年金
年金は、未納になっていたところがほうっておいてもうまることはない。
勉強というのは積み立てるものなので、そういうものはおのずと格差を呼び寄せる。
小学校低学年の漢字テスト。
入試で出題される低学年の漢字を用いた熟語をまとめたものですが、
低学年の子にやらせても、高学年の子にやらせても、結果は同じです。
なぜなら低学年から高学年になるに従って、その学年の漢字と熟語は練習しますが、
低学年の漢字はそのときの語彙力に合わせた平易な言葉しか学んでいないので、
低学年の漢字を用いたそれなりの語句というのは学ばないまま過ぎているからです。
つまり、学年が下がるほど、出題される熟語のレベルは上がり、正答率も下がるということです。
こういうのは、やろうと言われなかった、という言い訳が成り立つけれど、
普通の漢字一つとっても、覚えようとしないまま過ぎ去ることが出来て、
そういう未納の年金が膨らんでいるけれど、日常には支障がないから気がつかない。
さまざまな常識もそう。
比喩表現を理解するためには、両者の共通点を引き出すことが求められる。
が、引き出せるかどうかは、常識という「慣れ」が大きな要素だ。
5年生は、
動物園だったクラスが水族館か植物園になったという比喩を100%理解できる。
しかし、コンクリートジャングルの日本という比喩を理解できない。
それなら、6年生の入試の時点までに、
コンクリートジャングルを日常の中で知る契機が、
あるかと言われれば、ない。
こうやって、同じものをみても全く異なって伝わることが、
自分というフィルターをはさませたときに往々にして起きる。
「二人の間に細い道がついた」というのを、なぜか仲たがいしたと思ってしまう。
「海岸の町は夏になると急に他人の町になる」というのを、人が減ると思ってしまう。
こういう誤解が、人からさまざまな言葉が発せられたときに起き続けている。
そういう蓄積でその人は言葉を理解し続け、人格を形成させていく。
同じ言葉をしゃべっているがゆえに、通じていないということに気づかない、
と女学院の文章にあったが、まさにそのことの大きさをかみしめる日々です。
低学年の漢字テストを高校生にやらせてみるとどうだろう?
実はまったく変わらない結果が出る。
勉強しないんです、という、低学年の子も覚えられるものが、
高校生にも覚えられない「まま」で進んでいる。
覚えようと思えない、どうしても思えない、動かない。
勉強するとは決別することなのか?
すでに過ぎ去った、あったはずの可能性に。
動くべきときに動けなかったという十字架を背負い、
自分のふがいなさを否が応でも引き受けさせる。
現実を生きるとは、そういうものなのか?
半身を沈みそうな船に置き、
もう一方の手で、自分の生き方を模索するのが、
青春のあり方だと考えることもできる。
自分は今やっている勉強が向いていない。
じゃあ!? どうする?? なにができる!?
こういうあり方のことだ。
しかし、未納の年金が増えるほど、
年金という制度そのものが崩壊していく。
いや、制度は改めればいいけれど、
年金という「考え方」そのものが崩壊していくことを改められない。
教育も同じだ。
全部をふまえたうえでも、
王道をまっすぐ歩める人を育てることが、
どうも必要な感じの世の中である気がする。
Last updated
2012.02.23 12:39:48