国語の転機
ゆとり教育というのは、先生にとっての「理想」だった。
ぜひとも、それにみんな乗ってほしかった・・・。
国語は言葉と文字の読み方を教える。
そこから先は自由である。
国語は「~もある」の「側」を伝える科目だった。
「~もある」を疑似体験させる科目だった。
だから、自然に生き物の生態を伝える文章が頻出だった。
そして、国語=雑談という形も授業としてありえた。
ここは「~もある」を伝える場だということが、
先生にとっての共通認識だった。
しかし、現実はちがった。
生徒は伝えられているものが、
「何」であるかを理解できなかった。
意味がわからなかった。
昆虫は昆虫にすぎなかったし、
なぜ昆虫の話を先生がしているのか、
理解できなかった。
人は物事をありのままに見ることができない。
その事実を改めて突きつけられた。
共通の前提が崩れている。
そして、国語は変わった。
価値観は多様だ、相対化するものだ、「ということ」を、
伝える科目になった。
「内容」ではなく、「ということ」を伝えることになったということだ。
能舞台を見せるのではなく、能とは何かを伝えるのと同じだ。
本当なら、それくらいのことは、学び手が常識として持っていてほしかった。
小学生のころくらいは「~ではない」部分だけを見せてやって、
中学生くらいになってから、社会とか人生とかそういうものを考えて行けばいい。
それで十分「間に合う」というような「感じ」があった。
しかし、「~ではない」は、
現実と対比することでようやくぼんやりと見えるものだった。
現実を十分に生きざるを得なかった世代において、
ようやく可能な教育だったということだ。
「貧しさ」の影を常にどこかに感じられた世代のことだ。
中学生になった子どもたちを受け取って、
戸惑ったのが中学入試を作る先生たちだろう。
すでに子どもたちの価値観が固まっていることに。
「~もある」ということを教えてきたはずの子どもたちが、
「現実」を見ないことを学んでいる。
そういう危機感から、中学受験のテーマは大学受験と同じものになった。
象徴的な出来事としての9・11を中学受験は無視した。
その年の現実社会の動揺を覆うように「きれいな入試」が行われた。
しかし、今年、中学受験には「現実」が色濃く反映されている。
心の働きとしての文化を「取り戻そう」とするものに変わった。
転機は2006年あたりだと思われます。
それまで国語の先生にとって、
文章は加工自由の死んだ文字だったのが、
人だという認識へと変化したのは、
著作権の問題も大きかったと思います。
こうやって今の国語があります。
国語というものをどうとらえるか。
先生によって意見が分かれるのは、こういう理由です。
もちろん親も同じです。
思うのは自由。しかし、思ったことは正しくはない。
考えるには、自分の外側に根拠が必要です。
自分が根拠としたものが、
他人の思ったものなのか、考えたものなのか、判断する必要があります。
しかし、それを見分けることは、自己中心であるほど困難です。
考えずに「思う」ままに判断するということを、
子どもたちは親から学んでいる時代です。
そして、なぜ「思う」ことがこんなにずれるのか、おかしい!
自分は間違いなくこう「思って」いるのに!!
これが国語の出来ない子の苦悩です。
自分が「思った」ところだけを何度もなぞるように見る。
そして、これだけ見てもないということは、
先生が間違っているんじゃないか?と「思う」。
身につけるべきは、「考える」ことです。
そのために学んでください。
学びはゴールではなく、考えるための前提です。
Last updated
2012.02.17 12:34:59