ブログを作る※無料・簡単アフィリ    ブログトップ | 楽天市場
000226 ランダム
清談ネオ (そのほか)楽天ブログ 【ケータイで見る】 【ログイン】
清談ネオ
ホーム 日記 プロフィール オークション 掲示板 ブックマーク お買い物一覧

コナボーの日記 [全11件]

2011.12.19楽天プロフィール Add to Google XML

根気に感銘を受ける

天和の確率
[前提条件]
牌は通常の34種類×4枚=136枚とします。
計算に影響する特殊な牌(花牌・白ポッチなど)は含まないものとします。
通常聴牌と認められない形の特殊役はないものとします。
[計算方法]
簡単な計算式では表せません。細かく場合分けをすれば計算出来ないことはありませんが、プログラムで数えて計算した方がはるかに楽です。
単純に全部の牌の組合せについて和了形であるかどうかを判断するのは、天文学的な時間がかかってしまい無理ですので、次のような手順で計算します。

(1) 七対子及び国士無双を除けば、和了形のうち、字牌、萬子、筒子、索子の枚数は、0枚、2枚、3枚、5枚、6枚、8枚、9枚、11枚、12枚、14枚のうちのいずれかです。
(2) 字牌及び数牌のそれぞれについて、上記の枚数毎に(n個の面子+最大1個の雀頭)となっている組合せの数を調べます。この時、全ての牌が対子となっている組合せ数も数えておきます。
(3) 4種類の牌の合計が14枚になる全ての組合せについて、組合せ数を調べます。ただし、雀頭は1つに限りますので、字牌5枚、萬子5枚・筒子2枚・索子2枚のような組合せは数えないようにします。
(4) 上記の結果から、七対子形となっていたものを除きます。
(5) 七対子の和了形の組合せ数を計算します。
 七対子の和了形のパターン数は34C7通り
 組合せ数は34C7×67通り
です。
(6) 国士無双の和了形の組合せ数を計算します。
 国士無双の和了形のパターン数は13通り
 組合せ数は13×6×412通り
です。
(7) (4)~(6)の合計を総組合せ数で割ることにより、確率が計算出来ます。
 総組合せ数は136C14通りです。
(8) プログラム上は、大して時間もかかりませんので、プログラムが正常に動いていることの確認も兼ねて、(1)~(3)と同様にして総組合せ数を求めています。この場合は、字牌と数牌のそれぞれについて、0枚~14枚全てについての組合せ数を調べて、4種類の牌の合計が14枚になる全組合せについて組合せ数を計算しています。

[計算結果]
まず、(2)の結果は次のようになります。

【字牌】
枚数 全パターン数 組合せ数 有効パターン数 組合せ数 対子パターン数 組合せ数
0 1 1 1 1 1 1
1 7 28 0 0 0 0
2 28 378 7 42 7 42
3 84 3276 7 28 0 0
4 210 20475 0 0 0 0
5 455 98280 42 1008 0 0
6 875 376740 21 336 0 0
7 1520 1184040 0 0 0 0
8 2415 3108105 105 10080 0 0
9 3535 6906900 35 2240 0 0
10 4795 13123110 0 0 0 0
11 6055 21474180 140 53760 0 0
12 7140 30421755 35 8960 0 0
13 7875 37442160 0 0 0 0
14 8135 40116600 105 161280 0 0

【数牌】
枚数 全パターン数 組合せ数 有効パターン数 組合せ数 対子パターン数 組合せ数
0 1 1 1 1 1 1
1 9 36 0 0 0 0
2 45 630 9 54 9 54
3 165 7140 16 484 0 0
4 495 58905 0 0 0 0
5 1278 376992 135 19200 0 0
6 2922 1947792 127 65272 7 1512
7 6030 8347680 0 0 0 0
8 11385 30260340 996 1748756 36 46656
9 19855 94143280 627 2742868 0 0
10 32211 254186856 0 0 0 0
11 48879 600805296 4475 47037380 0 0
12 69675 1251677700 2098 40399783 10 466560
13 93600 2310789600 0 0 0 0
14 118800 3796297200 13259 440593684 18 5038848

上記の表の値を使用して計算した結果が、次の通りです。

  パターン数 組合せ数
一般形 11498658 11353128141498
内七対子形 4668 1306741248
残り 11493990 11351821400250
七対子 5379616 1505948184576
国士無双 13 1308622848
総計 16873619 12859078207674
全組合せ 326520504500 4250305029168216000

以上により、天和の確率は
12859078207674÷4250305029168216000
=約0.000003025 (約1/330530)
となります。

なお、数牌の表の14枚のパターン数 118800 と組合せ数 3796297200 は「1色の数牌14枚が和了形である確率」の計算結果と一致しており、全組合せのパターン数 326520504500 は、「配牌の形は何通りあるか」で算出した値と一致していますので、双方のプログラムの計算結果が正しいことの確認にもなっています。
数牌の表の14枚の有効パターン数 13259 は「1色の数牌14枚が和了形である確率」の和了形のパターン数 13277 と異なっていますが、これは七対子の扱いの違いによるものです。数牌の表の14枚の対子パターン数 18 は 13259 通りのうちの七対子形かつニ盃口形のパターン数であり、この数を引いて七対子のパターン数 36 を加えると、13259-18+36=13277 であり、一致します。



「らすかるの家」さんから転載


Last updated 2011.12.20 00:50:46
コメント(0) | コメントを書く


Je me repose a la cafe dans ma village

コーヒーのお話 七章

 今日最寄の珈琲珈琲という喫茶店にいってきました。上品なお店でお値も張りますが、味は上等だと思います。さて入店してメニューをちらり。そこから色んなことを小一時間ほど考えてしまいました。今日はそのお話です。気楽に読んでいただければ幸いです。

さて、銘柄は以下の通りでした:
... グァテマラ、ブラジル、ブラジル・ピーベリー、マンデリン、タンザニア、コロンビア、エチオピア、フレンチ・ロースト、アメリカン、ハイマウンテン
でした。

まずやったことは分類(背景)。

1グループ=中南米(原産地)
グァテマラ、ブラジル、ブラジル・PB、コロンビア、アメリカン、ハイマウンテン(ジャマイカ)

2グループ=アフリカ(18世紀の三角貿易でアメリカ大陸から輸入か)
タンザニア(キリマンジャロとも)、エチオピア(いわゆるモカ)

3グループ=インドネシア(オランダの強制栽培1830。バリ珈琲も有名)
マンデリン

4グループ=知識不足でよくわからないw
フレンチ・ロースト

ちなみに自分はグァテマラをいただきました。おいしい!!

次に、ハイマウンテンだけほかより200円ほど高いことに気付く。張り紙をみてなるほど。ジャマイカでは近年ハリケーンがひどく、珈琲栽培もままならないらしい。本来あるはずのブルーマウンテンの代替品だからだそうだ。苗から出荷用の珈琲豆を収穫するには蒔(ま)いてから五年間はかかるらしい。このため、被害の少ない地域から応急措置的にハイを入荷しているのだとか。
日本の喫茶店でくつろいでいる僕らは200円を払えば普段通りのティータイムを満喫できるわけだが、ジャマイカの珈琲農家の生計がこれで壊滅したであろうと想像するとおしりがムズムズしてくる。僕にできるのはレジで御代を払うときに「おいしかったです」といいつつ内心現地の農家に感謝することだけであった。

その時また変なことを考えてしまった。そうか、珈琲は政治と本来密接不可分ではないか、と。

イギリスで18世紀後半に産業革命が達成されると、労働者がコーヒーや紅茶を買うようになった。それ以前はというと、イングランドやフランスの各地にコーヒーハウスという上流貴族専用の(というか彼らしかこのような奢侈品は購入できなかった)喫茶店がもうけられ、情報交換の場となった。思想、学問、政治、商売、さまざまな情報が集散する情報拠点となっていた。いつしかコーヒーハウスには新聞が置かれるようになり、世論形成の場となっていったのである。この意味でコーヒーと政治は密接だといえよう。
ちなみにイングランドで有名なコーヒーハウスはロイヅ(Loyds)によって経営されたもので、現在ロイヅはイングランドでHSBCと肩を並べる大手民間銀行であることに注目したい。

いろいろ考えたが、最後は単純に「またこよう」と思った僕であった。


Last updated 2011.12.19 23:13:40
コメント(0) | コメントを書く

大日本帝国憲法&日本国憲法

大日本帝国憲法と日本国憲法の比較のお話 八章

以前から試みたいと考えていたテーマです。

まずは大枠から。
... 主権の所在:大=天皇、日=国民
憲法の性格:大=欽定、日=民定
国家機関の位置付け:大=天皇直属で並立、日=議院内閣制
天皇の位置付け:大=統治権の総攬者「現人神」、日=国民統合の象徴
人権保障:大=「法律の留保」、日=基本的人権の尊重
戦力:大=天皇の陸海軍の統帥権、日=戦争放棄・戦力不保持・交戦権否定

次に国家機関の位置付けについて。

大日本帝国憲法では、天皇のもとに、
議会(衆議院と貴族院)、内閣、枢密院、陸軍、海軍
が全て直属していました。しかもこれらは並置されたので内閣と枢密院が衝突する(第一次若槻礼次郎内閣の総辞職etc)ことや、議会と内閣が同じ権限を有して衝突する(第四次伊藤博文内閣の総辞職)ことをも意味した。

とりわけ、統帥権が他の大権から独立していたことが軍部の暴走に繋がったことを考えると、今日の憲法でシビリアンコントロールが明記されていることにがえんじうる(軍部暴走の始まりは明治の軍部大臣現役武官制に根を持つと言って過言ではない)。
統帥権が独立しているということは、議会や内閣が軍令事項に干渉できないことを意味した(天皇の意向を否定することになってしまうので)。軍部大臣現役武官制で政党員が軍部大臣に就任できなくなったことで、軍部を抑制する唯一の手段が無くなってしまったのである。

今日、中学校の公民で、自衛隊に充当する軍事費の多寡を考させることには非常な重みがあるといわざるをえない。それは国民が(しかも国会内に限らず)軍部の予算決定に関与することであり、同時に国民が軍部暴走の抑止力となりうることをも意味しているからである。


Last updated 2011.12.19 22:58:23
コメント(0) | コメントを書く

日露戦争の意味

日露戦争の解釈についてのお話 六章

歴史においてひとつの出来事を解釈するとき、どの側面からとらえるのかということが非常に重要です。
 先日の「十字軍」の意義についても、文化面だけでなく
他に経済面から捉えればレヴァント貿易の活性化と北イタリア諸都市(ヴェネツィア・ジェノヴァ)の繁栄でありますし、宗教面からすればキリスト教世界の膨張、社会面からは教皇権失墜に伴う王権の伸長(17世紀の主権国家を想定しています)など、解釈は多様です。
... このように、出来事に関する正悪・正誤・優劣の価値判断をする前提として視点の設定が不可欠なわけです。

日露戦争は非常な重みをもつ歴史的事件と言って過ぎることはないでしょう。

日本国内の政治・外交史を主眼に置く高校日本史では、日露戦争は
「日本の列強入り」や「日米対立の始まり(中国権益を争うものとお考えください)」、あるいは思想面では「日清以来の国家主義への疑問」といった歴史的意義をもつものとして教わります。

一方、専ら国際関係の論じる高校世界史では、日露戦争について二つ(説にすぎない)の解釈を与えています:

1有色人種の勝利
   ⇒東遊運動(ベトナム)
   ⇒インド国民会議派カルカッタ大会
   ⇒サレカット=イスラーム結成(インドネシア)
   ⇒イラン立憲革命
   ⇒青年トルコ革命(ミドハト憲法の復活)
2立憲政治の勝利
   ⇒イラン立憲革命
   ⇒青年トルコ革命
   ⇒清朝最後の改革(科挙廃止etc)
   ⇒反清運動の高揚(辛亥革命の遠因)
   ⇒ロシア三月革命(第一革命、ドゥーマ設立・皇帝退位)

これらはいずれも日露戦争が各地のナショナリズム(この場合は民族主義の意)に影響をあたえたことの象徴です。

さらには日露戦争の後、日露関係は転じて親密になりました。1907年に英露協約や日露協約が締結されたことで、第一次世界大戦の構図が完成したという意味では、日露戦争がWW1の背景にあるととらえることも可能になります(誇張になっている可能性があるので専門家の方は、自分の不勉強をお許しください)。

今回私が言いたかったことは、歴史には無数の解釈があるのだからひとつの学説を必要以上に絶対視することは避けるべきだ、ということなんです。


Last updated 2011.12.19 22:57:02
コメント(0) | コメントを書く

アフガニスタン

アフガニスタンのお話 五章

 アフガニスタンというと9.11後、アル-カイダの根拠地とみなされたことが想起されます。しかしあまり「アメリカ色」のメガネを通しまたままではアフガニスタンという地域の特質が見えてきません。さあタイムマシンにお乗りください!
 ギュイーーーーン

... ここは紀元前3世紀のアフガニスタンです。イラン高原の延長にあるので山麓が険しいですが、興味深い建造物があります。ギリシア神殿です!いえいえアテネと間違えたわけではありません。実は紀元前4世紀のアレクサンドロス大王による遠征でギリシア人国家バクトリアが建設されていたのです。シルク=ロード上に位置するアフガニスタンは紀元後も東西の物資・人が往来する交易路と化し、インド化が進行していきます(仏教文化とヘレニズム文化が融合しガンダーラ文化を生む。バーミヤンの仏像(跡、はぁ)などは有名ですね)。
 
その後6世紀まではササン朝のもとでペルシア化が進みました(正倉院の宝物はアフガニスタンの影響を受けています)。やはり7世紀が大きな転機といえるでしょう。アフガニスタンではいち早くイスラーム化が始まり、容易に定着しました。

しかし10世紀にはいりサーマーン朝がアフガニスタンを支配したためイラン化が進み、ガズナ朝の成立によりインドのイスラーム化が促進されるこことなります。さらに、11から12世紀に渡り、北方騎馬民族が西走してきます(西突厥の末裔か?)。突厥が訛るとテュルク、すなわちトルコです。トルコ系の民族は戦闘能力に長けていたので、セルジューク朝などで軍人奴隷(マムルーク)として重宝されます。トルコ系民族の流入の結果、アフガニスタンはトルコ化して行きました。

なぜ現在このようなことがあまり認知されていないかというと、13世紀にモンゴル帝国に吸収され(チンギスによる征服、チャガタイによる建国)、文化遺産がすべて破壊されたからなのです。

こうしてみるとアフガニスタンは、ギリシア、インド、ペルシア(イラン)、イスラーム、トルコなど無数の異なる文化圏の結節点に位置する地域であり、歴史的価値が非常に高いといえます。内戦や対外戦争によって貴重な文化史料が失われたことは本当に残念です。また、現在のアフガニスタン共和国が成立したのは1980年代のはなしですから、銃器に市街戦といったイメージはごく最近生じたものなのです。本章でみなさんのアフガニスタンへの視点が少しでも変わったならば幸いです。


Last updated 2011.12.19 22:55:44
コメント(0) | コメントを書く

高橋財政

今日は高橋財政についてのお話 四章
(注、ガチ経済論ですからひとつひとつ納得いくまでお考えください)

★まず用語の確認から。
為替相場=通貨を売買する市場のこと。円相場は円を買いたい外人顧客があつまる市場、のように。
... 正貨準備=現物の金Au。日銀の地下室に蓄積、円の信用の根拠。
平価  =金Auと紙幣との交換比率(法律で国内で決める)
金本位制=金Auと紙幣を対応させる(平価を設ける)制度 
管理通貨制度=日銀が任意に交換比率を調整していく制度
::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::

 壱  戦後恐慌、震災恐慌、金融恐慌

 時は昭和初期(1920~30年代)。第一次世界大戦の大戦景気が終わり、インフレ状態が慢性化すると(軍事費は国が恣意的に発行できるから)1920年代からインフレに加えて戦後不況に陥った(WW1でアメリカ市場や中国市場が後退し輸出縮小となったから)。

 こんななか23年に関東大震災が発生し、一般企業の手形(銀行が発行)の返済が不可能となった。この結果、日銀の融資を市中銀行(普通の銀行)が決済できなくなり「震災恐慌」が生じた。事態の収拾のための議会で、蔵相片岡直温(なおはる)が「渡邊銀行は破綻する」と失言したため、取り付け騒ぎに。この影響で渡邊銀行を含むいくつかの銀行が休業し、恐慌はさらに悪化した。
 台湾銀行緊急救済勅令案が枢密院により否決されたことが決定的だった(下関tr.で台湾は日本領)。この結果、台湾銀行まで休業したため「金融恐慌」が最高潮に達したのである(ちなみにこのとき第一次若槻礼次郎内閣は総辞職)。
 次期田中義一内閣で高橋是清が蔵相に起用されモラトリアム(支払猶予令)を発し事態を収拾した。



 弐  昭和恐慌

 相次ぐ恐慌のなか、日本はインフレと不況で
1為替相場の動揺・下落(円の信用失墜→円需要?→円の価値?のため)と
2輸入超過(インフレ→高物価→商品の国際的競争力低下のため)
という不健全な経済体質を有していた。

 ところでWW1以来日本は金本位制から離脱しており、まだ金輸出は禁じられていた(軍事費を恣意的に発行するには、兌換紙幣と正貨の交換比率(=平価)を解除しなければならないから、戦時には多くの国が金本位を一時放棄します)。ここに注目したのが井上準之助蔵相であった(浜口内閣、民政党)。
 戦後インフレで為替相場では円安が進行するなか、大戦以前に停止した平価のまま金輸出を解禁する(つまり、正貨準備は一定で、円紙幣は増加しているのに、円の金との交換比率だけを高く法律で設定することになるから、円相場は一気に跳ね上がり、深刻な円高となるのです。複雑です。)
 

 蔵相井上は
1 金本位制への復帰により円相場の安定化を図り、

2 緊縮財政によって産業の合理化(経営不振の企業を放置して、不況下の自然淘汰にまかせること)と物価引き下げを行い輸出拡大し☆、

3一時的な景気後退を覚悟して景気回復後の健全な経済体質を期待して、
旧平価での金解禁に踏み切ったのである。

しかし、急激な円高と世界恐慌が重なったため、井上の政策は机上の空論で終わった。結論から言うと、景気後退後、回復期が訪れなかったのである。

1輸出は絶望的になり入超が悪化し正貨が大量流出
2企業倒産が相次ぎ(これは当然。意図したこと)、
3失業者の農村流入と農産物価格の暴落(豊作飢饉)から「農村恐慌」が発生

これらの結果、昭和恐慌がおとずれたのである(農村では女子の身売りや欠食児童が社会問題化した)。




 参  高橋財政

事態収拾のために浜口内閣では重要産業統制法が出され、次の犬養毅内閣では蔵相に高橋が起用され、金輸出再禁止が発令され管理通貨制度に移行した。
高橋は
1積極財政(軍需産業を中心に設備投資し他の支出を抑える)と
2低為替政策(円安に誘導する)による輸出拡大☆

を行うことで、景気回復に成功しいち早く世界恐慌も脱したのである。

高橋財政の歴史的意義は、重化学工業の成長(33年には繊維産業をぬく)、新興財閥の成長、管理通貨制度への移行であろう。


Last updated 2011.12.19 22:54:47
コメント(0) | コメントを書く

学問の本質がヨーロッパで生まれたとお考えの人のためのお話  (1)

今日は学問の本質がヨーロッパで生まれたとお考えの人のためのお話 三章

 今からタイムマシンにのって大昔、古代ギリシアに行ってみましょう。
時は紀元前6世紀、ペロポネソス半島のアテネへようこそ。「学問」とは一番初めは自然現象を説明するための自然哲学でした。学者が物事の本質(アルケー)をとらえようとしたのです。こうした学者の中から、ソクラテス、プラトン、アリストテレスなどが出てきたわけです。とくにアリストテレス哲学は非常に論理的で、後世さまざまな書物の範となりました。

... さて学問の基本姿勢が整ったところで、紀元7世紀前半、パレスチナにタイムスリップ。622年に重大な事件が起きました。イスラム教の成立です。もちろん先のアテネは紀元前5世紀初頭までには解体(ポリス社会なので滅亡とは表現しない)してしまいました。8世紀には広大なイスラーム帝国ウマイヤ朝が成立しました(東はガンダーラ地方、西はイベリア半島、南はエジプト)。さらに9世紀にはアッバース朝がこれに代わり、イスラーム世界は最盛期を迎えます。ここで問題なのはアテネの学問の行方でしょう。実はアリストテレス哲学などはイスラーム教徒の学者(ウラマー)に吸収・継承され、失われずに済んだのです。
 アッバース朝の都、バグダードには学問研究所「知恵の館(バイト=アル=ヒクマ)」が設置され「外来の学問」は目覚ましい発展を遂げます:

インド数学(ゼロの観念、10進法、インド式計算)やイラン数学(60進法)、錬金術(化学の知識の集積、アル-カリ、アル-コール、アル-ケミーなどはアラビア語)、エウクレイデス幾何学(ピタゴラスの三平方とか、ユークリッドとして現在では教えられる)、天文学(太陽暦と太陰暦を合わせた太陰太陽暦)、ヒポクラテスのギリシア医学、など世界各地から知識がバグダードに集まり統合・再編されたのです。1、2、3、4、5、6、7、8、9、0が「アラビア数字」である理由も実はこの時代に根拠があります。

 
さて視野をヨーロッパまで広げると、さらに面白いことがわかります。
11世紀に入るとイスラーム帝国が解体します(世襲カリフ制に不満が募ったのでしょうか)。同時に10数個の王朝が誕生します。このなかで台頭したトルコ系(これは4世紀中国の北方騎馬民族「突厥(とっけつ)」に由来)セルジューク朝はビザンツ帝国(もと東ローマ帝国、キリスト教世界)を脅かしました。当時西ヨーロッパでは神聖ローマ帝国という形式上の帝国がありローマ教皇(神聖ローマ皇帝は教皇の承諾で就任)が頂点にいました。教皇ウルバヌス2世はビザンツ皇帝からの援助要請を受け、いわゆる「十字軍」派遣を決意します。十字軍の意味は山ほどありますが、学問という切り口でとらえようと思います。十字軍の過程でシチリア島のパレルモ(ノルマン人による奪回)やイベリア半島のトレド(レコンキスタで回復)
が主戦場になったため(衝突)、同時にキリスト教世界とイスラム世界の文化的衝突(交流)が生じ、中世ヨーロッパに学問が流入することになりました。
 ところで、中世ヨーロッパでは学生主体の自治組織(ウニヴェルシタス)が形成され始め、現代に通ずる大学がうまれました。有名なのは、神学のパリ=ソルボンヌ大・オクスフォード大、法学のボローニャ大、医学のパレルモ大です(パレルモ大の授業ではアラビアの学者イブン=シーナーの『医学典範』が使われたそうです)。アラブからの文化流入に対応して、パレルモやトレドではアラビア語文献(といっても古代ギリシア文献のアラビア語訳)のラテン語訳が行われ、ヨーロッパ全域でもラテン語の習得が叫ばれるようになりました。いわゆる「12世紀ルネサンス」が現出したのです。

こうして考えると、我々が今日学ぶ学問の歴史は気の遠くなるような長大なもので、盤石な根拠をもつ真理を継承するための唯一の手段のように思われます。


Last updated 2011.12.19 22:50:10
コメント(1) | コメントを書く

一覧

Powered By 楽天ブログは国内最大級の無料ブログサービスです。楽天・Infoseekと連動した豊富なコンテンツや簡単アフィリエイト機能、フォトアルバムも使えます。デザインも豊富・簡単カスタマイズが可能!

Copyright (c) 1997-2012 Rakuten, Inc. All Rights Reserved.