沖縄の戦跡巡拝父の念願だった友人の戦死の地を巡る一日は、真っ暗な朝から始まった。早起きの父は、5時には目覚めてウロウロし始めたけれど、 沖縄の朝は遅い。 カーテンを開けても真夜中のようにまっくらなので、 思わず時計が狂ったのかと思ってしまった。 個人タクシーのUさんが迎えに来る時間は8時だというのに、 父も母も一時間も前からスタンバイ・オーケー状態。 それでも、Uさんもそれを予想されたのか、 約束の時間より30分も早くロビーに来てくれた。 早速、父が持参してきた資料やUさんが用意してくれた資料などを持ち寄って、 1日の予定について打ち合わせてから出発する。 Uさんは平和ガイドのベテランで、私と同世代(つまり戦後生まれ)だけれども、 実に実に沖縄戦や軍隊について詳しくて、 本当に素晴らしい人にお願いできたと心から嬉しく思う。 沖縄戦の全体像を把握するために、 浦添市の高台から父の友人の部隊が戦況の変化によって移動した経緯や、 その場所などの説明を受け、 その後次々と陣地跡や激戦地の前田高地、八重瀬の塔、山雨の塔、 南北の塔、自決した場所と思われるガマなどなどを巡る一日となった。 父は失語症なので、自分が思っている言葉が口に出なかったり、 数字がめちゃくちゃになってしまうのだけれど、 不思議なことにUさんに説明を受けたり、それに質問したり、 自分の体験を語る時に言葉がスラスラと出てくることに 私と母はビックリした。 きっと、友人達が「良く来た、良く来た」と取り囲んでくれて、 父の言葉の手助けをしてくれたのではないかと、冗談抜きで思う。 この地で、絶望的な戦況の中で、 住民達と一緒に逃げ惑いながらも修羅となって戦わなくてはならなかった人たち。 その人たちの無念で悲惨な運命を体感した時、 私の心の中には言いようのない怒りと悲しみが込み上げることを抑えられなかった。 父は、いくつもの碑やガマの前で、持参したろうそくやお線香をあげ、 持参したお酒をかけ、じっと手を合わせていた。 私もその後ろで手を合わせながら、 元気なときは戦争の話をほとんどしなかった父の心中を思った。 父達は師範学校を出てすぐに召集されたため、 教育を受けたあとで少隊長・中隊長などの地位にあったようだ。 つまり、少なくはあっても部下を指揮する身であり、 戦闘にあたっては率先して戦わなくてはならない立場だったようだ。 そのようなことも含め、父の体験を今回の旅で初めて聞くことが多かった。 初めて聞くことばかりだったので正しくここに書くことはできないけれど、父達のように学校である程度の教育を受け、 戦況についても「大本営発表」だけではない現実を知っているものが、 無謀であまり意味のない殺し合いの中に身を置かなくてはならなかった時、どのように自分を納得させていったのだろうか。 昔も今も、国家は国民を守ってはいないのではないか。 国家という「体制」を維持することは、 国民を守ることと本当に一致するのだろうか。 沖縄の人たちの多大な犠牲の上に立っている日本という国は、 戦後五十数年で貴重な戦争の教訓を忘れてしまったようだ。 私達が歩いた場所には、観光客の誰一人として訪れてはいなかった。 きっと「ひめゆりの塔」には多くの観光客が訪れて手を合わせているのだろうが、 同じように女子学徒が傷ついた兵隊達の看護をして、 兵士と一緒に自決したという「白梅の塔」の前にたたずむのは、 私達だけであった。 まだ、不発弾も遺骨もそのままになっているガマが 数多く存在するという沖縄。 沖縄に住む人でさえ、 その歴史やそれが伝える戦争の現実を考える人は少なくなっているらしい。 とても重たい一日ではあったが、父は期待以上の情報を得、 思いがけない場所も訪れることが出来て、 「これで死んでもいい」と満足そうだった。 丁寧な説明をし続けてくれたガイドのUさんには、心から感謝したいと思う。 ( 2004年02月20日) ジャンル別一覧
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