「画家のアトリエ」クールベ 1855年 オルセー美術館
「画家のアトリエ」クールベ 1855年 オルセー美術館 これはリアリズムの巨匠クールベの代表作「画家のアトリエ」です。正式なタイトルは「画家のアトリエ。私の7年間に及ぶ芸術的(および道徳的)人生を決定づけた現実のアレゴリー」です。タイトルから想像可能なように、クールベが1848年の2月革命を契機に、リアリズムの道を歩み始めてから7年間の、人生の集大成と言えます。同時に、事実上絵画の世界での「リアリズム宣言」と見做されています。 サイズはもう一つの代表作「オルナンの埋葬」とほぼ同じ幅598CM、高さ359CMで、なんと7枚もの画布を縫い合わせて作られています。 ところでクールベは、制作当時、ナポレオン3世のフランス政府美術担当者であったニューウェルケルク伯爵から、1855年のパリ万博用に。フランス帝政の威光を表すような大作の制作を依頼されました。しかし共和主義者であったクールベは、その美味しい帝政政府の申し出でを断ったうえで、一画家として14点を出展しました。その結果11点のみが入選して、この「画家のアトリエ」と「オルナンの埋葬」「シャンフルーリの肖像画」の3点は落選しました。それに憤慨したクールベは、独自に、木製の個人パビヨン「リアリズム館」を、博覧会場の横のモンテーニュ通りに建てて、この落選2点を含む40点を展示しました。今でこそ画家の個展は当たり前ですが、当時のフランスにおいて、個展は皆無であって、しかも博覧会場の横で、官展に対抗する形で行なわれた個展と言う点においても、また作品のそのものも革命的でした。 この絵が革命的だった理由として、次の4つの要素を挙げることができます。 1.1667年に王立アカデミーによって定められた「絵画のヒエラルキー」によって、絵画の中で最も制作が困難でかつ高貴なジャンルは「歴史画」(宗教画を含む)であって、それに、肖像画、風景画、静物画と言う順に続きます。ところが、「画家のアトリエ」には、これらの異なるジャンルの要素がすべて包括されていて、従来のカテゴリーの区分が困難です。クールベが200年も続いていたアカデミーの美的規範に挑戦状をたたきつけたことは明らかです。 2.画中には、ナポレオン3世から名もない庶民までが登場していて、第二帝政期のフランス社会の縮図となっています。 3.画面左を細かく観察するなら、第二帝政への痛烈な皮肉が込められています。 4.国主催の万博会場の展覧会の真横に、自分で勝手に個展会場を建設して自作を約40点も展示したことは、フランスの歴史上、最初の試みであり、美術作品の価値を、国が任命した審査員によって決められることへの、公然たる抗議でした。 この大作で彼が主張しようとしたことは、友人であり作家でありリアリズムの擁護者でもあったシャンフルーリーに送った手紙で明確に示されています。 その手紙の中に「画家のアトリエ。私の過去7年間の芸術活動を決定づけた現実のアレゴリー」という有名な一節があります。それに「私のために何かしてくれて、私の活動と思想を支えてくれた人たちである。」とも書いています。 また、「リアリズム館」で配布されたパンフレット上には、「私自身の考えによって、道徳観や思想、現代の状況を、単に画家としてではなく、一人の人間として表現したい。一言で言うなら『生きた芸術』を創り出したい。それが私の目標です。」という歴史的な宣言を行いました。それでは。彼の過去7年間の制作活動と、彼の友人達が、どのような形で画面上に表現されたのか見てみましょう。 まず画面は、中央部と左右の三つの部分に分かれます。中央はクールベ自身がキャンバスの前に座り、右のグループにはクールベの有名無名の友人達が描かれています。左には、ナポレオン3世を筆頭に、金持ち、大臣、無名の農民や労働者達が当時の社会を象徴する縮図として描かれています。 それでは画面中央から観察してみましょう。イーゼルの前に座る画家の姿はもちろんクールベ自身です。しま模様のあるエリのシャツを着た自画像は、前年の1854年に制作されていました。写真の顎髭の男の肖像画がそれです。 制作途中の風景画は、石灰岩のがけがあることから用意に故郷のフランシュ・コンテ地方の風景だと想像できます。昔、この絵がルーヴル美術館に所蔵されていた頃(現在はオルセー美術館)この絵を解説する日本人観光ガイドさんたちは、「かつてはこんな風に、風景画を外で描かずにアトリエの中で描いていたんですよ」と説明していました。 しかし屋外写生が好きな画家であっても、画面サイズが大きくなると物理的な理由でアトリエ内で風景画を描くことになります。そしてモデルの女性がシーツで身を被いながら、クールベの作品に見入っています。彼女のドレスは、床にぞんざいに床に投げ捨てられています。 そしてその横には、白い猫がしっぽをフリフリしながら寝そべり、幼い男の子がクールベの作品を興味深そうに眺めています。この男の子はレントゲン写真の分析の結果、制作途中で書き加えられたことが判明しています。また画面が大きすぎて、7枚もの画布を継ぎはぎしていることがレントゲン写真で明らかになっています。 ここでよく見落とす大切な点があります。右上の白い円盤に注目してください。これは恐らく石膏で作ったリリーフだと思いますが、この部分を拡大しますと、内縁の妻ヴィルジニの姿が現れるのです。しかもこのヴィルジニの姿は、1849年に木炭で描かれた彼女の肖像画「寝入った読書する女」と瓜二つです。しかし、「画家のアトリエ」が制作された1855年は、このヴィルジニが別の男性と結婚してしまった年です。クールベはよほどヴィルジニのことが忘れられなかったのでしょう。 でも、ここでもう一つ大切なことに気がつきます。画家の周りを取り囲むヴィルジニの姿とモデルの女性、犬と少年、さらに風景画の左でうずくまって赤ん坊に乳を飲ませる母親の姿。これらは、まさに彼が願ったにもかかわらず、かなわなかった幸せな家庭の情景だったのです。しかも、ヴィルジニとの間にできた男の子デジレは、この絵が制作された1855年には8歳でした。画面上の男の子の年齢にほぼ一致します。つまり彼は「私にも家庭らしきものがあった」ということを言いたかったのでしょう。 次に右の友人達のグループを見ていただきましょう。一番右端の本を読む男性は、「悪の華」で有名な作家ボードレールです。ここに描かれたボードレールの姿は、1848年頃に制作された彼の肖像画が基になっています。2月革命のバリケード戦に自ら加わったというボードレールがここに描かれていることは、この絵でクールベが何を言おうとしたか知る上で貴重な鍵となるでしょう。 また、ここで興味深いことがあります。ボードレールの頭の左側を注意して見てください。かすかに消された女性のあとが見えます。これはボードレールの愛人だったジャンヌ・デュバルです。「画家のアトリエ」が制作された1855年にはボードレールはこの女性と一緒に暮していましたが、翌年にいったん別れています。恐らくその時に、ボードレールから消してくれと頼まれて消したのでしょう。 そしてその横にはアトリエを訪ねてきた身なりの立派なカップルが描かれています。これは絵を買ってくれるお金持ちの支援者を表しています。このカップルの名前は判明していませんが、一説ではサバティエールという美術品の蒐集家で、その奥さんは歌手のカロリンヌ・サバティエールと言われています。 そしてこのカップルの下では、恐らくこの夫婦の息子でしょう。少年が一生懸命本を読んでいます。奥の入り口の横では若いカップルが抱き合っています。世間をはばからずに愛し合える自由な愛の主張でしょうか。でもよくこのカップルを見てください。男性の部分が影のみ描かれています。しかもX線写真を見ても、この男性の部分は最初から影として描かれていました。いったい影は誰なのでしょうか。恐らくモデルとなった女性は、この絵が制作された1855年に他の男性と結婚してしまった元愛人のヴィルジニで、影の男性はヴィルジニに逃げられて光りを失ったクールベ自信ではなかったでしょうか。 そしてカップルの左下で、椅子に座るのは、友人の作家シャンフルーリーです。また一番奥の中央の男性は、無政府主義の父とも言われるプルードンです。彼も2月革命のときは自ら参加し、その後共和政下で大統領になったルイ・ナポレオンを批判したために3年間牢獄生活を送りました。そのプルードンの右で半分身体が隠れているのは「オルナンの昼食の後」で登場した、ウルバン・クエノ。そしてその右が、詩人のマックス・ブッションです。 さらに判別つきやすい左の二人をご紹介しましょう。左に見える赤い服を着てバイオリンを持った男性は幼友達で音楽家のプロパイエットです。その右に立つひげの立派な男性はお金持ちの蒐集家のブリュイアです。このブリュイアは、もう一つの代表作「出会い」別名「ボンジュール・ムシュー・クールベ」でも中央に描かれた大切なスポンサーでした。でもモデルになったブリュイアは万国博覧会のときパリにいなかったためと、それに展覧会後は、クールベはこの絵を木枠からはずして丸めてしまったために、一度もこの絵を見たことがなかったようです。 それでは左のグループを観察してみましょう。ここには社会の色々な階級の人々が描かれています。まず一番左の手提げ金庫を持ったユダヤ人は、ナポレオン3世を支援した銀行家アシール・フールに似ていると言われています。当時の社会主義者の中でも、反ユダヤ思想が根強かったことは、残念ながら忘れることができません。 その右に見えるのはカトリック教会の神父さん。カトリック教会は、1851年12月2日のナポレオンによるクーデターを支持しました。そこでクールベは神父さんを友人のグループには入れていないのです。その右に茶色のコートを着た1793年の第一共和政の年取った共和主義者が立っています。また床にころがる、ギターとナイフは、ロマン主義の小説ではよくナイフや短剣がでてくるのでロマン主義のアレゴリーと言う見方も可能です。そして猟銃が肩の上にのぞく狩猟者はイタリア統一の英雄ガリバルディに似ています。その少し右に黄色い帽子をかぶった草刈の農民と、青い服の別の農民の姿も見えます。この二人は故郷の農民達のアレゴリーでしょう。 そして狩猟者の前で跪いて布地を売っている行商人は、ナポレオンの内務大臣で、帝国のツーリストといわれたペルシニー伯爵です。旅行者ツーリストとあだ名をつけられただけあって、行商人としてここに登場するわけです。右側にシルクハットをかぶって陰気くさい紳士は。権力にべったりのジャーナリストのエミール・ドウ・ジダルダンです。 そして風景画のすぐ左で、床に座り込んで赤ん坊に乳を飲ませているのは、飢饉に見舞われたアイルランドの農民です。偶然の一致かもしれませんが、クールベには後に、大変美しいアイルランド人のジョーと言うモデル兼愛人がいました。下の写真はそのジョーの肖像画です。ジョーの後ろに見える新聞紙上の骸骨は、新聞でナポレオンを批判したがために牢屋に放り込まれたプルードンの例でも明らかな、第二帝政下での言論の自由抑圧を暗示しています。 シルクハットのジャーナリストの後ろで、腕を組んでいるのはストライキ中の労働者または失業者です。フランス語では、何もしないことをse croiser les bras「腕を組む」という表現をするからです。次に解釈が難しいのが風景画のすぐ後ろに見えるギリシャ神話のヘラクレスと奥の三角帽子をかぶった中国人の存在です。でもこの二つの要素がこの絵の解釈の鍵になるのです。ヘラクレスと言えば何を思われますか。怪力の持ち主でした。当時のフランスに「トルコのように強い」という表現がありました。つまりヘラクレスは当時のトルコのアレゴリーなのです。このトルコのアレゴリーと中国人は、ナポレオン3世によるトルコと中国への商業外光政策を批判しているのです。 最後にギターの前に座って、鉄砲を持ったあごひげの男性は誰でしょうか。左側の人物群では、一番大きく描かれています。持っている鉄砲と猟犬によって密猟者だと思われますが、この男性はX線写真の分析によって制作途中で描き加えられたことが判明しています。ところでこの密猟者は,ナポレオン3世に大変よく似ています。ナポレオン3世を密猟者の姿で描いた理由は、彼が1851年12月2日にクーデターで、できて間もない第二共和制を転覆して,帝政をしいたためでしょう。つまり、画面左側では、クールベはナポレオン3世による第二帝政を、自分のアトリエの光景と称して、痛烈に皮肉っていたのです。 ――――――――――――――――――――――― 8月21日(土)午後3時と8時に、ZOOM講演会「社会リアリズムの巨匠クールベ」を開催します。どなたでも参加可能です(参加費4000円)また、「万人のための美術史」のコロナ禍での活動継続のために、寄付も募っています。