納棺の日の朝、上の甥(兄の長男)が不思議な体験を教えてくれた。
兄の事を考えながら寝入ってしまった昨夜。
ストーブも点けっ放しで眠ってしまったようだ。
朝起きるみると、ストーブの火は消えていた。
これは納得が行く機能であるらしい。
ところが、腑に落ちないのは窓が開いていたという事。
まるで、酸欠になるのを防ぐように開けられた窓。
本人には当然のように、ストーブを点けたままで窓を開けた記憶なぞない。
彼は、寝ている間に父親が会いに来たのだと主張していた。
もう一つの不思議が起きていた。
他界から明けた日、慌しい中での食事を作って来てくれた、叔母の話だった。
朝早くに、ご飯が炊けている筈だった。
ところが、どういう訳か炊飯器の中は水と米のまま。
手動でもう一度試みるが・・・いつまでたっても熱が入らない。
こういう、ご飯にまつわる話は、珍しくないらしい。
今回のように炊けなかったり、水の分量を間違ってもいないのに、粥のようになってしまったり。
酷い時には、炊き上がりの時間に、既に腐敗してしまったという話も有るのだという。
ご飯が主食の、日本特有の現象なのだろうか。
納棺では、家族がみんなで身体を拭き清め、死出の衣装に着替えさせる。
顔の艶はそのままなのに、身体はことごとく冷たく、抜け殻である事を主張しているようだ。
手足は、これ以上無いという位に細り、腕も足も骨の形がそのままに見えている。
膝関節だけが大きく、瘤のように自己主張をしていた。
衣装を着替えている間に、父が大きくシャクリ上げながら泣き出し始めた。
母が悲しんでいるだろうと思うと、可哀相で泣かずにはいられなかったと言い訳をした。
父は、昨年の夏にくも膜下出血から水頭症を引き起こし、全てが自分中心でしか考えられない。
その父にとって、可哀相なのは兄ではなく、泣き出してもいない母の事だった。
棺おけに納まった兄は、益々穏やかな表情になったように見えた。
兄には、常に一緒に有った趣味として、ギターが有った。
何本か所有しているもののなか、部屋にも3本が飾られたままだった。
再発して治療が完治を目的とするものでなくなった時、兄は癌センターまで出て来ている。
結果は、それまでと同じように延命為の治療を続けるのが良いという判断だった。
半ば想像していた通りの回答を、確認しただけだった。
その時は、本人も最後の長旅と覚悟していた。
その旅の最後に、これまで頑張って生きて来た自分への褒美として、1本のギターを買った。
自慢の30万円のマーチン。
会社でも、若者達に自慢していたマーチン。
しかし、そのマーチンは一度もお披露目の場を貰えなかった。
兄の棺の横に、マーチンを飾ってやった。