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2015.07.28
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カテゴリ:江戸珍臭奇譚 
ユートピア.jpg

 お絹の母のお梅は顔や手が溶けていくように爛れて、醜い姿態になっていた。医者にはもう無理だ、体中に毒が廻っている。三月も持たねえだろうと、見放されていた。
 お絹はそんな母のお梅の面倒を見ながら、行燈の灯りで褌に針を通していた。真っ白な木綿の六尺褌ではない、紐に前垂れを付けただけの越中褌である。損料屋源左衛門から貰う端切れを上手に縫い合わせて褌を縫うのである。
 遊女や芸者たちがその褌を囃し立てものだから、遊び人は競ってお絹の縫う褌を締め、ついには、中村座の歌舞伎俳優までもがその褌で舞台に上がったものだから、お絹の縫う褌は増々人気が上がり、損料屋源左衛門も縫い賃を一枚180文にまで上げてくれた。『ふんどしお絹』という、嬉しくない綽名までついたほどだった。

 お絹はその縫い賃で、治るかどうか解らないまでも、日本橋の薬種問屋の赤目屋で、長命寿丸薬という、一包五十文もする高価な薬を買ってはお梅に飲ませていた。その長命寿丸薬の効き目があったのか、三月も持つめえと云われた母のお梅は死にたい死にたいと、毎日のように愚図りながらも死なずにいた。
 たまに、気分のいい日には、腐りかけた顔や手を手拭いで隠して外へも出かけるが、子供らにはお化けだとからかわれ、通りすがりの者には鼻を摘んで、気味悪がられ、顔を背けられた。
 お絹は、そんなお梅の面倒をよく見た。親孝行な、ふんどしお絹だと、町の評判であった。お絹には母のお梅に、誰にも言えない深い恩義があったのだった。死ぬまでちゃんと面倒を見ることがせめてもの恩返しだと、心に決めていた。

 信濃の国、飯森藩は信濃の山中に位置し、鹿山村はさらに山奥に入った所だった。ほとんどが崖地のような痩せた土地で、田畑が少なく、多くの収穫は望めなかった、そこへ、日照り、大雨などで、凶作が続き飢餓になると、生き残るためとはいえ、病気の老婆や役立たずの六十を過ぎた年寄りは姥捨て山に棄て、女子は十三になると、口減らしのため、江戸へ子守、飯炊きなどの下働きの奉公に出された。
 僅かな金銭で親の元から売らていくのが当然のように繰り返されていた。花のお江戸で奉公と、聞こえがいいが、実際は身売り同然である。古里へ帰ってくる者は少なかった。帰るにも帰る場所がなかった。
 貧しさゆえに、奉公にだすと嘘をついて、娘を岡場所に売る親もいた。村人もうすうすそのことは知っていた。だが、残された家族が潰れ百姓にならないようにするには、他にに方法がなかった。お絹の両親も藩の役人、江濃往来から、貧乏百姓にとっては目の玉がとび出すくらいの二両と云う大金に負けて、お絹を手放した。

 飯森藩藩主、松永信濃の守義道は娘を岡場所に売るということはきつく禁じ、飯森藩では御法度だった。あくまでも江戸の商家や武家への奉公である、その斡旋を藩がしていた。だが、江濃往来はかって女衒をやっていたこともあり、娘を岡場所に売ることに躊躇いもなく、また、その方が銭にもなり、貧した百姓が金銭でその話に転ぶことはままあった。
 お絹の場合もそうだった。それでもおまんまは食べられる、いいベベは着られる、村にいるよりはいい、せめてもの親のいい訳であった。鹿山村で残された者が潰れずに生き伸びていく苦渋の選択だった。
 年寄りの婆を山に棄捨て、娘を売る、そうしなければ生き繋いでいけない貧窮の藩であった。信濃の国の飯森藩は極貧藩だ。けつの穴から糞もでない貧乏藩だと、そんな噂が江戸の大名の中で拡がっていた。

 藩主、松永信濃の守義道はそんな噂が江戸中に広まっていくのを苦渋の表情で耐えていた。
「もう暫くの辛抱じゃ、のう、孫左衛門」
 老中の矢川孫左衛門に辛い顔をして、同意を求めていた。
「御意、殿の御心中お察し申し上げます。誠に苦しゅうござりますが、もう、暫くでございます」
「ところで、幕府の隠密はまだ例のあれを探っておるのか?」
「はっ、しつっこい奴らです。だが、信濃の国が屁も出ないほどの貧しさがわかりかけてきてもいます」
 信濃の国、飯森藩の鹿山村を流れる鹿乃川から砂金が見つかり、その川を辿って、ついに金山を発見した。藩主、松永信濃の守義道はその隠し金山で、親を捨てなくてもよい、娘を売らなくてもよい、民百姓が腹いっぱい食べられる幸せな国を作ろうと考えていた。

 一方、幕府は財政危機に瀕しており、徳川家慶と老中首座の水野忠邦は天保の改革を強引に推し進めていた。このままでは立ち行かぬ、何かよい方策はないかと考えた末、大名取り潰しという、非常手段に辿り着いた。徳川幕府安泰のためには、どこかの藩を犠牲にし、幕府直轄地つまり天領とする。そうすれば、この難局は乗り切れる。したがって、潰すのはできるだけ財政豊かな藩が良かった。
 すぐさま、全国の藩に隠密を走らせた。大名の財政事情を調べ、お家騒動、後継ぎ問題、不審な動き、何でもよい、改易にあたる理由を探し、難癖をつけるのである。狙われた藩は必ず潰される。今、その餌食にされそうなのが、飯森藩であった。
 たかだか一万二千石の小藩ではあったが、隠し金山があるのではないかという噂が流れていた。飯森藩藩主、松永信濃の守義道は大がかりな一芝居を打って出た。飯森藩は親を捨て、娘を売らねば成り立たぬほどの窮鼠な藩だ。飯森藩は草も生えぬほどの貧乏だ。そんな藩を取り潰したところで、幕府に何の利益にもならない。
 その芝居が功を奏してか、飯森藩の悪評が江戸の大名たちに拡がっていった。やがては、老中水野忠邦や将軍徳川家慶の耳にも入るはずだ。

 藩主松永義道はこの危機を乗り越え、飯森藩を必ず夢のような国に作り変えてみせると確信していた。それまで、もう暫くの辛抱だ。
 信濃の国の姥捨て山のその奥には、誰にも知らせてはいない、極楽寺を建て、そこで、捨てられた年寄りを庇い、食料を秘密裏に届けさせていた。歳を取ったよぼよぼの爺さん婆さんは毎夜、そこで、唄を唄い酒を飲み、天国のような暮らしをしていることを村人さえ知らない。隠密に知られたら一巻の終わりである。姥捨て山という、残酷話も、娘を売るという非情なことも、世間を欺く松永義道の策謀であった。


(つづく)

作:朽木一空

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最終更新日  2015.07.28 12:04:47
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