)を覗き込み、吐き捨てるように話す場面。ほぼ最初の部分で、この演出はとても挑戦的だ。字幕では「海が嫌いなら、山が嫌いなら、街が嫌いなら、勝手にしやがれだ!」と出る。この先制攻撃に、驚かされる。勝手にしやがれ。タイトルともなっているこの言葉、ほぼ映画のイメージを決定してしまう。 さて、この最後の一言「Allez vous faire foutre!」だが、「そんな奴ぁ、あっち行け」という感じになると思う。これが、勝手にしやがれ、ということになっているのだが、その訳ではニュアンスが違うように思えて仕方がない。 先のジュリーの『勝手にしやがれ』は、「寝たふりしてる間に、出て行ってくれ」と言う。それは、引き止めたいけれどもできない、という複雑な心境から発せられたものであり、単純に「あっち行け」と相手を追い払う感覚ではない。ジュリーでなくとも、「勝手にしなよ」と私たちが言う時は、何かと世話を焼いてやったのになんてことを、というような、愛憎入り乱れた心境があるものだ、と私は考える。 『勝手にしやがれ』・・・響きは良いのだが。どこか違和感をおぼえる、この和訳。誤訳の一つと呼べるだろうか? とはいえ、忠実な訳で『息切れ』としてしまったら、映画としてあまり興味をそそられないだろう、とも思う。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2005.02.16 01:13:04
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