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仕事が楽しくて仕方がない人を一人でも多く増やす

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インドネシアでの生活

バンドンという都市は比較的高地にあるので、インドネシアといっても比較的涼しいんです。朝は冷え込んで寒いくらいの時がありました。

大抵のものはありますので、生活に困る事はありません。ただ、日本語に触れる機会がほとんどないので、日本のビデオとか本は手に入るとむさぼるように見たり、読んだりしていました。なんせ日本の本は現地で買うと2倍以上の値段がしますから、滅多に買えません。

紅白歌合戦のビデオを送ってもらったことがあります。このビデオを何十回も見た覚えがあります。夫婦で感想を言い合ったりして、まあ、今を思えばなんであれほど繰り返し見ることができたのか不思議です。食事も日本の物はありませんので、ジャカルタに出たときは寿司を食べるのが本当に楽しみでした。日本から出張でくる人に日本品のお土産をもらうと本当にうれしかった。

バンドンにある日本人小学校の運動会を見たことがありました。日本人は10人くらい。生徒は一生懸命やっていました。日の丸をあげて君が代を聞いたときは日本にいたときに聞いた君が代とはまったく違う趣がありました。とても感動するのです。

現地の人はイスラム教徒の人が多く、朝は早くからコーランが響き渡ります。よくシャワーを浴びてました(マンディといいます)。

ある日庭に真っ黒な大きな物体が気にぶら下がっているのが見えました。なんだなんだあれは??と思って近づいていくと突然羽を広げてバサバサッツと飛んでいくのです。いわゆる「吸血コウモリ」と言われている、羽を広げると1mくらいある大コウモリでした。床にはよくなめくじ、それも10cmくらいある大きなナメクジがよくいました。それも慣れてくるとさして気にはなりません。庭にはパパイヤの木があって、食べてました。

湾岸戦争が勃発したときはかなり緊張感が走りました。とくに日本人は裕福と思われているので襲われる可能性があるといわれていました。しかし、実際には現地の人はとても親切で、まったく身の危険を覚えるようなことはありませんでした。ラジオを注意して聴くくらいで、まったく普通の生活をしていました。

そうやって一年がたったころです。妻には子供ができていました。いろいろ考えたのですが、やはり安全を考え、日本に返して産むことにしました。

そうやって妻の帰国を終わらせ、さてひとりでしばらくはがんばろうと思っているころです。持病だった肝炎が再発してきたのです。

当時私はインドネシアに赴任する前から肝炎が出ていたのですが、まあ、日常の仕事には問題なかろうという産業医の判断で、赴任の許可がおりていました。

だんだんと体がおもくなって、やる気がわかない。こりゃちょっとまずいかなと思って、病院のチェックをしたところ肝機能数値が悪い。いろいろと考えた結果、日本に帰って入院し、治療に専念することにしました。

そんなに長くはかからないだろうとタカをくくっていたのですが、予想に反して長い療養となりました。




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