映画「ハンナ・アーレント」友人と、以前から見たいと思っていた「ハンナ・アーレント」を札幌のシアターキノで鑑賞。椅子席を出すほど、満員であった。 ハンナ・アーレントの名前は知らなかったのだが、新聞の映画紹介欄で 「ハイデガーの弟子で彼と一時不倫関係にあった」というような記事を読み、 ハッと思いだしたことがある。 まだ慶應通信で勉強中に、講師派遣学習会でハイデガーについての話を聞いた時、 彼が大戦中にナチスに協力して戦後批判を浴びたことや、 教え子と関係を持ったというようなエピソードを聞いたような気がしたのだ。 実は、その時の学習会は帯広で開催されて、 私はハイデガーのことを少しは知りたいと泊まりがけで参加したのだが、 心に響かなかったのか私の理解能力がなかったせいか、ほとんど覚えていないし、 そのエピソードを聞いただけでも、 深く考える哲学者もまた、平凡な人間なんだなという印象を抱いたので、 その後ハイデガーをもっと知りたいとも思わなかったのである。 そしてこの印象は、この映画でもまた強化されたわけである。 ハンナ・アーレントは第2次世界大戦中にナチスの強制収容所から脱出し、アメリカへ亡命したドイツ系ユダヤ人である。 彼女がナチス戦犯アドルフ・アイヒマンの裁判を傍聴して書いた記事は、 ユダヤ人社会はもとより全米から激しい批判を浴び、 大切な友人すらも去ってゆくような苦しみの中でも、 毅然としてアイヒマンの個人攻撃ではなく、 彼を通して人間の持つ「悪の凡庸さ」を主張し続けた。 アイヒマン裁判の実際の映像を使っているので、彼が発する「悪の凡庸さ」がリアルに伝わってくる。 映像のアイヒマンを見ていると、何人かの面影が脳裏に浮かんだ。 言われたことは忠実に正確に行うけれど、自分がやっていることの意味を考えることを意識的に放棄しているようなあの人・この人…。 言われたことを正確にやることが職務遂行の基本と信じている人。 このようなタイプの人は、実は今まで私が仕事などで出会った人の中には少なからずいる。 それは、私の住む町の地域性にもよると思うが、 根っこは善良で真面目な人たちなのだ。 集団の中で出る杭になることを注意深く避け、 自分が責任をとることをできる限り避けようとするタイプの人たちである。 そしてそれは、たぶん多くの日本人に共通する傾向ではないかと思うし、 この私もその範疇にあることを自覚せざるを得ない。 そのようなタイプの人間が、自分達の社会の責任を取ってくれる強いリーダーを求め、 抑え込んでいる自我のストレス発散を、弱い立場の人たちや、出過ぎた杭に向けることが多いのだ。 毅然として「悪の凡庸さ」を主張し、バッシングの嵐にも決して節を曲げようとしなかったハンナ。 このような人がいたのだということに、私はとても感動したし、 人間に対しての希望をつなぐこともできるような気がした。 映画の中で、古いユダヤの友人から「君はイスラエルや同胞をを愛していないのか?」と問われ、 「一つの民族を愛したことはない。私が愛するのは友人だけ」と答えるシーンがある。 それでもそのユダヤの友人は彼女に背を向けるのだが、 ドイツ社会で生まれ育ち、そのドイツから迫害を受け、アメリカに亡命し、 その中で自分の生活や思索を深めてきた彼女の言葉には、強い説得力があると思う。 現在の日本の状況、そして紛争の絶えない世界の現況を救えるのは、 彼女の信念にキーワードがあるように思う。 私達が何かをできるのは、身近な家族・友人・地域社会にしかない。 そして、その中で自分が感じていることを発信してゆくしかない。 身近な人たちが自分を非難することがあっても、 本当に自分を信じて支えてくれる人が一人以上いたなら、きっと耐えられる。 そんなことを、この映画で感じていた。 2014年01月09日 ジャンル別一覧
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